「……………」
やれやれ、と私は思う。
視界の先には背の高い本棚と
「なんとか言いなさいよ」
不機嫌を通り越して怒りのオーラを発している恋人の姿。
(……ここで「なんとか」とかお約束をしたら火に油をそそぐわよね)
恋人の態度に対してこんなのんきなことを考えられているのは、見解の相違というか
「何が問題なのかしら? って気分なんだけど」
私の主張が正当と考えているから。
夕暮れの図書室、よく逢引きをする三階の本棚の間で怒る恋人に投げかける言葉としては適切ではないしこれこそ火に油を注いでるようにも思えるが、不当なことで非難されるいわれはないのだから自分の主張はさせてもらう。
「今ここであんたとこうしてる身でいうのもなんだけど、仕事を優先するのは当然でしょうに」
すみれの怒っている原因は簡単にまとめるとこうだ。
私とすみれは勤務時間は一緒ではない。だから時間を決めてこうやって逢引きをする。
すみれは休憩時間が決まっており比較的自由の効く私が合わせてあげるのだが。
「利用者から問い合わせを受けて、その対応をする。それは私がしなければならない業務ね。連絡ができなかったことは謝るけれど、それで怒られることはないでしょうに」
「……三日も続けてじゃない」
「そういう偶然もあるでしょうに」
「しかも、その子中学生の女の子なんでしょ。文葉ってロリコンなの?」
(やけに機嫌が悪いかと思えば)
どうせこんなことをすみれに伝える人間は一人しかいない。
「早瀬のいうこといちいち真に受けてんじゃないわよ、あいつはからかって楽しんでるんだから。それに同じ子だったのは一昨日と今日で昨日は違うわよ」
「詳しく覚えてるじゃない。楽しそうに話してたんでしょう?」
「だから早瀬のいうことを真に受けるなって言ってるでしょうに」
この感情の元が私への好意からきているのは理解しても、面倒なやつという感情を持たざるを得ない。
「そもそも責任を投げ出して恋人に会いに行くってのはあんたが好きな私じゃないんじゃないの?」
「どういうことよ」
「仕事を一生懸命頑張る私を好きになったんでしょ」
出会いのきっかけのことを思い出す。
「私が利用者からの問い合わせを面倒って投げ出してたら今あんたとこうなってないでしょ」
「それは違うわ」
「ん?」
「文葉が誰かのために頑張ってるってのに興味はもったけど、好きになったら私を優先してほしいに決まってるじゃない」
「…………っ」
呆気にとられるわ。
呆けたまますみれを見てもすみれにはうしろめたさのようなものは感じられない。
人間として正しいのは私のはずだ。何もすみれと仕事でどっちが大切かなんて大げさな話をしているわけではない。
仕事中のほんの十分程度会うことをしなかっただけだ。
すみれにもそれ自体はわかっているはずだ。自分の方がおかしいことを理解していなくはないはず。
それでもその感情の強さをぶつけているのは。
「……あ」
手を掴まれた。
強く、ではなく弱弱しく、だ。
それがすみれの感情の正体な気がした。
「……あんたには三番目の恋人かもしれないけど、私には文葉がすべてなのよ。いつだって文葉のことだけなの」
(早瀬は恋人じゃないけれど、というのは無粋か)
感情を絞り出す恋人に茶々を入れるほど愚かではない。
「抜けられない時があるなんてわかってるわよ。けど……」
しばらく言葉を止めるすみれは少女のような儚さを漂わせる。
「約束を破らないで。……不安に、させないで」
感情の詰まったそれはこの一件について私と納得させる迫力を含んでいる。
(……でも、この気持ちを本当の意味で理解するのは私には無理なんでしょうね)
自分の気持ちにも私の気持ちにも自信を持ちながらも、不安を抱くその気持ち。
わかるがわからない。
すみれにとって私がすべてと理解はしてもその重さは違う。頭ではわかっても本当の意味ではわからない。
だけど、その通りだ。
私がすみれのすべてなのだ。
すみれには私しかいない。
私がすみれを捨てるとか私にとってすみれ以上の存在ができるなんてすみれ自身も思っていないだろうが、不安になることすら恐れるのは……
(私に共感することはできないけれど)
「すみれ」
取られた手を今度はこちらから取り指を絡めた。
「私が悪いと単純には言わないけれど、軽率だったわ」
空いている手をすみれの背中に回して強く引き寄せる。
「ごめんなさい。もうあんたとの約束を無断で破ったりしない。いけない時でも必ず連絡はする」
できるだけ優しい声色で心にしみこませるように言った。
繋がる手に感触に気持ちが伝わったことを察し抱く腕に力を込める。
「不安にだってさせないわ」
「ふん、文葉はいつもそうやって遅いのよ」
「気付けるところを認めて欲しいわね」
「これから次第ね」
「努力する」
「なら、まずはしばらくこうしてて」
「りょーかい」
軽口ではあっても気持ちは伝わっていることはわかるから、この面倒でヤキモチ焼きでなにより愛しい恋人を抱きしめるのだった。