それは、もう生徒と先生ではなくなってから初めて会った夜。

 五月の連休を利用して絵梨子に会いに来たときなと外で食事をして、久しぶりにときなは絵梨子の部屋を訪れていた。

「どう、大学は楽しい?」

 勝手知ったるときなが淹れてくれた紅茶を飲みながら尽きることのない会話を交わす。

「それなりには。でも、私にとっては天原にいたころより楽しいということはないでしょうね」

「もう、またそんなこと言って」

 ときなが大学に行って離れてしまったが、毎日のように電話をしてはいる。直接会ったので改めて話題にのぼったが、以前にも似たような会話はしている。

 ちなみにその時、ときなが言った天原より楽しいはずがないという理由は。

 先生がいないから。

 という、絵梨子にとって素直に嬉しい言葉だった。

 ただ、

「ちゃんと、大学は大学で楽しまなきゃだめよ? 一番自由な時間なんだから。友達作ったりとかして、いっぱい想い出を作らなきゃ」

 そろそろ教師として自覚の出てきた絵梨子は常識的なことも口にする。

「それなら心配ありませんね」

「え? も、もしかして友だちとかできちゃったの!?」

 自分で言っておいて、情けないがときなに友だちができるということすら少し寂しく感じてしまう。

 もう結婚もしているのであるし、心配をしているわけではないがそういうのとはまた別にときなを独占したいという気持ちが絵梨子に嫉妬めいたことを言わせた。

「……友人くらいいますが、そういうことではなく」

 ときなはまたかといったあきれ顔をしたあと、絵梨子の頬に手を添えた。

「わ、」

「こうして、先生といるのも立派な大学時代の想い出ですよ」

「も、もう。だからそういうことじゃなくて」

 教師として一応、叱責するような口調をするが、顔は笑みを隠せない。

「ふふ、わかっていますよ。まったく、先生はいつまでたっても変わらないですね」

「むぅ〜、だから先生をからかうんじゃないの」

「それなら大丈夫じゃないですか。先生はもう私にとっては先生ではないのですし」

「それは、そう、だけど」

 卒業をしたからといっても、先生はいつまでも先生という考えもあるかもしれないが、少なくても正確には先生と呼ばれる立場ではないのも事実だ。

 まして、結婚をしたのだから。

「……ふむ」

 ときなは絵梨子がそれを認めるのを待っていたわけではないだろうが、以前より考えていたことを頭の中に浮かべ、

「もう、先生と呼ぶのやめましょうか」

 それを口にする。

「え?」

「だって、もう先生は先生ではないわけですし、それに結婚をしたのにいつまでも変わらない呼び方というのも妙な気もしますし」

「ん、ん〜。そう、ね。なんか、あまりに慣れちゃったから、あんまり気にしてなかったけど」

 ときなが提案してきたことに対し、絵梨子はあまり乗り気には応えなかった。

 もちろん、呼び名が変わることに不満があるわけではなく、なんだかこの提案を受け入れてしまったらある意味恐ろしいことが待っているような、そんな正体不明の不安が絵梨子にそんな態度を取らせてしまった。

「だめ、でしょうか?」

 ときなもそれを感じ取ったのか、不安そうに上目使いに絵梨子を見た。

「そ、そんな! だ、だめってわけじゃないのよ。た、ただ、私はときなに先生って呼ばれるのも好きだから」

 普段見慣れないときなのおねだりするようなしぐさに一気にメロメロになりながらも、それでも誰よりもときなを知る絵梨子は、一線を越えようとしない。

「……わかりました。先生がそういうのならそうします」

(あ、あら?)

 ときなならば、こういう時言葉巧みに絵梨子を籠絡させてくると思ったがあっさりと引かれて少し拍子抜けをする。

「……でも、やっぱり一回だけ呼ばせてください」

「え、あ、え、えぇ」

 一度引くことも、こうして言質を取ることもときなの戦略だなどと夢にも思わず絵梨子は致命的にうなづいてしまった。

「すぅ……」

 ときなは片手で胸元を掴み、軽く息を吸い、瞳を潤ませると

「絵梨子」

 透き通った、それでいて甘えるような、さらには蕩けるような声でそう呼んだ。

 絵梨子、と。愛する人の名前を。

「………………」

 絵梨子。

(絵梨子)

 頭の中で反芻される自分の名とは思えないほどに甘美な響き。

「……も、もう一回」

 それは絵梨子の無意識に保っていた防波堤を崩してしまう。

「あら、いいの?」

「う、うん。お願い」

 もう一度、あの甘美な声を味わいたいとしか考えられなかった絵梨子はときなの口調が変化しているのにも気づかない。

「……絵梨子」

 今度は囁くようにして、絵梨子の心の別の部分を刺激する。

「〜〜〜」

(や、やっぱり……いい。最高)

 先生と呼ばれるもの好きなのは本当だが、やはり恋人に名を呼んで欲しいと思うのは自然な心の動き。

(なんで私、さっきはやめてなんて言ったのかしら?)

 こうして実際に呼ばれると、絵梨子と呼ばせない理由など見つからない気がするのに。

「そ、そうよね。わ、私たちもう結婚もしたんだから、名前で呼び合うほうがいいわよね」

 焦った心が上ずった声をあげさせる。

「……そう」

 それを聞いた瞬間ときなは心の中でにやりと笑う。

「じゃあ、これからは絵梨子って呼ぶわ」

(あ、あれ?)

 絵梨子と呼ばれたのはいいのだが、絵梨子はやっとそこでときなの雰囲気が変わっていることに気づいた。

「あ、あの、ときな?」

「ふふ、なぁに? 絵梨子」

「え、えと……?」

 状況が呑み込めない絵梨子はただ首をかしげてときなを見るしかできない。

「どうしたのよ絵梨子。言いたいことがあるのならはっきり言いなさい?」

「な、なんで、急に……その」

「もう絵梨子は【先生】じゃないんだし、私のお嫁さんなんだから敬語っていうのも変でしょ?」

 ときなの言っていることは間違いではない。結婚というのは対等な立場でするものなのだし、年上というだけではもう敬語を使われる立場ではないのかもしれない。

 ただ、そんな論理的な考えよりもときなの態度が変わったことに絵梨子は……

(あ、あら?)

 なぜかゾクゾクとしていた。

「あ、もちろん、先生が嫌ならやめますよ?」

 ときなはそんな絵梨子の心を見透かしたかのように、これまでと同じ態度になる。呼び方も先生に戻して。

「そ、そんな、嫌なんかじゃないわ。ちょっとびっくりしただけ」

 ここでこれまで通り敬語でいさせてしまったら、もう絵梨子とは呼んでもらえないような気がして、絵梨子は慌ててそう言った。

 すでにときなの手のひらの上だということにも気づかずに。

「そう。なら、これから改めてよろしくね。私の絵梨子」

「ふぇ!? あ、う、うん……よろしく」

 また鋭い瞳に見つめられ、絵梨子は先ほどと同じ小気味よさを味わう。

 そして、この一件が二人の力関係に影響を与えていくことになる。

 

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