わたしにとって本はこの世で最も特別な存在の一つだ。
足の不自由なわたしを世界と繋げてくれる。
本とは娯楽であり、勉強であり、時には友や、師のようでもある。
この学院に来てわたしには友人も、本当の意味でのアミティエもできたがわたしにとって本が特別だということに変わりはない。
素晴らしい本との出会いはわたしが生に感謝する数少ない機会だ。
それほどわたしは本を愛しており、読書を阻害されるということはこの世で最も忌むべきものの一つなのだ。
そんなわたしは今日も自室で本を読んでいる。
千鳥や白羽達との時間も今やわたしにとって心を満たしてくれるものだが、読書の意味がわたしの中で変わることはない。
というよりも千鳥を初め他人との仲を深めたからこそ改めて本は面白いと思う。人と付き合うのとはまた別の出会いも楽しみもあるのだ。
特にひとたびその世界に捕らわれてしまえばすべてを優先してでも読み進めたいと思わせてくれる。
そして、今読んでいる本はわたしにとってそういった類の本だ。
正直千鳥が部屋にいない間暇つぶしにと思っていただけのものだったが、見る見るうちに世界の中に引き込まれてしまった。
千鳥はすでに部屋に戻ってきているが、出迎えの挨拶以降はほとんど会話もせずにわたしは窓辺で本の作り出した世界にひたっていた。
「えりか」
わたしが本を読むことを好むことを知っている千鳥は戻ってきてからしばらくは大人しくしてくれていたが痺れをきらしたのか、ピンと筋の通った声でわたしを呼ぶ。
「何だ」
「つまらないわ」
(これまたストレートな言い方だな)
わたしも口は悪い方だがこんな風に気持ちをストレートに出したりはできない。
「見ての通りわたしは読書中だ。つまらないのならお前も本を読むなり、勉強するなりしたらどうだ。なんなら白羽たちの部屋にでも行って時間をつぶしてきたっていいぜ?」
これは口が悪いと言うよりは性格が悪いと言われてしまう言い方だとあとから思うが、今はこいつに応えるつもりはない。
「……なによ、えりかは私の相手をするよりも本を読む方がいいっていうの?」
明らかに不機嫌な千鳥の声にわたしは栞を挟んで一度本を閉じる。
「そういう話をしてるんじゃねぇだろ。今はこっちに集中したいってだけだ」
「それが私より本が大切っていう意味でしょう」
……ったく、こいつは。
「拗ねてんじゃねぇよ。お前の方が大切に決まってんだろ」
「えっ……あ、ありがとう」
頬を赤らめもじもじと女らしい反応を見せる千鳥と対照的に私は心を乱すこともなく思う。
(まぁ、こういっときゃ満足だろ)
そもそも嘘ではなくともこれらは比べる対象ではない。大体無機物と有機物を比べるというだけでナンセンスだ。
わたしはとりあえず話は終わったと今度は千鳥に背中を向けて本の世界に戻って行こうとするが
「ちょっとえりか、なんで本を読むのよ」
さっそくへそを曲げたえりかにとがめられてしまった。
「わたしの気持ちは伝えただろ。今は本を優先するが大切なのはお前だ。お前はわたしを信じて待っててくれればいい」
言葉だけを聞けばそれこそ本にでも出てきそうなセリフだがそこに優しさはなく、それを千鳥がどう感じるかは冷静になれば考えるまでもなかった。
「…………」
ただ千鳥はすぐには行動に移さずわたしはようやくおとなしくなってくれたかと油断し、しばらく本に集中し背後に迫る影に気づかない。
「……はむ」
不意に耳元に感じた湿り気のある暖かさ。
「?」
一瞬何が起きたかわからなかったが、頬を撫でた髪から白桃の香りがして
「っ……!!!」
思わず手にしてた本を床に落として振り返った。
「………お前っ……」
睨みつけるように千鳥を見つめるが、感情が混線し言葉にはならない。
何をされたのかは明白だ。
こいつに……千鳥に耳朶を噛まれたのだ。
背後から迫りわたしの耳朶を甘噛みし、しかも口に含んだまま舐め上げやがった。
(っ………)
具体的にその光景を頭に思い浮かべてしまったわたしはかぁっと頬を朱色に染める。
「なにしやが……っ!」
「えりかがいけないのよ、わたしを寂しくさせるから」
咄嗟に文句が口をついたがそれより先に千鳥が次の行動に出た。
「覚悟なさい」
「ぁ……んっ…あぁ、わ……ひゃぁ……ん」
千鳥の細い指がわたしの体を撫でまわす。
「やめ、っあ、あひゃ…あぁ……んっ」
首筋を優しく撫でられ、そのまま脇の下、脇腹へと繊細な指がわたしを責めたてる。
「っふは……ひゃああ、や、やめろ…っって…ふひぁあ。そこっ…は!」
くすぐったさと共に、ゾクゾクとした感触が体を駆け巡り声が止まらない。
「やめ……っぁ、っふは……ははっは……そこは、弱いんだって…っんぅ…あは、ひゃぁっ! …みみに……息を吹きかける、なぁ……ふは、あはっは……」
時間にすれば長くはなかったんだろう。だが、体感的にはもう何分も千鳥に責められ続けた様な気分でようやく解放された時には呼吸も荒くすでにグロッキーだ。
「………お前、なぁ……」
それでもわたしは屈することはなく苦々しく千鳥を睨みつける。
だが、千鳥はわたしの視線など気にもしないかのように
「どう? 私をないがしろにするとこういう目に合うのよ」
と、悪びれた様子もなく言いやがった。
わたしはその様子を見て小さくため息をつく。
やっかいなことだがこいつにとって今のは愛情表現でもある。
くすぐられて笑ってしまうのは相手に好意を抱いているから。
双子のやかましい方に教わったことを真に受けて、一度味を占めた後には何かにつけてやってきやがる。
相手への好意云々のことは事実なのかもしれないが、くすぐりってのは元来そんないいもんじゃない、実際呼吸は苦しくなるし、疲労感もかなりもものだ。過去には拷問に使われたことだってある。ついでに言うなら性的嗜好の一つでもあるらしいがそこは余計な話か。
「……だからしたつもりはねぇっての」
「あら? まだくすぐられたりないの?」
「っ……」
千鳥の容赦ない一言につい身構える。不快に感じることはないが、正直言って苦しいのは事実。できればこれ以上はごめん被りたい。
とはいえ、わたしはいわゆる天邪鬼だ。請われて素直にというのも性分に合わない。
「あのな、盛り上がってるところで本を止められるってのはコース料理のメインディッシュを前にして食べるなって言われてるのと同じことだぜ。少しはわたしの気持ちも考えてくれよ」
「それなら私だって同じだわ。えりかっていうごちそうを目の前にしておあづけなんて、それこそ耐えられないわ」
「……何をする気だお前は」
言葉のあやであるのはわかっているが、どこか背筋に冷たいものが走る。
「とにかくだ、今日のところは勘弁してくれ。後三十分もすれば相手をしてやるから」
「仕方ないわね。好きな人の気持ちを尊重してあげるっていうのも恋人としては大切なことだろうし」
(……それをお前が言うのかよ)
と、口にするとややこしいからここは黙っておいてやろう。
なにはともあれ納得してもらえたとわたしは心に隙を作り、
「まぁ、あれだ。詫びに今度お前の言うことを一つ聞いてやるよ」
あまりに迂闊な一言を発してしまう。
「え? なんでも、いいの?」
瞬間、千鳥の目が待てを解除された子犬のように輝く。
「っ、で、できることならだぞ。あと、常識の範囲でな」
悪寒が走ったときにはすでに撤回できない状況でせめてそんなことを口にする。
「そのくらいはもちろんわきまえてるわよ。えりかに無茶なことなんてさせるわけないじゃない」
「っ……くれぐれも常識の範囲、だぞ」
「念を押さなくたって大丈夫よ。ふふ、楽しみだわ」
「…………」
正直言って不安しかないが、自分から言ってしまった手前今のはなしだとも言えず苦虫をかみつぶした顔で黙るしかない。
「それじゃあ、えりかの邪魔にならないように私は出ていくわ。そうね、白羽さんのお部屋にでもお邪魔しようかしら」
言うが早いか千鳥は楽しそうに部屋を出て行ってしまう。
「…………………」
一人残されたわたしは反射のように本を開くが
(……早まった、か?)
千鳥に白紙の小切手を渡してしまったことが気になって結局楽しみだったはずの本の内容がまったく頭に入らなくなってしまうのだった。