悩みっていうのは一人で悩んでいても中々解決したりはしないもの。

 まして、それが自分のことでなく人のことならなおさら。

 たとえそれが大好きな相手のことだとしても、本人でない私には知れることに限界があるのは当たり前だった。

「……るか、さーん?」

 私が先輩の体のことを意識するようになってから数日。先輩の前にいようと、いまいと、どこでなにをしていようとも先輩のことを考えるくせに

「はるかさーん?」

 結局先輩の前じゃ私は何も言えてなかった。

「はるかさんってばー」

 先輩は今も楽しそうに笑ってる。もちろん、今に限らなくて、私の前にいるときの先輩は楽しそうにしていないほうが珍しい。

 だけど、きっと今でも先輩は……

 そう考えると胸がしめつけられるけど……

「もう、何なんですか先輩」

「あれ? 珍しく気づいてたんですか?」

「何ですか珍しくって、まるで私がいつも先輩のこと見てないみたいじゃないですか」

「いつもってわけじゃないですけど、たまにそういうことはありますよね」

「む、何いってるんですか。私はいつだってちゃんと先輩のこと、見てますよ」

「…………へぇ」

「な、何なんですか、にやにやして」

「いえ、はるかさんがそんな風に言ってくれるなんて珍しいなと思いまして」

 先輩は軽口を叩きながらも歓喜の波にたゆたっているようなしまりのない顔をしていた。

「……別に、ほんとのことですもん」

 先輩がもしかしたら今でも苦しんでるんじゃないかって思うと私も先輩とは別の意味で苦しいけど、私は先輩の前じゃそんな素振りを見せるようなことはしてなかった。

 先輩がつらいのを我慢して笑顔を向けてくれるのなら、私も笑顔でいることが先輩に答えることのような気がしてる。

 ……少なくても今は。

「ふふふ。なんだか今日のはるかさんは可愛いですね」

「な、何言ってるんですか。もう」

 いつもの保健室でいつもの時間。

 私はこのままじゃいけないって思ってるくせに、不安があっても幸せな今から一歩抜け出すことができないまま、無為ともいえるかもしれない時間をただ過ごしているのだった。

 

 

 今日も私は、いつもの時間を、不確かな幸せな時間を送りに放課後の保健室へとやってきた。

 クリーム色の引き戸。

 この先には私の居場所って言ってもいい保健室。

 静かな空気の中に、薬品の香り。カーテンに覆われた、静謐なベッド。

 そこにいるのは大好きな人。

 私は先輩のことが好き。理由とかそんなものはどうでもいいって思えるくらいに先輩が好き。一緒にいることが嬉しい。一緒にいることが楽しい。

 それは付き合い始めてからずっと思ってた。ううん、思ってる。今もそう思ってるのは嘘じゃない。先輩といるのは楽しいし、嬉しいし、安心するし、ずっと一緒にいたいって思う。

 でも、今はそれだけじゃない。楽しいだけじゃない、嬉しいだけじゃない。

 それだけを思ってなんかいられない。

 気づいてしまったから。先輩のこと。先輩が抱えている苦しみを。

 それが見えちゃったら、もう知らなかった頃には戻れない。

 人間そんな便利にはできてない。

 そう便利には出来てない。

 しなきゃいけないと思うことをすんなり出来るほど人は……

 コンコン

 もはや自然になっているノックをして、私は保健室に入っていく。

「失礼しまーす」

 適当に挨拶をして先輩がいるカーテンに隠れたベッドへと向かっていった。

「先輩、こんにちはー」

 ほんの少しの自己嫌悪を感じながらカーテンを開けた私の目にうつったのは。

「こんにちは、遠野さん」

 いつも先輩がいるベッドに座っていた彩葉さんの姿だった。

 

 

 彩葉さん。

 この人と知り合ってから、先輩から以外にも少し評判を聞くことがあった。

 南方 彩葉さん。私の一つ先輩で、美人。実はそんなに快く思ってない私から見ても美人だって思う、小さな顔に大きな瞳、なだらかなプロポーションに、落ち着いた物腰。いつも笑顔を絶やすことなく、実は下級生には結構憧れているっていう人もいるみたい。

 あと、先輩の幼馴染。何時ごろからの付き合いとかは知らないけど……先輩は彩葉さんのことを……大切に思ってるみたい。もちろん、親友としてなんだろうけど本当に信頼しているようで、やっぱりちょっと苦手。先輩はこの人が私を気に入っているだなんて言ってたけど……

「麻理子ならもう帰ったわよ」

 やっぱり、嫌い、かも。

 挨拶されるなりいきなりそういわれた私は多分彩葉さんにもわかるようにむっとした。

「何で、自分じゃなくて私がそれを知ってるのかって顔ね」

「っ、べ、別に」

 ベッドに座りながら足をぷらぷらとさせている彩葉さんとは対照的に私は心を見透かされてあわてる。

「じゃ、じゃあ、私、帰りますから」

 元々先輩に会いに来たんだし、先輩がいない以上いる意味はない。ここに彩葉さんがいた理由はわからないつもりじゃないけど、そんな建前で私は回れ右をして

「……待ちなさいよ」

「っ!!??

 多分、この学校じゃ私以外(もしかしたら先輩もだけど)が聞いたことがないような耳を疑う冷たい声。

「え……」

「私がどうしてこんなところにいたのか、わからないわけじゃないでしょ」

 聞き間違いじゃない。氷の刃みたいな鋭く冷たい声。

 そして、向き直った私を見つめる圧するような瞳。まるで、さっきとは別人のような彩葉さん。

「貴女に用があるからこんなところで待ってたのよ」

 『こんなところ』

 彩葉さんにとっても幼馴染がいる場所をこんなところって言っている。

 敵意にも似たものが彩葉さんの体から発せられている。

 ううん、明らかに私に向けられた敵意が感じられる。

「な、何が、ですか……?」

 怖いわけじゃないけど……すごく心細い。嫌な、感じ。

 思わず後ずさりすらしたくなったけど、逃げるのは嫌だった。

「貴女ともっと話したかったのよ」

「話、です、か……」

「そう、麻理子のいないところでね」

「そ、それで、な、何だっていうんですか」

「そうね、まず……」

 すくっと立ち上がってくる彩葉さん。

 私よりも背の高い彩葉さん。今の今まで気にもならなかったのに今は、こうやって上から見られるだけでも震えが出てきちゃうような気が……

「私って貴女のことどう思ってるって思う?」

「え…ど、どういう意味、ですか…?」

「そのままの意味よ、どう思う?」

「どう、って……」

「ま、貴女がどう考えているかなんて実際どうでもいいけど、教えてあげるわ」

 空気が張り詰めてる。うまく息をするのすら難しいくらい。この恐ろしい雰囲気を作り出しているのが、今まで私にだってほとんど笑顔を向けていた彩葉だっていうことが信じられない。

「嫌いよ、大嫌い」

「っ……」

 好かれたいだなんて思ってないけど、こうして嫌いだなんてこの状況で言われるのは恐ろしいものがあった。

「麻理子のこと、何も知らないくせに、恋人面して。なに調子乗ってるの」

「し、知らないだなんてこと、ありません」

 怖いって思ってても心反論もできないようじゃそれこそ恋人だなんていえない。

 でも、彩葉さんはそんな私をあざ笑う。

「ふふ、何が、なのかしら? 麻理子のことで貴女が知っていて私が知らないことなんてあるの?」

「あ、あるに決まってるじゃないですか!

 なに、何なのこの人? 何で急に……それともこっちが彩葉さんの本当の姿、なの……?

「貴女が知ってることは私も知ってることよ。麻理子から貴女とどんなことしてるかだって聞くし」

「っ!! 嘘!

「さぁ? どうかしら? ま、その事はいいわ。でも、私は貴女が知らないことを確実に知ってるわよ」

「そ、それがなんだって……」

「例えば、麻理子の小さいころ、幼稚園のこと、小学生のころ、中学生のころ。好きな食べ物、好きなゲーム、音楽、テレビ、本、漫画。私は何でも知ってるわよ」

「っ……」

 ……確かに今言われたようなことなんてほとんど知らない。先輩は自分のことなんてほとんど話さないし……だから、あんまり私も聞いたことがない。

「それに……どうして保健室にいるかや、麻理子の体のこととか、ね」

「っ!!!!??

「何今さら驚いてるの? あぁ、貴女は知らないのかしら? 麻理子の体のこと。話してもらってないんだものね」

 本当に今目の前にいるのが、彩葉さんなのと思うくらい彩葉さんは違いすぎた。

 美人で、落ち着いてて、穏やかで、笑顔を絶やさない。

 そんな評判が音を立てて崩れるような夜叉のような彩葉さん。

 正直言って怖かった。

 こんなこといきなり言われて怒っているっていうのもあるけど、今震えているのは……怖い、から。

「し、知ってます、よ……先輩の、こと……」

 怖いから、こそ。例え嘘でも反論しなきゃ耐えられなかった。それに、完全には嘘じゃない。話してもらってはいなくても知ってはいるんだから。

「嘘はいけないわね。麻理子があなたに話してないっていうのは麻理子から直接聞いたことよ」

 でもそれはあっさりと看破される。

「っ……な、何なんですか……いきなり、こんなこと……わけ、わからない、ですよ……何が、したいんですか……」

 もう聞きたくなかった。彩葉さんの言葉は確実に私の心をえぐろうとしている。それでも逃げられないのは、私こそが先輩の恋人なんだって思っているから。

「だから、私は貴女が嫌いって言ってるじゃない。貴女がいかに麻理子に関して無知で、本当の恋人だなんて言えないかっていうのを教えてあげてるのよ」

「ち、違います。わ、私は……先輩の……恋、人、です……」

 情けない。あまりに情けなさに涙が出ちゃいそうだった。恋人ってはっきりいえなかった自分が…悔しくて、嫌で……

「どこが? 自分の見たい麻理子しか見ようとししないあなたのどこか恋人なのかしら? 麻理子が苦しんでいるのを知ってて何も聞かないのが本当の恋人なのかしら?」

「っ!!!

 心にあった一番他人に触れられたくない部分に触れられた私は一気に涙を流した。

(そんなこと知ってる!! わかってる!! でも……先輩は……)

「まぁ、言いたいことはそれだけよ。少しは身の程がわかったかしら? なら、後は自分で考えなさい。それじゃあね」

 最後だけ、優しく肩にポンと手を置いて彩葉さんはさわやかな風のように私の横を通り過ぎて、保健室から出て行った。

「……先輩」

 残された私はそう呟いて先輩がいつもいるベッドを見つめることしかできなかった。

 

 

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