人は忘れる生き物だ。

 忘れることのできる生き物だ。

 生まれてからすべての記憶を覚えていては人は生きていけないだろう。

子供のころの恥ずかしい言動、苦々しい思い出、つらい記憶。

 そんなものをすべて抱えて未来へと歩けるほど人間は強くはない。

 選び、捨てて、人間は前へと歩いていく。

 まだ二十年と生きていない沙羅にとってもそれは例外でない。

 いろんなものを忘れてきたから沙羅は今を生きていけているのだ。

 そして、それはこれからも変わらないだろう。

 忘れるということは人が生きる上で必須の、本能のようなものだ。

(……だから、忘れられる)

 そう思い始めてから、初めて望を見た沙羅はまるで頭に入らない授業を聞きながら、この二日に決意したことを思い返し、自分に言い聞かせるよう心でつぶやいた。

 望を見たことをきっかけにそんなことを思い返さなくてはいけないのだから、まだ忘れてはいない。

(当たり前だけれど)

 二日で忘れられるような浅い気持ちではないのだ。

 本当はいくらでも頭によぎった。望に関する様々なことが、掴みかかりたい気持ちもあれば、まだまだ言いたりないこともなる。かと思えば、確実に傷つけてしまったことを謝りたいという都合のいい妄想だってある。

 だが、沙羅はそのすべてに蓋をすることを決めていた。

 今だって望のことを好きな気持ちは変わっていないつもりだ。同時に、望のことを憎く思う気持ちも。

 だけど、もう嫌なのだ。

 何もわからない、理解しようともしてくれない望を待つなどと。

 初めて告白してしまった時に望んだ【いつか】を待つことも、望に嫌われてすべてを諦められるのを待つのも。

(……疲れたのよ)

 疲れてしまった。

 あの日、まだ三日前でしかない金曜日。あの日、それを思い知った。

 望が倒れて、玲が親の仇を見るような目でにらみつけ、望を連れて行った。

 その後、声をあげずにただ涙を流していた沙羅は見回りの教師に声をかけられ、やっと帰っていった。

 ほとんど記憶のないまま沙羅は家へと帰り着き、制服のままベッドにもぐりこんで、泣いた。

 泣き続けた。

 また望を泣かせてしまったことに、望を傷つける言葉を口にしたことに、望に傷つけられた痛みに、もう今度こそ終わりだという現実に。

 泣いていた時間は定かではない、とにかく泣いて、泣き続けて、気づけば外は真っ暗で、沙羅は腫れた目で妖艶に輝く月を見ながら、激しい疲労感に襲われた。

 それは泣き続けたことに対する肉体的な疲労ではない。

 これまですり減らしてきた心が訴えてきた疲れなのだ。

 そんな疲れた心が沙羅に選択をさせてしまった。

 もうやめようと。

 今までだって、何度も思いはした。やめよう、やめたいと。望み、願った。だが、できずにいた。

 今まで苦しんできた、悩みぬいてきた想いを捨て去ること簡単にできるわけがなかった。どれだけ傷ついて、苦しめられても、望を好きな気持ちがなくなるなどありえるわけがないとも思ったし、終わりを望みながらも望を好きな気持ちを捨てるなんて心が拒絶をしていた。

 それが矛盾であることがわかっていても、そんな気持ちがあるからいつまでも終わりが来ないのだとも知っていながら、沙羅には望を捨てることができなかった。

 これまでだってできなかったことがこれからできるとは限らない。それでも、人は【忘れる】生き物だということを自分に言い聞かせ、沙羅はその決意をした。

 もう望という存在のすべてを捨て去ろうと。

 今まで苦しんだ時間が無駄になろうと、傷ついた心の痛みが無為のものになろうと、好きな人をただ、傷つけただけで終わろうと。

 これから先、報われない時間を過ごし、癒えぬ心の傷を抱え、好きな人を傷つけ続けるよりはましだと思うから。

(……私は、望を忘れられる)

 人が忘れる生き物であるのは疑いようのない真実だろう。

 誰もが、つらい経験を抱えるはずだ。報われない恋などこの世にはいくらでも存在する。だが、それが原因となって【何か】が起こるなどほんの一部でしかないはずだ。

 失恋をした人間のほぼすべてはそれを忘れ、代わりを見つける。そう、どんなものにだって代わりは利く。

 失恋したのなら、別の恋を見つければいい、それにとらわれていた時間がエネルギーを他のことにぶつけてもいい。

(そうよ……望の、代わりなんて………)

 自然ににじむ涙が、まだそれを理屈でしかわかっていないのだと沙羅に思い知らせていた。

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