カーテンを閉めていない部屋に西日が差し込んでくる。

「っく……ひっく」

 部屋の中が黄昏に染め上げられていく中、美愛に抱きしめられていた佳奈の嗚咽が徐々に小さくなってくる。

「……………」

 美愛は自らの胸で佳奈を泣かせ、抱きしめていた。

 時折頭や背中を撫でるが、特別なことはすることなくただ佳奈をその慈愛で包み込んだ。 

 その愛に佳奈はすべてを美愛に預けることができ、ただ自分の中に溜まった暗い気持ち吐き出していた。

「っ…は、ぁ……美愛、さん」

 夕陽が沈みかけ、部屋に夜の気配を感じられる頃。佳奈はようやく嗚咽をとめると、小さく美愛を呼んで体を離した。

「落ち着いた?」

「はい……ありがとうございます」

 まだ薄っすらと浮かんでいる涙を指で救う佳奈。そこにはどこか清々しさがあった。それと、ほんの少しの切なさ。

「………………美愛さん」

「…………」

「本当に、ありがとうございました。美愛さんといるのすごく楽しかったです。姉さんのこと関係なくても美愛さんといるの嬉しかった」

 佳奈の言葉に嘘は一切見当たらない。曇りのない言葉だった。皮肉だが、今日、この日になって初めて佳奈のまっすぐな言葉を聴いている気がする。

「…………でも。……でも」

 美愛も佳奈と同じようなことを思っている。佳奈といることは楽しかった。嬉しかった。愛歌のことは関係なくそう思う。

 佳奈がこれから何を言おうとしているか不思議とわかってしまう。それは、美愛にとってはある意味、悲しくもあり、つらくもある。

 だが、それはきっと二人が望むこと。

「……思い出に、します」

 思い出にする。

「……えぇ」

 つまり、ここで終わりということ。

 交わっていた道を違ってしまうこと。

 その悲しさと寂しさを抱えてでも、美愛はすべきことがあり、そのためには自らが邪魔だということがわかってしまう佳奈は自ら美愛と歩んだ道を外れる。

「遅く、なっちゃいましたし、もう、帰りますね」

 佳奈はそういうと力なく立ち上がった。

「うん」

 美愛も引き止めることなく、名残惜しそうに部屋を眺める佳奈を見つめていた。

 佳奈は今までのことを思い返すよう一つ一つ家具などを見つめるがその時間は決して長くはなく一通り終えると玄関までの狭い廊下に入っていく。

 美愛もその後ろについていき、佳奈が靴を履くと美愛はそこで止まる。

「美愛さん」

「何?」

「私……姉さんのこと、嫌いです。今は、大嫌いです」

 その言葉自体は佳奈が泣き出す前に聞いたことだったが、その時とは言葉の響きがまったく違った。

 その理由をなんとなく美愛は察する。

「だけど……昔は、大好きでした。小さいころからずっと姉さんのこと大好きでした。お姉ちゃん、お姉ちゃんっていつも後ろについてまわってたんですよ」

 だから、佳奈は愛歌のことが許せないのかもしれない。好きだったからこそ、憎悪があり……美愛との関係があったのだ。

「…………」

 目頭が熱くなるのを感じた佳奈はそれを悟られぬよううつむいてしまう。

(佳奈ちゃん……)

 一方美愛はそれに気づき、抱きしめてあげたいという衝動を抑えた。きっと佳奈はそんなことを望みながらも拒絶したがっている。

「今の姉さんは、おかしいです。バカです。美愛さんに好きになってもらってるのに、美愛さんのこと全然わかろうとしないで、自分のことばっかりで」

「……えぇ」

「美愛さんのことも、自分のことも全然見てなくて、ただ自分が見たい美愛さんだけを見てて、あんなの間違ってます。美愛さんにふさわしくない! あんなの……恋じゃないですよ。自分のことだけしか考えられないなんて……」

 佳奈は言いながらいつのまにか自分が美愛に恋をしていたことを改めて自覚した。そして、だからこそ身を引ける。

 恋しているから。

 好きな人に、好きな人たちに幸せになってもらいたいから。

「うん、わかってる。私もちゃんと愛歌と話すから。もう私も愛歌から逃げないから」

 浴びせかけられるのは佳奈にとってなによりも痛烈な言葉。打ちのめされるが、いっそそうしてくれたほうがいい。

「そう、ですよね……」

 自分の役目は終わっている。きっと愛歌の過去を話したときに終わっていた。それをわかる、不思議なほどわかってしまう。

(だけど……)

 この程度じゃいけない。もっと、打ちのめされなくては。

「……美愛さん、初めてあったとき姉さんのこと愛してるって言ってましたよね」

「えぇ」

「今も、そういえますか? ううん、言ってください」

「……大好きよ、愛してる。だから、愛歌のこと守ってあげたい、力になってあげたいのよ」

 胸の奥が痛む。しかし、この痛みが大切なのだ。

「えへ、お願いしますね。姉さんのこと、泣かせたりなんかしたら許しませんよ」

 美愛の言葉に傷つけられて、自分の言葉でも傷ついて。

「うん、大丈夫。大丈夫よ」

(痛いなぁ……)

 もう自分は必要ないってわからせられる。好きな人に必要とされない。それはきっと人として最大の苦しみの一つだと思う。

「さて、と。言いたいことは言った、かな……」

 本当はまだまだある。

 でもそれは胸の奥に隠しちゃう。誰にも見つからないよう、小さな箱に押し込めて、秘密の鍵をかけて、言いたくて言っちゃいけないことみーんなぎゅっと詰め込んだ。

「じゃあ、もう行き…ますね」

 佳奈はそう告げたが、言葉とは裏腹に足はそこに根を張って動かない。

「…………」

 動かない。

 そんな佳奈を美愛は黙って見つめていた。声をかけることも手を伸ばすこともしない。見つめるだけ、佳奈が何も言わない限りはそれが最善に思えた。

「……美愛、さん」

 きびすを返すことすらできていなかった佳奈は、戸惑いながらも美愛の名を呼ぶ。

(あ〜あ、ダメなのに……)

 胸の奥に押し込め鍵をかけたはずの気持ちがもれてしまった。

「最後に、一つお願いしてもいいですか?」

 これから自分が言おうとしていることに反して佳奈はあっさりと口を開く。

 そして、美愛が答える前に願いを告げた。

「抱きしめてください……最後に、美愛さんのこと感じた……っ」

 最後まで続ける前に自分へと訪れた暖かな感触に佳奈は満足そうに目を閉じた。優しく自らを包んでくれる美愛へは何もせずただ、その愛しい熱を感じる。

「愛歌のこと、絶対幸せにするから」

「…………………………………はい」

 そして、佳奈はその短な恋に終わりを告げた。

 

 

「ふ、う……」

 佳奈の去った部屋で美愛は電気もつけずベッドに腰掛けていた。

 顔を傾け、さきほど佳奈がいた場所を見つめ、抱きしめたことを思い起こす。

 はっきり言ってしまえば心にしこりはある。これで本当にいいの? という疑問も頭から離れない。

(だけど……)

 あの時、佳奈を抱きしめながらも心に思ったのは愛歌だった。愛歌の過去を知り、愛歌の苦しみを知った。その闇から救い出したいと思った。

 それは単純であるが上での純粋な心。

 暗い過去により歪んでしまった愛歌を救いたいという気持ち。

 それが、佳奈への想いよりも勝った。

「愛歌……」

 助けるわ、あなたのこと。佳奈ちゃんと約束したからじゃなくて私がそうしたいから。大学に入ったとき、愛歌は私を助けてくれた。愛歌はそんな大げさになんか想っているはずはない。しかし、私とっては大切な思い出。だから、今度は私が助ける。

 そう固く決意する美愛ではあるが、その表情に光はない。

 美愛の心に浮かぶのは、昔一度関係を終わらせようと告げた時のこと。

 あの時愛歌はまさしく狂気の塊だった。美愛の本心など一切考えられることなく、関係が終わるということを、捨てられてしまうということにしか認識できず、美愛にすがってきた。

 あの時に愛歌を抱きしめたのは、愛歌の絶望を表面的でもいいから救いたかったと理由が付けられるが、おそらく本心ではあの愛歌が恐ろしかったのだ。

 それをわかっている美愛はこれからの自分の行動に絶対の自信が持てない。

 

えへ、お願いしますね。姉さんのこと、泣かせたりなんかしたら許しませんよ

 

「……うん、わかってるわ。佳奈ちゃん」

 突然頭に響いた佳奈の言葉に応える。

 不安は決してぬぐえない。あの愛歌と対峙するのを恐ろしいと感じているのは真実。

 だが、それでもしなくてはいけない。

 自らを削り想いを伝えてくれた佳奈への責任であり、なにより自らが心から望むことなのだから。

 それができて初めて愛歌を好きといえる。

「……がんばらなきゃ、ね」

 美愛は力強く呟き、心の中に住み着く不安を振り払った。

 

 

 

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