「それで、もうキスは済ましたのかい?」

 

 それは図書館でのひと時。いつものようにほとんどの時間をすることもなく本に当てていた私のもとにえりかさんがやってきた。

 当初は、他愛のない話をするだけだったのだけれど

(余計なことを言ってしまったわ……)

 えりかさんは何の意図もなく、「もう閉館時間じゃないのか?」とただ疑問を口にしただけだった。

 なのに私は答えたのは

「立花と待ち合わせしてるから」

 迂闊なこと。

 いいえ、言葉だけならそんなにおかしなことじゃなかったわ。マユリさんや紗紗貴さんたち、えりかさんには私たちの関係は伝えてあるから。

 でも、

「随分嬉しそうじゃねぇの」

 態度がまずかったらしい。

 自覚はなかったのだけど、私は随分緩んだ顔をしてたらしくえりかさんのからかいの標的になってしまった。

 それからは根掘り葉掘りというわけではないのだけど立花とのことを聞かれ、流れから件のことを聞かれてしまったのだ。

「っ……」

 言葉じゃなく、頬を羞恥に染めて答える私。

「なるほど、まだなのか」

「そ、そんなのはまだ、早いわよ」

「ふぅん。けど、あの時とは違って今度はホントに付き合ってんだろ? なら、そろそろしててもいいんじゃねぇの?」

「それは…」

 肯定するべきか、否定するべきかわからない。立花と本当の意味で付き合い始めてから数週間。私の知る本や映画の中ではその期間があれば十分に関係を進めたりもするけれど、実際のお付き合いなんてこれが初めてだから基準がわからない。

 そんな風に答えに窮する私をえりかさんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「……ある調査じゃ付き合ってから平均三週間くらいで一線を越えるらしいぜ」

「っ! い、一線って………」

 彼女の言葉の意味を測りかねて私は更なる羞恥に頬を染めた。

「今、お前が考えたようなことだよ」

 相も変わらずに意地悪な笑みをたたえるえりかさんに私は

(さ、三週間……?)

 たったそれだけの期間で……? キス、というのなら数週間というのもわからないでもない。でも……それ以上のこと、なんて……そもそも、それ以上のこと……

(立花とキス……以上のこと、なんて……)

「っ……」

 顔から火が出るとはよく言うけど、本当にそんな気分。してはいけない想像に顔と言わず体中が羞恥の熱で真っ赤に染まる。

「おっと、三週間じゃなくて三か月だったかな?」

 えりかさんは私が期待通りの反応を示したことに満足したのか、くっくっくとわざとらしい笑いをする。

(ここは、「もうっ」って怒るところなのかもしれないけど)

 ……三か月でも考えられないわ。

 もちろん、それは嫌とかそういう意味ではなくて単純にそういうことには疎くて想像が働かないだけ。

 とはいえ、やっぱりからかわれたのだとわかると少しだけ羞恥の熱も引いてくる。

 というのに

「まぁ、冗談はともかくとしても、そろそろキスくらいすませてもいいんじゃねぇの」

 おそらく彼女からしたらこれも冗談の一瞬なのだろうけど実際に相手がいる身としては

(……立花と……キス)

 具体的な想像を思い浮かべてしまうのだった。

 キスってどういうものなのかしら?

 本や映画の中ではいくらでも見てきたけれど、実際に自分がってなると想像がつかない。

 立花のことは好きで、こうして付き合っているのだからいつかはするかもしれないくらいには思ってるけどそれがいつかというようなことは全然考えられなかった。

 えりかさんの言うように、数週間も付き合っていれば自然とするものなのかしら?

(正直に言えば、興味はある……けど)

 これまでそういうことに縁がなかったとはいえ、私だって年頃の娘。気にならないと言えば嘘になる。

 ただ、今までは不思議と意識してこなかった。

 でも、えりかさんにからかわれた今では……

「んっ………」

 目の前で立花が紅茶を飲んでいる。

 今日は寮の自室で二人きりのお茶会。付き合いだしてから二人の予定があう時にはこうすることが多い。

 そう。だから、これはなんでもないいつもの時間のはずなのに。

(どうしても、立花の口元に目がいってしまうわ)

 昨日えりかさんとあんなことがあってから、立花と話すときには自然と視線が同じ場所を追ってしまう。

「蘇芳? どうかした?」

「え? あ、な、なんでもないわ」

「そう? それならいいのだけれど。あ、おかわりはいる?」

「い、いただくわ」

 急に話しかけられて驚いてしまったけれど、どうにか普通に会話をすることができた。

(まさかキスを意識したせいで唇を見てたなんて言えないもの)

 言ってはいけないものというわけではないはずだけれど、そんなことがばれたら羞恥に焼かれてしまう。

 そう考えているうちに立花はお茶のおかわりを淹れるために私の側に来るとテーポッドから私のカップに紅茶を注いで

「…………」

 間近に来た立花の唇をやっぱり見てしまう。

(……綺麗)

 小さくて形の整った薄いピンク色の唇。紅茶を飲んでいるせいもあって、濡れた様子がどこか蠱惑的に見える。

(それとも……私がそういう目で見てるから、なのかしら?)

 立花の濡れた唇なんてこれまでいくらでも見てきたはずなんだから。

(柔らかそう……)

 本では唇はよくそんな風に表現される。ふんわりとしたとか、弾力のあるとか。立花の唇はどう、なのかしら?

「蘇芳? さっきからどうしたの? 私の顔に何かついてる?」

 いつの間にか紅茶を淹れ終えていた立花は私にそう問いかけてきたのだけれど、私は立花の言葉をよく聞いていないで。

「え、えぇ」

 と、頷いてしまう。

「え? どこかしら?」

 私の言葉を真に受けて、ペタペタと頬に触れる立花。けれど、そもそも「何か」なんてないのだからそれは無意味な行為にしかならず

「うーん。自分だとよくわからないわね。取ってもらえないかしら?」

「あ……わかった、わ」

 見間違いだったというのが正しいのかもしれないけれど、気づくと私はそう答えていた。

 そうして、立花の頬に手を伸ばす。

「んっ……」

 触れた頬は少し熱くて、すべすべとまるで新雪のようになめらか。

「なんか、少し恥ずかしいわね」

 面映ゆげに立花が言うけど、私も同じ気持ち。付き合い始めてから一緒の時間は格段に増えたけれど、こうして触れるのはほとんどなかったから。

 その新鮮な感触に私はつい手を離すことを忘れてしまう。

(……立花の肌って本当に綺麗)

 顔についたものを取るという目的で触っているのということを忘れて私はいつしか立花の感触に酔いしれる。

(それに……)

 やっぱり唇を意識し、指が自然とその場所へと……

「あの、蘇芳?」

「っ!!?」

 私の様子を不審に思った立花に声をかけられて私ははっとなると

「ち、違うわ!」

「? 何が、かしら?」

「べ、別に唇に触ろうなんて思ってなんてないの」

「?」

「まして、キスのことなんて何にも……」

「え……キス?」

「あっ……ち、違うの! 別にしたいとかそういうことを思ったんじゃ……」

 勝手なことをしようとしたという自覚のある私はつい妙なことを口走ってしまった。

「蘇芳は、私とキスしたいって思ってくれてるの?」

 混乱し頬を染める私はとは対照的に立花はどこか神妙な面持ちになった。

「そ、そういうわけじゃ……」

 立花の様子の変化には気づいたのに、混乱したままの私は立花が欲しくない言葉を発してしまう。

「したく、ない……のね」

「あ………」

 寂しそうな顔をする立花。それは私が失言をしたからというわけだけじゃなくて、私がこれまで気づいていなかった立花の心が零れたから。

「立花は…………」

 続く言葉はあるはずなのに、声にはならない。私が軽々しく口にしたらいけない言葉。

「……私と、キス、したいって思ってる、の?」

 けれど、私は声に出していた。

 うやむやにしてはいけないってそう思ったの。

 立花は私の言葉を受け止めて……小さく頷いた。

「本音を言わせてもらえばね。あ、でも勘違いしないで。少なくても蘇芳が望んでないのに、どうしてもなんて思っていないから」

 そういう立花の顔には寂しさとせつなさが同居していて、私はあの日を思い出す。立花と関係が変わったあの日を。

 あの日、私は立花からの口づけを拒絶した。それは決して立花のことを受け入れないという意味ではなかったけれど、キスを避けたという事実に変わりはない。

 それが立花の心に傷を残してしまったということを私は気づけないでいたことに気づく。

「……こんなこと言うのは……よくないわよね。忘れて頂戴」

 立花は薄く笑ってそう言った。そこには切なさと寂しさが混ざり合っている。

(私は立花に甘えていただけなんじゃないかしら?)

 立花は恋人としての私を望んでいたのに、私はそれに気づけないで親友から一歩進んだ程度の関係に満足してしまっていただけで。

「もうこの話は終わりにしましょう。紅茶が冷めてしまうわ」

 カップを差し出す立花には暗い影が落ちたままで、胸が締め付けられるような切なさを感じてしまう。

(立花……)

 そんな立花がとても弱々しく見えた。

 今目の前にはいるのは真面目で規律に厳しい委員長でも、紅茶に造詣が深いアミティエでもなく、恋の不安に怯える一人の女の子。

 か弱くて、儚げで、脆さを抱えた私の恋人。

 私も本音を言わせてもらうのなら、キスをするということについてよくわからないと思う自分はいるの。

 興味はあっても自分がしたいって思うかはまた別の問題で、恥ずかしさの方が勝ってしまうのが本当。

 それは本当だけど

(それでも……貴女を愛しく思ったの)

「立花」

 私は想いを込めて立花を呼ぶ。

「す、おう……?」

 私の雰囲気がこれまでと変わったことに気づいた立花は陶然と私を呼ぶ。

 そして、私は立花の頬に手を添えると。

 立花が望んでいるからではなく、

 私がしたかったキスをした。

「……………」

 目を閉じて、唇を重ね合う。

 暖かく、優しい感触と、ほんのりと香る紅茶の風味。

 それが立花との初めての口づけだった。

「…………っはぁ」

 数秒の口づけを終えて私はその感触に酔いながらうっとりと息を吐いた。

(して、しまったわ……)

 自分でしたのにどこか現実感がない。嬉しいという気持ちは心にあるはずだけれど、昨日えりかさんにからかわれて顔を真っ赤にしていたことからすれば思ったよりも冷静な自分がいる。

「すお、う……」

 それはきっと立花が戸惑っているのがわかるから。

 立花の表情の中には喜びはほとんど見当たらずむしろ自己嫌悪がにじみ出ていた。

「違うわ、立花」

 立花のその感情の意味が理解できる私は先回りにそう言った。

「え?」

「立花は私にキスをさせてしまったって思ってるかもしれないけれど、それは違うわ」

「……違く、なんて」

「立花は、こう考えているのでしょう。また私の同情を引いてしまったって」

「………だって、そう、じゃない。あんな話をして私は蘇芳の優しさに付け込んで……」

「それは違うの。いいえ、完全に違うなんて言えないわ。でも、だからキスをしたんじゃないわ。立花のためにキスをしたんじゃないの」

「え……?」

「私がしたいって思ったからなの。私を想ってくれる貴女の想いに応えたいってそう思った。だから、キスをしたのは私の都合なのよ」

 それこそ立花のための理由かもしれないけれど、本当にそうなの。立花のためじゃなくて、私が立花の望むことをしてあげたいという我がまま。

「蘇芳……」

 私は想いをうまく言葉にできたとは思えていない。それでも、立花には心を伝えることができたとは思う。

「立花。好きよ」

 だから私は純粋な好意を伝え、

「……えぇ……私も貴女が好き」

 立花もその好意に応えてくれる。その瞳からはうっすらと涙が浮かんでいて、私は頬に手を添えると親指でその涙をぬぐってから

「んっ……」

 もう一度立花へと口づけをするのだった。  

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