悲しかった。 それが、沙羅に無視をされた時最初に感じたことだった。まるで、望のことが目に入っていないようなそんな態度。 本当に一瞥もない。 あれほど、望を見続け、求め続けた沙羅が望を存在しないもののように無視をした。 それは望に意外なほど大きな衝撃を与えていた。 あの一事だけで沙羅の世界から消える自分、自分の世界から消える沙羅を想像してしまった。 (……私が、沙羅を………【傷つけた】から?) あの二時間目の休み時間以降、沙羅の様子をうかがうことすらできなかった望はまっすぐに寮の部屋に帰るとベッドに腰掛けたままずっと、沙羅のことを考えていた。 (……だから、沙羅はあんなことをしたの?) 沙羅が自分を忘れるつもりだと、いないものとして過ごすことを決意しているのを知るはずもなくとも、本能的に沙羅が自分との間に大きすぎる壁を作っていることを感じた。 もっとも、沙羅からすれば望のほうこそ、越えられない壁を感じていたことには今は、まだ気づけていない。 (………沙羅) 浮かぶのは沙羅の涙。望に傷つけられて流した沙羅の、涙。 沙羅を救ったときと同じ、沙羅が意図せずに漏らした本音。 そのつもりがなかったからこその本気の気持ち。 だから、傷つけたのは間違いなくて、その原因は玲が、教えてくれた。 (……私が、沙羅を好きだから………) 一見すると矛盾をしている。 好きだから傷つける。そんな倒錯したようなことをした覚えはない。 (……好きなのに? 好きだから?) 好きなのに、傷つけた? 好きだから、傷つけた? それは、恋ではあり得ることなのだろう。望がまだ知らない恋では。 (……沙羅の、好きは……怖かった) 過去形で表現したのは事実を振り返っただけだからなのか、それとも別の理由かはわからない。少なくても怖かったという事実は望の中に存在する。 (……今まで見たことのない顔で、獣みたいに息が荒くて) 誰よりも知っているはずの沙羅が、全然知らない相手みたいに思えた。 (好き、だから、あんなことしようとしたんだよね……) 震えながらその時の光景を、感触を思い浮かべる。 沙羅が何をしようとしていたのかわからないわけではない。何をされそうだったのかくらい、わかってはいる。 だが、【なぜ】沙羅がそんなことをしようとしていたのか、それを深く考えることは一度もなかった。 あの後に思ったのは、とにかく沙羅を離したくないということで、それだけで本来考えなければいけないことに対して思考を停止してしまっていた。 そこに手を伸ばせなければ、永遠に沙羅とは分かり合えないというのに。 (好き………沙羅の、好き) キス、だけじゃない。 (……え、えっち、なことしようとしてたんだよ、ね……) そういうものもあるんだという程度で、まだ一度もそんなことをするのもされるのも考えられたことすらない望ではあるが、玲の一件で今までと違う角度から沙羅の好きを見ることができた望は、頭ではそれを理解する。 そして、それと同時に頭をよぎったのは 「でも……私、たち……」 今までずっと頭の中だけで考えていた望は、小さく声をだす。か細く、心の揺らぎのまま震える声。 「女の子、同士、なのに……」 しかし、心の奥底にまで届くものだった。 「あ…………」 心に落とした波紋はゆっくりと、しかし確実に望の隅々にいきわたっていく。 「あぅ…あ」 心の波に揺さぶられるように望は意味のない言葉を発しながら胸の前で腕をクロスさせ、自分を抱くように体を丸める。 (あ……あ、あぁ……うぁ) 望は沙羅に憧れていた。 初めて助けてもらってから、その強さに惹かれていた。 その憧れは、ただの憧れではなかったのかもしれない。 望は自分を弱いと思っていた。友達のためだろうと、自分の思っている以上のことなんてできるわけがないと思っていた。 けれど、あの時、沙羅を救った時。 望は自分では考えられないことをした。自分のことですら、やめてと言えなかったのに、不思議なほど勇気が湧いてためらいすらなかった。 自分のためじゃなく、沙羅のためだからきちんと話ができた。沙羅をいじめないでと言うことができた。 それは、ただの恩返しだと思っていた。自分を助けてくれた沙羅を今度は自分が助けたいというそんな言葉を悪くしてしまえば、自己満足に等しいものだと思っていた。 しかし、今ならはっきり違うといえる。 助けられたから助けたかったのではない。 沙羅が苦しんでいるから助けたかったのだ。 沙羅だったからだ。他の誰でもない、沙羅だったから。 (大好きな、沙羅、だったから………) 人には無意識がある。 常識がある。 それは、決して長いとは言えない望の人生においても当然存在する。 真っ白だった子供のころ、すべてを当然のこととして受け入れてきた幼いころ。 そんな時は確かに存在するのに人は生きていくにつれ、自分を型にはめていく。徐々に狭くなっていく自分の世界を、周りがそうだから、それが常識だからと抵抗もなく受け入れていく。 そして、いつしかその枠からはみ出ることを恐れ、またそんなことすら考えられないようになっていく。 それが、無意識であり、常識だ。 初めから定まったことではないのに、初めからあって、それを破ってはいけないものだと認識するのだ。 女の子が女の子を好きになるのはおかしいこと、と。 まして、望はただでさえ、孤独を恐れ、孤立しないようにと生きてきた。 そんな望の心が、これまで何かに強制されるように培ってきた常識が無意識に守っていたのだろう。 自分をごまかすことで、誰かが勝手に決めた枠からはみ出さないようにしてきたのだ。 沙羅を、一人の女の子として好きな気持ちから目をそらし続けてきたのだ。 (私は……ずっと、沙羅が好きだったんだ……) それにたどり着いた望が思ったのは 「わたし…………私っ! …………………………………………ひどい」 自分の罪だった。 「ひぐ……ひぅ……うっく」 気持ちの濁流は心をかき乱し、それを少しでも吐き出すかのように望は嗚咽を漏らし、涙を流す。 (ひどい……ひど、すぎる) 今でも、おかしいと、女の子を好きになるなんて異常だと考える自分がいる。 それが望が強制されてきた常識であり、ほとんどの人の共通の観念なのだ。 こんなのは普通じゃない。いけないこと。認めてもらえないこと。 それが真実であればあるほど、望は自分のしてきたことが重く感じられた。 (沙羅も、同じだった、はず、なのに………) 今自分が感じたような……不安を、焦燥を、恐怖を、沙羅も感じていたはずだ。 世間にも、友だちにも、家族すら、受け入れてもらえないであろう気持ちを抱え、苦しんでいたはずだ。望にはそれを一切見せることなく、悩み苦しんでいたはずだ。 (……違う! 沙羅は、もっと) しかし、望と沙羅では決定的な差がある。 望は沙羅を好きで、現在の距離はどうであれ沙羅が自分を好きなことを知っている。 だが、沙羅は違った。 望の気持ちなんて知らなかった。知りようもなかった。 世間に、友だちに、家族に受けいれられないとしても、それは耐えられるのかもしれない。愛を貫けるのかもしれない。 けれど、想いの先に、好きな人に、受け入れてもらえなかったら……それどころか、嫌悪されてしまったら、気持ちを保ち続けられる人間がいるだろうか。 沙羅はそんな不安と闘いながら、自分の気持ちを押さえつけながら、ずっと望と接してきた。 一歩足を踏み外せば絶望へと落ちてしまいそうな道を沙羅は歩いてきたのだ。 「なのに………私は……」 涙にぬれる声をあげながら、望は自分の犯した罪を振り返る。
「好きだよ。沙羅のこと」
言ってきた。何度も、何度もその言葉を。 それは望の隠していた気持ちが無意識にもれたのかもしれない。ことあるごとに望は沙羅に伝えてきた。 好きだと。 その好きは望が目を背け続けてきた好きとは違い、沙羅が望んでいた好きともかけ離れていた。 何も知らず、何もわからず、何も見えず、中身のない好き。 そんな【好き】欲しいはずがない。嬉しいはずがない。いや……むしろ。 「うあ……ぁああ……さ、らぁ……」 望はそんな好きを伝え続けてきた、【その時】をいくつも、いくつも、いくつも脳裏に浮かべ…… 「ごめん、……なさい……沙羅……さら……さ、らぁああ」 初めて自分の気持ちに気づいて沙羅を想うのだった。
3/次話