「ん?」
その日、図書館にいたわたしはふと窓の外に視線を投げそこから見えた光景に
「……またか」
とため息を漏らす。
「? 何がまた、なの?」
対面でわたしと同じく本を読んでいた白羽が手を止めわたしへと問いかけてくる。
「あれだよ」
「あ……」
窓の外を指すわたしの視線を追い、白羽はわたしと同じものを見つけると短く声を上げて顔をそらした。
そこにあったのはこの日、二月十四日に特有の光景だ。それも他人が盗み見ていいタイプじゃない方の。
「周りに人がいないかくらい気にしてるんだろうが、建物の中からどう見えてるかまでは気が回らないんだろうな」
「え、えりかさん。そんなに見ていてはいけないわ」
新雪のような肌を赤く染め白羽はわたしを制する。まぁ、白羽の言う通りだ。これがいわゆる友チョコなら別に構わないかもしれないが、マイバレンタインの意味でならじろじろ見るものじゃない。
「あぁいうの今日は何回か見たが、この学院でまでバレンタインが盛んだとは思わなかったよな。仮にもキリスト教の学校だってのに」
聖書の科目が得意でないわたしが言うのもなんだが若干辟易してしまう。
「……えりかさんはバレンタインが嫌いなの?」
「別に特別嫌いってこともないが、周りが盛り上がってるからって一緒に騒ぐタイプじゃないのは知ってるだろ。だいたいあんな甘ったるい雰囲気の中にいたらそれだけで虫歯になっちまいそうだ」
わたしの皮肉に白羽は「えりかさんらしいわね」と軽く笑う。
「なんにせよ、なんでも祭りに仕立て上げちまう製薬会社の陰謀に付き合うつもりはねぇよ」
その流れに乗っている他人を否定するつもりまではないが少なくても自分は好きにはなれず呆れたような仕草をする。
きっかけはどうあれこの日を大切にしている人間もいる中でこんなことを言うのはまずいような気もしたが、白羽相手にならいいだろ。
(こいつもそういうのに流されるタイプじゃないしな)
少なくてもこれまでのバレンタインにいい思い出があったとは到底考えられない。
その思い込みがわたしの目を曇らせる。
(……?)
「自分でそう思っていても、口に出すことじゃないわ」くらいのこと言われて窘められるかと思ったが白羽は表情に暗い影を残したままなぜか黙りこんでいた。
「………………」
ただの沈黙であれば本を読むことに戻ったかもしれない。しかし、白羽の様子がわたしの心を動揺させていた。
「けど、製菓会社もうまくやったよな」
原因まではわからないが目の前で大切な書痴仲間にこんな顔をさせておくわけにもいかずこの空気を変える話題を提供する。
「知ってるか? チョコレートは昔、媚薬に使われてたって説もあるんだぜ」
「び、媚薬……っ!?」
「あぁ、チョコを食べているとエンドルフィンが分泌されて快感を得るって話らしい。バレンタインでもらったチョコを食べる時なんかは当然相手のことを考えるだろうから、その相手を思いながら幸せ気分にでもなればその気がなかったとしても相手を好きになっちまったりもするんだろうな。まさに告白のアイテムとしてはぴったりってことだ」
もっとも製菓会社がそこまで考えてたってわけじゃないだろうが。結果的にはクリスマスと言いハロウィンといいうまく広めたものだ。イベント自体は好きにはなれないがそこには感心する。
(……ん?)
照れるなりなんなりの反応を見せてくれるかと思ったが白羽は頬を赤くしてはいるものの表情はただ恥ずかしいというだけではなく、やはり暗さが混じっている。
(なんだってんだ?)
少なくても落ち込ませるようなことを言ったつもりはないんだがな。
理由がわからないことには対処の仕様もないが、わたしが原因なのは間違いない。
(沈黙は金ともいうけどな……)
さっきから口を開くたびに白羽が妙な反応を見せやがるし黙った方がいいのかもしれないが、わたしの責任で落ち込ませたのに放っておくのも無責任だろう。
「何そんなに落ち込んでんだよ。まさかあれか? 【せっかくえりかさんのために頑張ってチョコを作ったのに、こんなこと言われたら渡せないわ】とかか?」
声真似をしながらわたしは冗句を言ったつもりだった。とりあえずは白羽の気をそらしてやろうというその程度の気持ちで。
だが、
「っ………」
白羽がビクっと震えたことでようやくわたしは地雷原を踏み抜きながら歩いていることに気づく。
「もしかしなくても……図星なのか……」
すでに確信はしていてもそれでも確認をしたくて乾いた声で問いかける。
「……………えぇ」
白羽は真っ赤な顔で気まずげにコクンと頷き、鞄から小さな包みを出して長机の上に置いた。
その瞳は潤み、今にも泣きだしてしまいそうなほどで良心を抉る。
(自分をこれほど間抜けに思ったこともない……)
今思えば、って言い方は卑怯だが今思えば白羽は最初から妙だった。ここに誘ったのも白羽で、ここに来てからはずっと落ち着かない様子を見せていた。つまりは渡す機会を窺っていたんだろう。
そんな白羽の前でわたしはバレンタインを中傷し、極めつけは
(何が媚薬だよ)
こいつがそんなことを言われて、チョコを渡せるわけがねぇだろうがよ。
(っく……)
ここでの沈黙は銅にも劣る。
しかしありがとうも、ごめんなさいもこれまでの失点をカバーできるものじゃない。
(くそ)
こいつが泣きたい気分なのもわかるが、こっちも罪悪感やら自己嫌悪で泣きそうだぞ。
どうすればいいかわからない。わからないが百パーセントこちらに非があるというのに停滞しているわけにもいかずわたしは手を伸ばして白羽のチョコを手に取ると
「……来月」
「え?」
「来月のお返し、覚悟してろよ……」
未来の自分に難題をかすのだった。