バンッ!
宵の闇も深くなった深夜、麻美は帰宅すると同時に手に持っていたハンドバックを壁に叩きつけた。
「……う……うぅっ……っく……うあぁぁ……」
次いで嗚咽を漏らす。
「楓、かえで……楓……」
麻美はふらふらと親友の名前を呼びながらベッドへと倒れこむ。ごろんと体を仰向けにすると涙に歪む視界で天井を見つめた。
『でも、駄目よ……』
切なく響いた楓の声がいつまでも耳に残っている。麻美はそれを思い出すと、怯えるように体をすくませた。
(どうして、あんな事いっちゃったのかしら……?)
駄目だってことはわかりきっていたのに。冗談で言ったつもりはなかったが、あんなの楓の心に波紋をもたらすこと程度にしかならない。
そんなものじゃ駄目なのだ。
もし、楓が御子神家に生まれていなかったら。もし、私に楓を救える力があったのなら。そんな考えてもどうしようもない、もしをいくつも考えてしまう。
それどころか……
(最初から楓と出会ってなければ……)
そんなことすら考えてしまう。出会ってなければ、友達にならなければ、親友にならなければ……好きにならなければ……こんな気持ちを抱かずにすんだ。
楓が麻美へ与えたのは決して悲しみだけではない。麻美は楓に多くの幸福を、楽しさを、愉悦をもらい、与えた。
しかし、どんな幸せも楓を失うこの悲しみには比較にすらならない。
「かえで……」
麻美はまるでそこに楓がいるように抱くような仕草をした。
まだ、楓を抱いたぬくもりが残っている気がする。時間的にありえないことだが、麻美は「そこ」に楓を感じることができる。
残滓がある程度ではない。麻美の体には、楓のぬくもりが、感触が、髪が、肌が、唇が、香りが、楓のすべてが染み込んでいる。
瞳を閉じ、麻美はそこにはいない楓に口づけをする。
「……………」
楓は覚悟を持って、今回のことを決めた。自分のためじゃなくて家族のために。昔から楓はそうだった。まず、人のことを考えて自分を二の次にした。自分を犠牲にして周りを助けてきた。麻美もそれに助けられてきたし、麻美はそんな楓を支えたいと願いその通りにしてきた。
(……割り切るしかないのよね……)
楓のすべてをわかる麻美にはなおさらそうするしか出来なかった。
楓も麻美ももはや子供ではない。わがままを通すには限界がある。
割り切りたくなんかない。けど、そうするしかない。
悲しいことや辛いことを割り切るのが大人になることだとするのなら
(私は……まだ子供だ)
そして、楓は大人なのだ。
誰もがいつまでも子供ではいられない、割り切らなければならないのだ。
だから、この夜だけは泣いてしまおう。
きっと、同じ空の下で楓も同じ気持ちでいてくれるのだから。
豪奢なホテルの中を麻美は一人歩いていく。このホテルは国内でも有数のもので、有名な芸能人やら企業人の結婚式などがよく執り行われる。
周りにいる人々はそれぞれ豪華な衣装を身に着けているが、麻美もそれに比べて見劣りするわけではない。昔、楓から送られた水色のドレスは麻美の痩身によく似合っており、楓とお揃いで買ったリングやブローチも高いものではないが、麻美にとってはなによりも光輝くものだった。
楓との付き合いの上でこういったところにもある程度場慣れしている麻美はすたすたと、早足になりながらもはしたなくはないよう目的の場所へと向かう。
「失礼します」
目指す場所、花嫁控え室へつくと麻美はノックをして、中の返事を待たず部屋へと入っていった。
大きな照明に、白塗りの壁。壁付近には所狭しと多くのお祝いの品が積み重ねてあり、そこから少しはなれた一角に姿見の鏡。
「麻美!」
その鏡の前に人形のように座っていた楓は麻美の姿を認めると待ちわびていた恋人を目にしたような大声をあげた。
部屋にいた楓の親や親類が何事かという目で麻美を見てきたが、麻美はそれを無視して楓の目の前まできた。
「あの、すみません。彼女と二人にしてもらえませんか?」
楓は周りの親類に申し訳なさそうにそう述べると、楓に対し軽い祝いの言葉を述べて要求どおり部屋を出て行った。
人がいなくなり二人きりになると何故か麻美も楓も押し黙った。
麻美はどこか悲しそうにウェディングドレスに身を包んだ楓を見つめると、楓も複雑な表情で麻美の視線を受け止めた。
「……楓………………………きれいよ、すっごく」
「…………………………………うん、ありがとう」
純白のドレスに身を包んだ楓は麻美にとってこの世のなによりも美しかった。美しすぎた。
そして、楓が美しければ美しいほど、麻美の中に黒い感情を芽生えさせる。
「麻美、目赤いね」
「…そっちこそ。今日の、主役がそんなのでいいの」
「麻美こそ、スピーチちゃんとできるの?」
「バカに、しない、でよ……やるわよ……きちんと」
「……そう」
話したいこと、言いたいことはお互い山ほどあるはずなのに二人はほとんど言葉を発しない。言葉を口にすれば一緒に涙まで出てきてしまいそうで何もいえなかった。
麻美は血の味がしてくるほどに唇を噛み締め、楓はドレスがしわくちゃになるほど力いっぱいぎゅっと握り締めて感情を抑えていた。
見つめあうまま、時間だけが過ぎていく。
「麻美……」
先に沈黙を破ったのは楓だった。
楓は麻美の名前を呼ぶとゆっくりと麻美に近づいていく。体が触れ合うほど近くまでくると上目遣いに麻美をみた。
「ねぇ……昨日のこと、いいよって言ったらどうする?」
「昨日って……」
「麻美が私をどこかに連れて行ってくれるって話」
「……………な」
麻美は言葉を失った。
昨日自ら断った「駆け落ち」を今度は楓から誘ってきているのだ。
……楓がこんな状況で冗談を言える人間じゃないってことはよく知っている。本気で言っているのだ、楓は本気で……
「な…んで今さらそんなこと言うのよっ!?」
麻美は思わず大きな声を出してしまった。そして、悲痛な表情で楓を見つめる。
昨日、あの時にそういってくれていれば麻美は楓をあの屋敷から、箱庭から連れ出していただろう。あの時はまだ同じ道の途上にいた。だけど、昨日の夜麻美はその道から一歩踏み出すことを決意していた。
今日は割り切ってきたのだ。昨日ベッドでその気持ちは涙と一緒に流してしまったのだ。
だから、今日は「親友」としての務めを果たそうと決めてきたのに。
麻美はやりきれない思いを胸に抱きながら楓をにらむように見つめ返した。
「だって、麻美がおめでとうっていってくれないんだもの……」
「え………?」
「麻美がおめでとうって言ってくれるなら、お祝いしてくれるなら、私何があっても頑張ろうって、頑張れるって思ったのに、麻美今日になって言ってくれないんだもん」
「そ…ん、なの……」
言えるわけはなかった。おめでとう、だなんて。例え本心でなくてもそんなこと言葉になんてしたくなかった。
わかっていた。言わなきゃいけないってことくらい。楓には心からの言葉でなくとも麻美のおめでとうが必要だったのだ。
(それでも、言いたくない)
でも、言わなければ。麻美は今「親友」としてここにいるのだから。
「楓、けっこ…ん……おめ……で……っ!!」
「……いやっ!!」
楓は涙まじりになりながらも消えそうな声で言葉をつむぐ麻美の唇をまるでその先を言わないでとばかりに自らの唇で塞いだ。
「んっ、ちゅく……ちゅ」
楓の舌が深く麻美の口腔に侵入にうねりながら舌を絡ませていく。
「ハァ、ん……じュる、ふ…ぅん……ぁン、はぁ……」
悩ましい音と声が二人から漏れていく。
しばらく麻美の口内で熱くキスを交わすと、楓は器用に麻美の舌を自分の口に持ってこさせ場所を移してまた熱烈に舌を絡ませあう。
いつのまにか二人の瞳からは涙が溢れお互いのドレスをぬらしていく。
「はぁ…はぁ…、は……あ……」
呼吸をすることも忘れ互いを感じあった二人の唇がゆっくりと離れていく。
「楓!!」
濃厚なキスが終ると同時に麻美は楓を強く抱きしめた。
楓も同じように麻美を抱き返す。
「好きよ、好き……愛してるわ」
そういう麻美はすでに楓の「親友」ではなくなっていた。
「わ……わたし……」
『も』とは続かなかった。私もと言ってしまえば、もうこのまま式になんか出れなくなってしまう。ここまで来てそんなこと許されはしない。
「楓さん、そろそろ……」
ノックの音と共にドアを挟んで楓の母親の声が聞こえてきた。
名残惜しそうという言葉では足りないほど、名残を惜しみながらゆっくりと本当にゆっくりと体を離していく。
「もう……いか、なきゃ……」
「……えぇ」
言葉を交わすのがつらい、相手を見ることがつらい。愛しい人のすべてが辛い、悲しい。
「麻美……ありがとう」
それが何に対してのありがとうなのか麻美には知るすべがない。
一歩、楓が歩きだし麻美の横を通り過ぎると麻美はそれだけで身を裂かれるような思いになった。
振り向いてドアノブに手をかけた楓の後姿見ると、頭が突沸した。
「いかっ!! っ」
ないで! とは言えなかった。
麻美の悲痛な叫びを聞いても楓は振り返らない。黙ったままドアを開け部屋を出て行った。そして、ドアがスローにかかったようにパタンと閉まったその瞬間。
麻美の恋は終わりを告げた。
例え結婚しても、この先何があっても、楓のはじめては自分で、幾度も愛を重ねあった自分。初めて愛し合ったのも自分。
その事実と、楓への想いをだけを抱いて麻美は式場をあとにしていく。
心に空いた穴を塞ぐすべを知らぬまま、
麻美は真夏の街へと彷徨っていった。