渚の卒業式を明日に控え私は予定より早くこの街を訪れていた。もともと渚は卒業式に出てくれと言ったわけではなく卒業式の後に一緒に学校を見たいということだったから前日入りする必要はないのだけど、やっぱり朝から渚に会いたいと思ったし、それに
「いらっしゃい、せつな」
(ここには一度来てみたいとは思っていたから)
「お世話になります、桜坂先生」
「もう、先生じゃなくて、絵梨子って呼んでって言ってるじゃない」
「すみません、絵梨子さん」
「敬語じゃなくてもいいんだけど、まぁとりあえず今はいっか」
渚に内緒で泊まりに来た桜坂先生……絵梨子さんの部屋の前でそんな会話をしてから中に入っていった。
実はでもないけれど来るのは初めて。お姉ちゃんに渚の卒業式に行くことを教えたらそこから絵梨子さんに伝わり、誘われたのがきっかけ。
生徒と教師としては三年間接してきたけれど、絵梨子さんとは姉の恋人としてこの先もずっと接していくんだからそういう関係として一度この人を見てみたかったから泊まりに来る? という誘いに乗ってここにいる。
卒業式前だし忙しいのかとも思ったけれど今は三年生を受け持っていなくて、準備もすでに終えているらしく夕方には部屋にやってきた。
せっかくだから手料理をごちそうになり、渚やお姉ちゃんのことを話しながらあっという間に時間は経ってしまう。
「…………卒業、か」
夕食の片付けも終わって、絵梨子さんが紅茶を入れてくれると台所に行くと私は夕飯を食べたテーブルでふとつぶやく。
「ん? どうかしたの?」
すぐに背後から絵梨子さんの声が聞こえてきて、「いえ」とカップを受け取りながら答える。
「お姉ちゃんも、私も、渚もみんな卒業するんだなぁと思っただけです」
「そうね。ふふ、私だけが取り残されちゃうわね」
「そういう意味ではなく……」
絵梨子さんが言っているのは冗談のようなものだというのは理解しているけれど、何を続ければいいのかうまく言えない気持ちがある。
「……そのなんて言ったらいいのかわからないんですが、不思議な気分だと思ったんですよ」
「不思議な気分って」
「私は天原に来てからいろんなことがあった。辛いこともありましたし、悲しいこともあった……生きてるのがつらいって思うことすら」
今となっては懐かしいといえるかもしれないけれど、それでも本当につらいときはあった。
「でも、私は天原でそれ以上のものをもらいました。自分を見つけられた、一生の友達も。それになにより……渚と出会えた」
ただ盲目的にお姉ちゃんを追ってやってきた学校。何かを望んだわけじゃない。その場所で私はいくつもの大切なものを得た。なんでもない場所だったはずなのに、私の中で何よりも大切な場所になった。
これからあと三年間渚と一緒に大学に通うけれど、天原よりも大切な場所になるとは思えない。
「私にとって本当に特別だった学校。もう卒業しているのに、渚がいなくなってつながりがなくなるかと思うとなんだか寂しいような、少し不安なようなそんな不思議な気分です」
こんなことを話しても仕方ないのかもしれないけど、自然と心の中を吐露していた。
「………そうね」
「っ……!?」
不意に頭に触れられた。
ゆっくり、慈しみのこもった手で私の頭を何度か優しくなでる。
くすぐったい。頭を撫でられているのに心に触れられているようなそんな不思議な心地がした。
それは年上特有の包容力なのかもしれないし、また別のものがもたらす安らぎかもしれない。
「せつなにどういってあげればいいのかは正直わからないわ」
そんな言葉にそりゃそうですよねと口しようとしたけれど、なんだか雰囲気がそれをさせてくれないような気がして思わず絵梨子さんの顔を見ると
「…………」
とても、慈愛に満ちた顔をしていた。温柔な瞳に母性を思わせる表情。私は別にキリスト教徒ではないけれど聖母マリアっていうのはこんな感じなのかと思ってしまった。
「私はここにいるわ。ここで教師を続けて行く。教え子たちがいなくなっても貴女たちがここで過ごしたことを私は覚えているわ。私がみんなのつながりを守っていく。だから貴女たちは前を向いて歩いていけばいいの。ここを離れることを寂しく思ってもいいけど、不安にならなくてもいいわ」
これは考えての言葉ではないと思う。今私を見て自然と出てきた言葉。理屈は通っているような気はするけれど、意味が通じないところもあるような気がする。
でも、言葉がどうということじゃなくて……心が嬉しかった。
「ふふ、そういえば絵梨子さんは先生だったんですね」
少し抜けているところもあるけれどきちんと若者を導ける力を持った人だ。それがなんだか嬉しかった。
「っ……」
「? どうか、したんですか?」
「ううん、ときなにも似たようなこと言われたなって思っただけよ」
「そうですか」
そういえばと、思う。お姉ちゃんもこの人に救われたんだった。私がここに来る前から天原にいてずっと私たちのことを見てくれていた。
絵梨子さんも私の大切な思い出の中にいる大切な一人。
そんな人がお姉ちゃんの恋人でよかった。
私はそう思いながら最後だけれど、最後ではない明日を楽しみに待てるのだった。