「望……」
放課後になって、沙羅は一人、寮を見つめていた。
広大な敷地の隅にひっそりとたたずむ、三階建ての建物。灰色の外観のそれはどこか寂しさを感じる建物で、沙羅はすべて同じ形で突き出している窓の中である一点を見つめていた。
(……望)
そこは常に心に浮かんでしまう相手の部屋。
判で押したような典型的な寮の一人部屋。
真っ白なシーツのベッド、自然な木の色をしたクローゼット、なぜか沙羅が座ることの多かった机に望の愛用の茶碗と急須が置かれたテーブル。
「……嫌われてたり、したら、やだから……」
そんな部屋を頭に思い浮かべながら、心には別の言葉が響いていた。
昼休みに聞いたその言葉は沙羅を混迷の森へと引きずり込む。
昼休みにはそんなことを望に思わせたということが、辛く、情けなく、苦しかったが、思い返せばそれはいかに自分が望に想われているかということでもあった。
それが嬉しくないはずはなかった。しかし、やはりそう思えば思うほど、今望を傷つけてしまっているという思いが沙羅を迷わせ、惑わす。
「………………好き」
不意に想いを呟く。
昼休みのは好きといわれたのに等しい。
今沙羅が吐き出した好きとはまったく違う。
友達の好きと、恋人の好き。
そこには共通するものが多いはずなのに、恋人の好きを持っているほうはその重ならない部分に苛まれることになる。
(でも……)
今まで、ほとんど考えないようにしていた。安易な逃げなような気がしていた。
好きだと気づいてから、ずっと恋人になりたくて、友達でも親友でも我慢できなくて。
でも、気持ちを伝える勇気どころか、一緒にいて気づかれてしまうことすら恐ろしくて。
だけど、どうしようもなく好きで。
だから、考えたくなかった。
友達として、親友としてならそばにいられる。ずっと、それこそ、本当に一生いることだって夢じゃない。
友達としてなら。望の隣にいられる。望の近くにいられる。
それは、考えてこなかっただけでわかっていたこと。
ローリスクで、ローリターン。いや、望の側にいられるのであればハイリターンだ。
もし、万が一恋人になれたとしてもそれはリスクを伴う。恋人になることで生じるかもしれない軋轢、周りの目、将来の不安。考え出せばキリがないほどリスクが浮かんでくる。
これまで告白できていなかったのは、望に拒絶される恐怖はもちろんながら、恋人になったその先にあるものへの不安も小さくなかった。
だが、友達として側にいるのであれば、そんな不安は必要ない。自分の気持ちにさえ嘘をつけば、大好きな人と一緒にいられるのだ。
(いたい。……ずっと、望と一緒に……)
いたい。望の隣に。望の一番側に。
それは強烈過ぎる誘惑。
今までは考えられていなかったことが今は沙羅を引き込もうとしている。きっかけはもちろん、あの昼休みのこと。
「……嫌われてたり、したら、やだから……」
望を今悲しませてしまっている。
言い訳。安易な道に逃げるための方便。
それをわかっているはずなのに沙羅はそれから目をそむけてしまう。
(……仕方、ないわよ)
望を悲しませる事はしたくないから。自分のためじゃない、望のため。
むしろ望のために自分の気持ちを押し殺そうとしている。
そうこれは自己犠牲。
好きな人のために、尽くす行為。
(そう。そう、よね……望)
望だって、私といたいって想ってくれてるのよね? 私と話したいって想ってくれているのよね?
数秒だけ目を閉じた沙羅はそう自己暗示をかける。逃げていない、自分は正しいことをしているのだと。
(……私は、望の………………………友達)
目を開けた沙羅は望の部屋を見つめながらそう心に言い聞かせ、その場を去っていった。
「おはよう、望」
翌朝。
校舎の入り口で、建物のすみに隠れるようにして待ち伏せしていた沙羅は偶然を装って望に話しかけた。
うるさいくらいに鼓動がなっていることを自覚しながら、友達を演じるために。
「あ……沙羅」
「どうしたのよ? そんな顔して」
「あ、う、ううん……なんでも、ないの。おはよう」
(……そりゃあ、怒らせてるとか、嫌われてかもって思った相手に、いきなり晴れやかに挨拶されればね……)
若干戸惑いを隠せていない望と一緒に校舎の中に入っていく沙羅は、リノリウムの床を歩きながら、鼓動だけでなく手に汗をかき、自分がいかに動揺しているかを思い知らされる。
「あ、そういえば、今日って生物で小テストあったわよね?」
「う、うん。そう、だったと思う、けど……」
「ノート見せてくれない? 実は最近あんまり集中できてなくて」
「あ、うん。いい、よ」
ありふれた友達の会話。
ここ最近はそれすら出来ていなかった。
それをしている今、沙羅が思うのは。
(………………嬉しい)
好きすぎてまともに会話することすらできなかった。
望と気兼ねもなく会話を出来る。それは嬉しいこと。
(……嬉しい、嬉しい)
自分に言い聞かせるように心で何度もその気持ちをかみ締める。
これでいいと。こんなに嬉しいんだから、これでいいんだと。
「ありがとう、望」
笑顔で礼を告げる沙羅は背中がじりじりとやけていくような不安を覚えた。それは本当はこの決断をする前から気づいていた恐怖。
しかし、そのことから沙羅は目を背け、今を肯定する。
この選択が、新たな地獄のはじまりだということはわからなかったはずはないのに。
目の前の苦しみから逃げるため今はこうするしかなかった。
2/六話