じゅぷ。

 ナイフをつかんでいた手から知らない感触が伝わってきた。

 柔らかいのに固いものを刺したような不思議な触感。

 今、九条の体が私の下にあ、って……? 

 それで、何かを刺した感覚……?

(え……?)

 これ以上ないほどに興奮していた心が急激に冷え、いや、凍りついていく。

(これ、……これが……?)

 想像の中で琴音にしたこと……? これ、が……

 恐怖で逃げ出しそうになりながら、私は視線を自らの腕に落としていく。

 今もしっかりと握られているナイフ、琴音に突き立てようとしていたナイフ、自分に突き立てていたナイフ。

 銀色の光沢を放つはずのそれは今、半分ほどしか見えていなくて、しかもそこにある色は……

 何よりも鮮やかな赤、

 血の色だった。

「あ、ぁ……あ……ぁあ……」

 

 

「いやぁあああああ!!!!」

(っ!?)

 あまりの衝撃で一瞬意識を失いかけた命だったが、その叫びで意識を繋ぎとめる。

(っぅ……)

 激痛。腹部から伝わる、筆舌に尽くしがたい激痛。文字通り身を引き裂かれる激痛が命を襲う。

 普通に生きていれば絶対に味わうことのない痛みが命の神経に再び訪れた。

「し、ずき……」

 無意識に傷の周辺に手をやって血がつくのを確認すると、かすれた声で静希を呼んだ。

(変な、気持ち……むちゃくちゃ、痛いのに……)

 刺された瞬間に飛んでしまいそうにはなったが、目を開けた先に静希の姿を見つめると不思議と意識がはっきりとし、瞳には力が宿った。

 静希は一度叫びをあげた後は、呆然とどんどん赤くなっていく命を見つめていた。

「だい、じょうぶ……そんなに騒がなくて、も……」

「ぁ………く、じょう……」

 命が血のついた手のひらで静希の頬に触れると、ようやく静希は命の顔を見ることが出来た。

「わ、わた……わた、し……」

 命の手から血を擦り付けられた顔で静希は何かを言いたげに口を何度か開いたが意味あることどころかそういうのが精一杯だった。

「あ、は……大丈夫、だって、ば……痛いのは、なれてるから……」

 安心させられるとは思えないが、命は強がりを口にする。少しでも静希の心を軽くしたくて勝手に紡いでいた。

「い、今、救急車、を……」

 混乱しながらも静希はようやく常識的なことを言えた静希はポケットから携帯を取り出したがその手を命に取られる。

「ま、って……その前、に少し、話そう……? なんか、今じゃないとうまく伝えられない気がするから、さ…」

「で、でも……」

「だから、大丈夫、だって、ば……これくらい……姉さんのときはもっと、っごふ、……された、ん、だから……」

 声を発するだけでも命の体は悲鳴を上げるが命はそれでも静希の手をつかんで電話をかけられないようにする。

「あ、でも……ナイフは抜かないで、ね……抜くとそこから血がでちゃう、から……静希もよごれちゃう、よ……」

「く、九条……」

「あ、そうだ、ひざまくら、してくれない? そっちのほうが、楽、そう……っ!?」

 言葉ではいくらでも強がりを述べられる命だったが体を襲う痛みは本物であり時折その苦痛に顔をゆがめる。

「お願い……」

 痛みから自然に透明な雫が浮かび命は潤む瞳で静希に訴えかけた。

「っ………」

 瞳を涙でいっぱいにしながらも雫をこぼすことのない命とは対照的に静希は頬に光る線を伝わらせながらも、

「ぁ……」

 言われたとおりに命の頭を持ち上げると静希は自らの膝へと乗せた。

「あり、がと……」

 命は力なく笑うと、数秒だけ瞳を閉じる。

 それが静希を不安にさせてしまうというのがわかる命はすぐに目を開けると、また薄く笑った。

「ふ、ふふ……静希もそんな顔するんだ……さっき、したくなるかもって、い、ったくせに……」

 この世で最も性質が悪い冗談を飛ばしてみるが、静希は実際に痛みを感じている命よりも苦しそうな顔で命を見つめるだけだった。

「……静希は、今自分が泣いてるって、わか、ってる……?」

「………………」

 静希は言葉の代わりに小さく頷く。

「じゃ、……もう、やめてよね。何度だって、止めるから……」

「い、今はそんなこと、より……」

 静希はどうしたらいいのかわからないものの不安そうに血にまみれた命の手を取ると両手で包み込む。

「あ……あり、がと。そう、ね……こっちもつらい、し……言いたいこと、いっちゃう……手、離さないでね」

「うん、……うん」

 命を包み込む手が震えていることを静希は自覚しながら、歪む視界で命を見つめ続けた。

「昨日は、あんな、ことい、ったけど……や、っぱり、静希と姉さんは、違う。だって、こんなに悲しんでくれてるん、だもん。全然、違う、よ……」

「…………」

「ま、ぁ……静希は、私の、こと好きじゃないから、当たり前、なのかもしれない、けど……でも、静希は悲しいって思ってくれたんでしょ? だったら、やっぱり、違う……」

「九条……そんなこと、なら……後で……」

「そ、かも、だけど……今、言っておきたい、から、さ。って、いうか……今のも、本題じゃ、なくて……あは、さすが、に……頭、ごっちゃ、だ……えと……そう、まずこれだ」

 ナイフが栓になっているとはいえ、傷の隙間から血が溢れていくのがとまるわけではない。痛みは慣れていくとはいえ、痛くなくなるわけではない。

 常人ならまともに会話などできるわけもないが、命は静希への言葉を止めなかった。

「静希、さ……わたし、と……」

 それは命が生涯口にすることはないと思っていた言葉。

 

「友達に、なろう」

 

 単純な、しかし確かな親愛の言葉。

「とも、だ、ち……?」

 命の愛の告白よりも勇気が必要だった言葉に静希はあまりのギャップを感じ、ただ反芻する。

 その相手に刺され、血まみれの状態で言う言葉ではないというのは誰の目にも明らかだったが、命はこんな今だからこそ言わなければいけない気がしていた。

「こんなの、私の、勝手な考えかもしれないけど、やっぱり、……独りって、ダメ。何してても、悪い方ばっかに、考えちゃう……私も、事件の後、ずっと独り、だったから、わかる、っく、はぁ……独りなことって、いくらでも、強がれる、けど……心のどっかじゃ、いつも寂しいって思っちゃう。まだ、私も、友達なんて、呼べる相手いないけど……それ、でも……理子、や一条さんのおかげで、静希とも話せた……今、こんなことに、なってる、けど……後悔、は、して、ない……っ!」

 途切れ途切れになってしまいながらも命は一言、一言に込められるだけの想いをこめた。

「独りじゃない、って……やっぱ、り……いい、よ。独りじゃできないことも、できたり、するし、背中押してもらえたりも、する……静希、も……悩み、独りじゃなければ……も、っと何か見つかるかも、しれない、よ? だから、友達に、なろう……」

 独りでいいと思っていた。独りでいなければいけないと思っていた。しかし、やはり間違いだった。あの二人の想いを受けたからこそ命は前に進めた。だから、独りでないことの大切さを静希にわかってもらいたい。

 同じ苦しみを抱えていた静希に。

「なる、なるから、……もう、わかったから……病院に……」

「そ、う……ありが、と……。あ、そだ…だから、もう自殺なんかしないでよ、ね……友達を悲しませたりするなんて、許さない、から……。それ、と……私を殺すのも、ダメ……だ、って静希が悲しいでしょ? 友達の、私が死んだりしたら……もし、そう、思ったら……まず話して、よ……それで一緒に、何か、見つけ、よ……」

「っ……うん、……うん……」

 先ほどから静希の流す涙が変わっていた。自分のしてしまったことへの罪悪感じゃない。心の欠けていた部分に命の言葉が染み渡り、自分自身自覚はないが、質の違う涙が頬を伝い命の顔へ落ちていく。

「……さ、て……こんな、もん、かな……」

(っぅ………!? なんか、ぼーっと、して、きた……)

 冬の寒さ、流れ出る血液。先ほどまでは使命感のようなものが働いて、不思議と意識がはっきりとしていたが、それがなくなったことで糸が切れてしまったかのように意識が落ちていきそうだった。

(でも、まぁ……い、っか。大体、言いたいことは、言えた、し……)

 強烈な誘惑に思わず瞳を閉じてしまう。

(そう、いえ、ば……姉さんに刺された、ときも……こんな感じて、気失しなっちゃった、んだ、っけ? このまま、静希にひざまくら、され、て寝るのも、いっか……)

「み、こと……?」

(っ!?)

 目を閉じたまま意識を失っていく途上にあった命は静希が不安そうに呼ぶのを耳にして、意識を覚醒させた。

「ん、……ん」

 どうにか重いまぶたを開けると、

「命……」

 静希が心から安心したような声を出す。

 それを確認すると自然に笑みがこぼれた命はまだ言えることがあるのに気づいた。

「ね、静希……運命って、信じる……?」

「え?」

「私は、信じる、な……。だっ、て……姉さんに、された、とき……もうだめって、思った、けど……助かって……親戚を転々と、して……結局、『九条』にな、って……静希と、出会えた。……きっと、私は、ただ、静希と会ったんじゃ……友達になろうなんて、思わなかった……姉さんの、こと、があったから、静希と、今、こうしていられる。昨日も、言った、けど……運命、だったんだよ……私、たちが出会うのって……」

「命……みこと……」

 血の気の失せてきた、しかし幸せそうな命に対し、静希は涙を止めることができない。

 孤独から救ってくれた『友達』の体を抱きながらその体が血に染まっていくのを見つめるだけ。

「そう、だ。ちょっ、と、手離して……?」

 また目をつぶってしまいそうになっていた命は、ついに涙を一筋流すと、にやっとした場にそぐわない表情をした。それもどこか嬉しそうに。

 静希が言われた通りに命の手を離すと、自由になった手を一端傷口近くにやって指に血をまみれさせ、次に、静希の顔の前に持ってきて小指をたてた。

「ね……指きり、しない?」

「指、きり?」

「そ、友達の、証……いい、でしょ?」

「……わか、った」

 静希は小さく頷くと、命の差し出した小指に、自らの小指を絡ませた。

「……これからは、何でも、相談して、独りで、悩まないこと……嘘ついたら、ハリセンボンのーます」

 今出来うる限りの明るい声でそういうと命は指に力をこめ、

「指、き、った……」

 ゆっくりと指を離していく。

(ふ、ふふ……完成、っと)

 思惑通りにいった光景に命は満足そうな顔をする。

「あ………」

 静希もまた、離れていく指と指を見つめて思わず声を上げた。

 二人の指と指が命の血で繋がっていた。

「ど、う? 運命の赤い糸……私、たちは、赤い糸で結ばれてる、んだか、ら……約束、守ってよ、ね……」

「命…………バカ」

 文字通り死にそうにすらなっているくせに、静希のことしか考えない命に静希は素直な言葉が出ず、思わずそう言ってしまったが……。

「……どうい、たしまして………」

 命は静希の本音に返すと、静かに瞳を閉じる。

「ほんとに……バカ」

 静希は冷たくなっていく命の体を強く抱きしめ

「……ありがとう」

 と万感の想いを込めて呟くのだった。

 

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