「乾杯」
飲み物の入ったグラスを当て、キンと耳触りのいい音が響く。
赤じゅうたんの敷き詰められた床。フロアを照らすシャンデリア。静かでおごそかな音楽。
そして、眼下に広がる光の絶景。
「んく……」
そんないかにも高級感あふれるホテルのレストランで食事をしている彩葉はその場では明らかに浮いている制服姿で、慣れない雰囲気に乾いたのどを満たしていた。
「ふふ、お酒を飲めないのは残念ね」
目の前にいる女性、優衣はスーツ姿と多少は浮いているものの彩葉とは異なり嬉しそうに自分はワインを飲みながら言った。
「別に、そんなことは……」
「じゃあ、遠慮しないで飲みなさい」
「は、はぁ……」
優衣にそう言われたところで、周りには正装している相手すらいるこのホテルで制服姿というのは厳しいものがあった。
「というか、なんでこんな……」
「一緒にごはん食べてくれるって言ったじゃない」
「それは、言いましたけど」
こんなところでという指定があればさすがに断ったはずだ。
誘われたのは一か月も前のことだった。この日に予定があるかと聞かれ、今年はないと答えるとそれじゃあ一緒にごはんでも食べないかと言われ、彩葉はその時は軽い気持ちで頷いた。
この食事の誘いは、彩葉は優衣の優しさだと思っていた。
一年前のこの日は、彩葉の恋が始まった瞬間に終わった日だから。
今年こそは親友と一緒にいられないクリスマスだから。
それを気遣ってくれたのだと軽く考えていた。終業式が終わって迎えにきた優衣も特別な恰好をしていたわけではなかったし、去年のクリスマス以降何度か優衣と出かけることもあって安心していた部分はあった。
だが、連れてこられたのは彩葉でも聞いたことがあるようなホテルの中にあるレストラン。格式という言葉すら感じさせる場所だった。
それに圧倒され飲み込まれている間に窓際の席に案内され、前菜と飲み物が運ばれて今に至る。
「実は、私の就職が決まったの。だから、そのお祝い。一人じゃ寂しから貴女にお祝いしてもらいたかったのよ」
グラスに注がれたワインを一口飲んで、余裕の笑みを見せる。
ここにいる理由が欲しい彩葉はその言葉に頷いてしまいそうになるが
「って言ったら安心できる?」
いたずらっぽく笑う優衣にまた心の波を立てる。
「嘘じゃないわ。就職が決まったのは本当。貴女にお祝いしてもらいたかったものね」
「それは……その、おめでとうございます」
「ふふ、ありがとう」
また余裕のある表情でワインを飲む優衣だが、彩葉は優衣の真意がわからずやはり気まずさを感じてしまう。
(それだけじゃないって意味、よね)
就職とお祝いは嘘じゃないといったが、他にも理由がある言い方だった。普通、クリスマスにこんな場所に誘われれば意味は限られるが、彩葉は自分と優衣がそんな関係には思えていない。
ただの知り合いではない。それどころか彩葉は優衣にある種特別な感情を抱いてはいた。
親友を好きだと気づかせてくれ、泣いてしまったその時に一緒にいてくれた。その後も気にかけてくれているのは感じていた。
年の差があることもあり友だちという感覚ではないが、不思議と心を許せる相手と思っている。
しかしこんなところでこんなことをされる仲だとはまるで考えてはいない。
だから、優衣の目的が見えない。まだまだ子供の彩葉には想像もつかないが、一目で安くない場所というのはわかる。というよりも、大学院生である優衣からしても誘う側としては縁のない場所と言ってもいいほどだ。
なのに、自分は優衣に誘われここにいる。
「ほら、せっかくなんだから食べて食べて」
優衣を見つめたまま、思考にふけっているとそんな彩葉を優衣は最もなことを言ってくる。彩華とは異なりまるで緊張していない様子で。
「は、はい」
仕方なく彩葉も慣れないコース料理というものに手を付けていった。
こうしたものに詳しいわけでもないが、やはり女の子としては憧れもありまた実際に料理はおいしかった。
それが緊張をほぐす要因にもなり話も自然とはずんでくる。
「あの、一度聞いておきたかったのですが」
「なぁに?」
「どうして、こういうことをしてくれるんですか?」
「ん?」
「……私がその……元気ない時ばっかり」
優衣が彩葉を誘う時、それはすべてではないが親友のことで落ち込んでしまっている時が多い気がしていた。
親友を別の相手に託したとき、去年のクリスマスに親友を好きだと気づいた時、他にも親友の誕生日やバレンタインなど、落ち込む理由があるときにこうして食事に誘われたり、元気づけてもらった記憶がある。
「そう、ね……」
優衣は持っていたグラスを置くと窓の外を見て目を細める。
「可愛い女の子が泣くのを見たくないからっていうのじゃだめかしら?」
「っ、ちゃ、ちゃかさないでください」
「あらら、嘘言ったつもりはないんだけどな」
「っ……あ、貴女には泣かされてます。……一年前に」
「そうだったわね」
親友を好きだと気づいて、それがもう手遅れだと知ったその日に。彩葉は泣いて、抱きしめてもらった。それがなければ今頃こうしていることもなかっただろう。
「けどね、嘘じゃない。貴女が泣いているのは見たくないって思うのよ」
「っ………」
視線を戻されまっすぐに向けられた瞳に彩葉は思わず頬を赤くしてしまう。
それは、彩葉の心の奥に潜んでいた何かに光を当てるものだったが
「それに、貴女が元気ないと麻理子さんが悲しむから」
「っ」
今は欲しくなかったその言葉に彩葉は心の中に見つけた自分から目をそらした。
ちょうどその瞬間に次の料理が運ばれ話題が途切れてしまう。
店員が去ると、優衣は別の話題をふってきて彩葉は若干不機嫌になりながら、話を戻す気にはなれずに最低限の言葉を交わすことになってしまった。
「………………」
少しすると優衣はお手洗いに席を立ち、彩葉は一人取り残されながら窓の外の景色を見ていた。
百万ドルの夜景や、夢の国のパレードのようではないがそれでも彩葉にとって十分に心に触れてくる景色だった。
(………子供あつかいされているだけなのかしら?)
だが彩葉の表情は暗く、心には靄でもかかっているかのようだった。
優衣からすれば彩葉は子供である。年の差はもちろんのこと、人生経験の差は考えるまでもない。
彩葉からすれば優衣は………憧れや、親しみをもてる素敵な女性だが、優衣からすれば大切な従姉妹の友人というだけで、それ以外にはなんとも思われていないだけなのかもしれない。
(……だから、あんなこと)
貴女が元気ないと麻理子さんが悲しむから。
その言葉を思い出して彩葉は一気に不機嫌になる。原因はわからないがとにかく嫌な気分になった。
その言葉を真に受けるのなら優衣は彩葉のためでなく彩葉の親友のためにしているということだから。
(……麻理子)
そして、不機嫌になると同時に気分を沈ませた。
この日は意識的に考えないようにしていた。親友のことを。恋人と過ごす親友のことを。
(麻理子……)
もう恋はしていない。一年もたったのだ、心の整理はついている。はず。
ただ、一年前にそれを知ってしまった日だからいつもより少し落ち込み具合が激しいだけだ。
(そう、それだけ)
何も深く考える必要はない。親友のことも、今ここでこうしていることも。
(優衣さんにだって、こんなの意味なんて思っていない)
きっと本当に親友の、麻理子のためにこうしているだけなのだ。
だから、初めから緊張も遠慮もする必要はない。
(そう、よね……)
言い聞かせるように自分に言って彩葉は心の中に目を向けるのをやめる。そこにはきっと見たくない、見るとまた傷つく自分がいるような気がしたから。
彩葉はそうやって割り切ることにした。
それからすぐに優衣は戻ってきたが、割り切ってしまえば、優衣は深い意味などないと言い聞かせればここにいるのもそれほど戸惑うことでもなくなった。
話は弾むし、料理もきちんと味わうことができた。緊張さえ解いてしまえば、まさに絶品で素直に感じた味は意識的に冷ました彩葉の心でも十分に舌鼓を打てた。
そんな最初は長く、後半は短く感じた食事を終え支払いをする優衣を少し離れた場所で見つめながら、この後のことを考えていた。
それは、もちろん色っぽい話とかではなく単純にどう帰るのかということだ。ここには優衣の車で来たが、優衣は今さっきアルコールを取っていた。まさか飲酒運転をするはずはないだろうし。
常識的に考えれば、タクシーを使うのだろうがそれだと車が残ってしまう。
もしくは
(アルコールが抜けるまでどこかで休むとか?)
割り切っていなければ何か別の考えをしたかもしれない。だが、今はそれに対し特別なことを抱くこともなく、支払いを終えた優衣を迎えた。
「ごちそう様です。すごくおいしかった、景色のすごかったし」
「気に入ってもらえたのならよかった。さて、と………」
普通ならここで、じゃあ帰りましょうとすぐに続けるものだろうが優衣はベージュのコートを羽織ろうとすることもなく落ち着かない様子で視線を散らした。
「……帰り、ましょうか」
だが、間をおいて出てきたのは結局そんな言葉だった。
「はい」
彩葉は頷く以外の選択肢はなく、そういうと二人で装飾された廊下をエレベーターへと歩いていく。
「今日は、本当にありがとうございました。……今日一人って言うのはやっぱり嫌だったから」
それは本音でもありお世辞でもある。
「まったく一年も前だっていうのに……こうしてもらってありがいって思うんだから、不思議ですね」
「……不思議じゃないわ。全然」
「……そうですね」
不用意なことを言ってしまって彩葉は必要のなかったことでへこんでしまう。
「あ、来ましたよ」
そんな自分を否定しようと彩葉は無理に明るい声を出してエレベーターに乗り込んでいった。
一階のボタンを押して、扉を閉じるとエレベーターは低い機械音を出して動き始めた。
中には誰もおらずふかふかとした青い絨毯が敷かれた密室で二人は言葉を発しない。さっきのこともあってその沈黙は二人にとって好ましいものではなかった。
その間もエレベーターは動き続け、階数もそろそろ一桁になろうというところだった。
「で、でも、クリスマスにこんな場所に誘われるなんて、びっくりしちゃいました。最初はもっと普通のところだと思っていましたから」
沈黙に堪えられなかった彩葉は軽い気持ちで言葉を発する。
「これが映画とかドラマなら、実は部屋を取ってあるのっていう場面ですよね」
そう言った瞬間、目的の場所についたエレベーターはその扉を開け
「……っ!?」
出て行こうとした彩葉は優衣に腕を掴まれその場にくぎ付けとなった。
「あの……?」
戸惑う彩葉をよそに優衣は扉を閉じると
「あるって言ったら、どうする?」
初めて彩葉へと見せる本音を伝えていた。