強い日差しと少し冷たくなってきた風に晩夏を感じる日。
九月といえどまだまだ暑くじっとしているだけでもじんわりと汗が滲み、薄手の制服が張り付くがそんなものは瑣末に思えるほどにわたしの心は満ちていた。
なぜなら
「気持ちいいわねぇ、八重垣さん」
落ち着きの中に温もりを感じる声、気品に満ちた香り。
ダリア=バスキア。わたしの憧れであり……想い人。
至福に決まっている。
情愛を抱いた相手との……デート、なのだから。
書痴仲間が紹介しクラスメイトとの水遊びに来た湖。以前にはアミティエと共に過ごした桟橋に腰を下ろしあの時と同じように足を湖に浸しながらわたしは
「そうですね、ダリア先生」
バスキア教諭、ではなくあえてそう呼んで何かを要求するように隣に座る想い人を見つめた。
「気持ちいいわね、えりかさん」
言葉にせずとも私の意図を察してくれる彼女はそう言い直しわたしは満足げに「えぇ」と頷いて、わたしの心のようにキラキラとした湖面に視線を戻した。
アミティエと話しをした時にはこういった場所を苦手と評したが今はそんなことを思わない。
ホラー映画の一場面と思ったこの状況も、恋愛小説の場面と断言できる。
それほどまでにわたしの心は幸せに満ちている。
(……過分なほどに、な)
それをどこか他人事のように思っていると
「っ……!」
不意に橋に置いていた手に暖かなぬくもりを感じた。
母性を感じさせる暖かな手がわたしの手に添えられている。
「本当に綺麗なところね」
「……えぇ」
以前ここを訪れた時にもいいところだとは思ったがあの時の比でなく、わたしには目の前の世界が輝いて見える。
あの時と景色自体は変わっていない。
変わったのは
(……わたしの心、か)
月並みな表現しかできないのが申し訳ないが、何をするかではなく誰とするかということが重要らしい。
「ふふ、えりかさんと一緒にいるからかしら」
「っ!」
ストレートな好意が形いい唇から伝えられ、私は無垢な少女のように赤面してしまう。
この人の前ではいつもそうだ。
自他ともにひねくれていると認められるわたしだが、この人の前では一人の少女に戻されてしまう。
「……先生」
そのことを不快には思わず、むしろ好意的に感じながらわたしは彼女へと体を寄せると、大人の女性を感じさせる香りと母を感じさせる柔らかく暖かなぬくもりが動悸をもたらす。
「……本当に綺麗です」
陶然とわたしはそう述べる。
するとダリア先生もわたしに体重をかけ、互いの重さと不自然に熱くなった体を感じあう。
「……………」
その後、わたしたちの間に会話は多くなかったが、そこには確かに密な雰囲気があり、何度も言うように幸福を感じている。
暑い日差しと心地いい風。
足を冷たい水に浸し、上半身は好きな人の温もりを感じ、目の前には広大な湖。
まさしく恋愛小説のワンシーンだ。
天上世界にいるようなそんな現実感のないほどの幸福。
(……まるで……)
「まるで世界に私たちしかいないみたいね」
耳朶に響く、わたしにとって都合のいい言葉。
「……えぇ」
もしそうだとしたらどれだけ素晴らしいことだろうか。
その瞳がわたしだけを見つめてくれるのなら……
柔らかな手が、暖かな心が、すべての人に等しく注がれる愛が、わたしだけに向けられるのなら……世界にはわたしたちしかいらない。
(いや……【今は】そう、か)
客観的に自分を見つめる自分がそれをようやく自覚する。
【今は】そうなのだ。【この世界】にはわたしたちしかいない。
だからわたしは
「ダリア先生」
甘く【恋人】の名を呼び
「えりかさん」
彼女もそれに応えるかのようにわたしを呼んだ。
その金の瞳がわたしだけを写す。
吸い込まれるような心地の中、ダリア先生の手がわたしの頬に添えられ、ゆっくりと目を閉じた。
彼女も同様に瞳を閉じるとゆっくりとその唇を、わたしの唇へと近づけていく。
そして………
意識が途切れた。
(いや……)
戻ったというべきだな。
カーテンの隙間から月の光がさしこむ部屋の中で目を覚ましたわたしは諦観を称えた笑みをこぼす。
ベッドの上で上半身を起こし「ちっ」っと小さく舌打ちをする。
「また、この夢かよ」
正確に表現するなら、またこの種の夢かということだ。
いつしか見るようになった夢。
現実では望むこともできない夢のような夢。
想い人と心を通じ合わせることができた夢。
バレエの発表会以降こうした類の夢を見るようになっていた。
留保なく私の告白は砕けた。しかし、想いが叶わったとしても想いが消えるわけじゃない。人間はそんな都合よくはできておらず彼女への想いは告白する前と変わらずこの胸の裡に存在する。
叶わないとわかっている想いが。
その想いが夢想をさせる。
わたしにとって都合のいいバスキア教諭。わたしの欲しい言葉を口にし、わたしの望むことをする。
そんな夢をわたしは見続けている。
時や場所のシチュエーションは違えど、それは同じ夢。
二人で過ごす甘い時間。語らい、触れあい……そして、同じところで目を覚ます。
「……当然か」
自嘲気味につぶやき悔しさに目を伏せた。
わたしは知っている。
少女のような母のような温柔な金の瞳を。
誰よりも優しく暖かな心を。
柔らかな指の感触を。
手の甲に唇を受ける触感すら。
だが
わたしは知らない。
ダリア=バスキアの唇を自らの唇で感じるその感覚を。
だからいつも夢は同じところで終わる。
夢の続きを神に祈っても、おそらく続きを見ることはない。
「っく……」
そのことを誰よりも知っていても、わたしは想いを捨てることなど考えられず
「ダリア…………………先生……」
情愛を抱く相手の名を呼びながら胸に宿る疼痛に涙するしかなかった。