どこにでもありそうな中規模のオフィスの中で一人の社員がカタカタとパソコンを打っている。
「……ふぅ。やっと終った」
机に座りながらディスプレイをみつめ、桐原 麻美は長く息を吐いた。彼女はキーボードから手を離してディスプレイに写った内容を丹念に確認する。
しばらくすると「うん」と頷いて席を立つ。
彼女を見てまず目に付くのが腰ほどまである長い髪だ、ストレートに伸びる髪はこれほどの長さを誇りながらほとんど乱れることもなく、痩身の彼女に似合っている。さらに鼻筋が通り、薄く化粧を施したその顔は美麗だった。
麻美は人のまばらなオフィスを見渡すと、失礼しますといって自分の部署を出て行く。
「うわっ、もうこんな時間」
腕時計をみて小走りにエレベーターへ向かうと、そこで一人の女子社員と出会う。
「あ、先輩。先輩も上がりですか?」
名前は鳥海 舞。今年の新入社員で新人研修の時には麻美が指導した子だ。それがきっかけで麻美にはよくなついていた。
「えぇ。舞ちゃんも?」
二人はエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押して会話を続ける。
「はい。先輩、暇ならこれからご飯食べにいきません? この前いいお店見つけたんですよ」
「うーん、行きたいのはやまやまなんだけど、今日はこれから友達のところいかなきゃならないの。ほら、いってなかったかしら? 明日結婚式だからって」
「あ、そういえば……むぅ残念です」
舞は少し膨れて不満そうにするが本気で思っているわけではないらしくすぐに笑顔で「じゃあ、また今度ですね」と言った。麻美もまたねと答えると、同時にがくんとエレベーターが止まるときの独特の振動がした。
一階について小さなロビーを抜けると、ネオンの光る町並みへとでる。
「じゃあ私今日はこっちだから」
「あ、はい。私からもおめでとうって伝えてください。まぁ、名前も知らないですけど」
「ふふっ、ありがと。じゃあね」
軽く手を振ると麻美は舞と別方向へ足早に歩き出した。
麻美はその友人の家に来ると必ず思うことがある。
(あいっ変わらず大きいわね)
すでに飽きるほどここに来てはいるが何度見てもなれることがない。まず敷地からして尋常じゃない。庭で運動会でも開くつもり? とか思ってしまうほどだ。
家というよりは屋敷と言ったほうがいいのかもしれない洋風の家屋はその塀に囲まれた庭の奥に見えるが、庭の木々に阻まれうっすらとしている。
ただいくら家がでかかろうが門の前ですることは変わらない。麻美は門のわきに備えてある呼び鈴を押す。すると、すぐさま初老の女性の声がした。
「どちらさまでしょうか?」
「桐原です。楓に会いにきました」
カメラもついているので軽くそっちのほうへ会釈をすると、麻美の姿を認めた女性がまぁまぁと嬉しそうな声をだした。
「楓様もお待ちでしたよ。どうぞお通りください。今、向かえのものを」
「あ、大丈夫です。昔じゃないんですからもう迷ったりしませんよ」
「そうですか、失礼しました。では、お待ちしております」
ブツっとマイクの切れる音がすると遠隔操作可能な門がゆっくりと開いていく。麻美はそれを待って敷地へと入っていく。
中はちょっとした林のようになっていて、道も普通の公道のように整備されている。さらには、生垣も通路を作るようにあって高位な人間の家な感じがする。
(昔は、これのせいで迷ったりもしたけどね)
ふと、そんなことも思い出しながら五分ほどでようやく屋敷のドアの前へついた。またここでも呼び鈴を鳴らすとすぐにドアがギギギと開く。
「お待ちしておりました」
出てきたのはさっき門の前を応対してくれた女性でこの家の家政婦筆頭の比沙子さん。この人にもよくお世話になったものだ。
比沙子さんは麻美の手にあるものへ目を向けるとそれは? と言った顔をする
「あ、楓にです。そういえばこういうのを渡してなかったもので…楓、部屋ですか?」
「そうですか、楓さまを喜ばれると思います。では、私はお茶のご用意をさせていただきます。すぐにお持ち致しますので楓様のお部屋でお待ちください」
「ありがとうございます」
久美子さんは深く頭を下げるとキッチンへと向かって姿を消す。麻美も勝手知ったるなんとやらでいちいち荘厳できらびやかな屋敷の中を通って目的の場所へ向かった。
庭ほどではないが、ここでも玄関から部屋までで一分以内につけないのだから恐れ入る。
コンコン。
「はい?」
軽く部屋をノックすると中から細い声が聞こえた。
「楓〜、私―」
「麻美! 待って今開けるわ」
部屋の中からパタパタと足あとが聞こえてきて、ドアが開くと同時に麻美は右手に持っていたものを楓に勢いよく突き出した。
「わっ!!? な、なに?」
麻美が突き出してきたのは花束で楓は驚いて後ろに一歩下がった。
「はは、別にショットガンとか仕込んでるわけじゃないわよ」
「? なにそれ?」
「さぁ? 確か昔の映画か何かであった気がする。一度やってみたかったのよ」
「何もこんな時にやらなくても」
「いいじゃない。とにかくはい、あげるわ」
楓に花束を渡すと麻美は部屋の中へ入っていく。部屋は屋敷の内装に合わせて高級そうなベッドや大きな鏡などやはり豪華なつくりになっているが、家具は自体は少なく生活に最低限必要そうなもの程度しか置かれてなかった。
(……そっか、明日からいなくなるんだものね)
明日の結婚式が終れば楓はそのまま相手の家へ住むことになっている。必要なものはすでに送ってあり、閑散とした部屋の様子はただでさえ広い空間をさらに広く見せていた。
この部屋の主御子神 楓を表す言葉といえば社長令嬢だ。正確に言うのなら少し古い言い方になるが大財閥の令嬢と言える。
華奢な体に、形の整った面貌で眉宇や赤唇に品の良さが見て取れる。しとやかさの中に健康的魅力も兼ね備えていた。
そんな楓は明日、同じ大企業の所へ嫁いでいく。政略結婚とまでは言わないかもしれないが、決して恋愛結婚ではない。
楓がどんなことを思っているかは大体把握していても、そのことをとやかくいう資格は麻美にはない。
「ありがとう、麻美。ねぇ、少し外行かない?」
楓は麻美から受け取った花束をテーブルの上に置くと、麻美を誘う。
「かまわないけど、比沙子さんがお茶持ってきてくれるって言ってたわよ」
「比沙子さんには私から言っておくから、いいじゃない」
麻美の腕を取って楓は部屋の外へと引っ張る。
麻美はいつもの違う楓の様子を若干不思議に思ったが、ほんのり赤らむ頬を見てその理由を察する。多分、少し酔っているのだ。麻美は複雑な思いに駆られながらも頷いた。
「わかったわ。行きましょ」
光源のほとんどない中、麻美は楓と並んで歩く。昔は迷路のように思えたこの生け垣もこうやって少し散歩をするときにはただ歩くだけじゃなく彩りを見せてくれる。
屋敷からの光はそれほどでもなく月光に照らされる庭はどこか幻想的だった。
「昔もこうやってよく一緒に歩いたよね」
楓は麻美より一歩前に出て懐かしそうに呟く。
「そうね」
「あの頃は楽しかったよね。何やるにも自由だったし、いつも麻美が一緒で、本当楽しかった」
「そう……ね」
「無理だなんてわかってるけど、昔に戻れたらってやっぱ考えるのよ。最近」
振り向かない楓の背中を見つめながら麻美は「私も……」という言葉を必死に抑えた。
麻美と楓は以心伝心の関係だ。だから麻美には楓がどうしてこんなこというのかも大体はわかるし、それがただのマリッジブルーで片付けられるものでもないと理解している。
楓は昔から多くのしがらみを纏って生きてきた。大企業の令嬢、それだけで本人の預かり知らぬところで様々なものを背負わされてきた。それを一緒に背負ってきたのが麻美だったが、今回ばかりはそうはいかなかった。
周りがなんと言ったって今回のことは楓が自分で決めたことなのだから。
「戻りたいなぁ……昔に……」
「……っ」
麻美はまるで少女に戻ったような楓に対しある衝動を抱く。だがその情動に突き動かされそうになる体を唇を噛み締めて耐えた。
(……今さら、私が何かいってどうするつもり?)
楓は自ら今回のことを、結婚という道を選んだ。どんな気持ちでそうしたか誰よりもわかる自分がここで何を言えるというのだ。
「なに、言ってるのよ……そんなの、無理に決まってるでしょう」
「……そう、よね」
月明かりに照らされる楓の背中は、儚く消え行く妖精のように麻美の目には写った。
……自分に言い聞かせてきた。
楓が決めたことだから、選んだことだから、考え抜いて決めた答えだから。
だから、何も言ってはいけないと。
(きたのに……)
「かえで……」
気づくと麻美は後ろから楓の体を抱きしめていた。
楓の小さな体が、甘い香水の匂いが、ふにっとした楓の感触が、そのすべてが麻美の劣情を刺激する。
「ねぇ、このままどっか行っちゃわない?」
「どこか……って?」
楓は幸せそうに首元に回った麻美の腕を掴む。
「どこでもいい……私と楓がずっと一緒にいられるところ。そんなところに行ってさ、小さなアパートでも借りて二人で一緒に暮らすの。大変かもしれないけど、二人一緒ならなんとかなるって思わない?」
こんな駆け落ちめいたことをいうなんてまるで子供ねと思いながらも麻美は楓を抱く腕に力を込める。
「いいね……楽しそう……でも、駄目よ」
悲しく響くその声に麻美は固く目を瞑った。
「そんなことしたら大騒ぎになっちゃうし、色んなひとに迷惑かかっちゃうし……もう、私一人のことじゃないんだもん……」
そんなの関係ない! 周りなんて騒がせておけばいい、他人のことなんかよりも自分のことを考えてよ! と、そう叫びたかった。叫んでしまいたかった。胸の奥から次々と溢れる気持ちを楓にぶつけてしまいたかった。
「そう、よね…ごめん。忘れて……」
断られるなんてわかっていた。だからこそ今までこの気持ちを伝えることをしなかった。ずっと思いを通じ合わせた麻美だからこそ、楓の選択の重さを誰よりもわかってしまう。
「ううん、嬉しいよ。ありがとう。私は大丈夫だから……だからもう少しこのまま抱いていて」
「……えぇ」
そして二人は妖艶に輝く月の下、同じ感情を抱きながらしかし決して顔を向かい合わせることなく互いのぬくもりを感じあった。