「沙羅、おはよう」
春の陽光が窓から差し込む廊下で沙羅は、その光よりも眩しい相手から声をかけられる。
「おはよ、望」
想い人、望から朝の挨拶をされた沙羅は珍しく朝から元気な望と同じ笑顔をして答えた。
「珍しいわね。こんな時間に来るなんて」
「うん、今日日直だから、ふぁあ、眠いけどね」
「ふぅん、それは大変ね」
沙羅は少し興味なさげにして先に歩き出す。
望と偶然会うときなどは大体こうだ。沙羅が先に動き出す。望はほっといたらそのまま話し込んでしまいそうだし、沙羅はそれを望まない。
「……うん、あ、でもよかったこともあるかな?」
すぐに望は沙羅を追いかけて隣を歩く。
「何?」
望が沙羅の顔を見るのに対し、沙羅は決して望を見ようとはしない。
「だって、朝から沙羅に会えたから」
「っ!? ば、バカなこと言ってるんじゃないわよ」
「あ、バカなんてひどい」
「ば、バカは馬鹿じゃない。別に、私に会ったって何にもないでしょ」
「ううん、嬉しいよ」
(………………バカ!)
胸に痛みが走る。
心を蝕む、甘い毒。それは今に始まったことじゃない。もうずっと体に、心に溜まってきている。
「だって、クラスちがくなっちゃったし、休み時間になったら話せるってわけじゃないんだもん。だから、会えたら嬉しいよ」
「別に、お昼はたまに一緒に食べるでしょ」
この病は悪化する一方だった。
「そうだけど……なんかこうして偶然会うっていうのは嬉しいの」
「ま、それはわかんないでもないわよ」
しかし、沙羅は自分が病にかかっていることすら望に悟られぬよう友達を演じる。
「あ、そうだ。せっかくだし今日お昼一緒にしよ」
「ん、いいわよ。玲も誘う?」
望の友人、玲とは今年沙羅は一緒のクラスになっており、それほど仲がよいというわけではないがたまにこうして三人で昼食を取ることもあった。
それを自分で提案してしまう自分に沙羅は嫌気がさす。
「あ、うん。じゃあ、そうしよ」
そして、それを望があっさりと了承してしまうことにも。
「わかった。じゃあ、私から言っておくわ」
しかし、沙羅は自分は望の親友なのだと言い聞かせそう答えるしかないのだった。
「ひぐ……ひっぐ……うぐ……」
涙を、流す。
学校が終わり部屋に帰った沙羅は、西日を受けながらそのままドアへと寄りかかりその場にへたり込んだ。
「うっく、ひぐ……ひっく」
そのまま押し殺したように嗚咽を漏らす。
何かがあったわけではない。
朝約束したように沙羅は昼には玲を誘い、望と、好きな人と一緒の昼食を取った。
それは楽しい時間。幸せな時間。
望んだ、はずの時間。
友達の時間。
それはまだ季節が過ぎる前、沙羅が望んだもの。悩み苦しんで、選んだもの。
なのに………
「……もう、いや………」
涙を流し続ける沙羅は震える声で呟く。
いつまでこんなことをすればいいの?
楽しくて、嬉しくて、好きな人と一緒にいられて、でもそれだけ。自分の気持ちを隠し続けて、ただ一緒にいるだけ。
本当に望むことは何もできない。キスどころか手すら、つなげない。
それは当然だ。
友達なのだから。あくまで仲のいい友達でしかないのだから。
「のぞ、み……」
俯いた顔から涙が零れ落ちる。同時に沙羅は震える体を心細そうに抱いて、愛しい名を呼ぶ。
(いや……いや……いや)
ついで心の中で何度も今を否定する。
毎日話すことができ、放課後には決まってメールや電話もする。休日には遊びにも行く、それも二人でということだってある。お互いの部屋でほとんど一日を過ごすことすらある。
しかし、それは望みながら望んでいないもの。
恋人ではなく友達の関係。
「……もう、やだ」
一緒にいれば好きという気持ちはどんどん膨らんでいくのに、その気持ちは決して望に向けられることはなくうちへ入っていき、心にずんとのしかかる。最初から支えきれなかったのに、その気持ちは積み重なっていくばかり。
(…………………………やだ)
そして、一人になれば今を否定することしかできない。
(……こんなの、わかりきってたのに)
そう、わかりきっていた。こんな時が来ることを。
恋人になりたいのに、その気持ちをごまかして友達であることを選べばこうなることは当たり前だった。
友達と恋人。
差がありすぎる。
本当は最初からわかっていた。今ある不安から逃げるために、いつしか絶対に訪れる今以上の苦しみから目を背けただけ。
そんなの、本当はわかっていたのに。いつか絶対に苦しむ事はわかりきっていたのに。
「助けて……助けてよ、望……」
自分を苦しめる相手にそう呟くしかない。
ブーブーブー
「っ!!!?」
急に制服のポケットから振動が伝わってくる。
ケータイにメールが来、そんな気分でないのにそれをチェックしてしまう。いや、チェックしてしまう理由はある。
だって、これはおそらく
「……………望」
開いた画面の発信者の欄にその名前が表示されている。
「……………」
凍った表情でメールに目を通した沙羅は
「…………」
またも無言で、それの返信を書いていく。
年頃らしい、絵文字、顔文字をふんだんに使ったかわいらしい文章で。
ピ。
送信を押した沙羅はそのままケータイをベッドへ放り投げた。
「は、ふ、ふふ……」
そして、こんな泣いてすらいるのにあんなメールを返せてしまう自分を自虐的に笑った。
(もう、友達でいるなんて……嫌)
ふらふらとしたおぼつかない足取りで沙羅は校舎を歩いていく。
この休み時間の喧騒の中、どこに向かうというわけではなくただ、生気のない瞳でまるで別世界のように思える世界の中を歩いていた。
「……………」
周りから聞こえてくる、話し声、笑い声、他愛のない、学校にならどこにでもある当たり前の空間と時間。
しかし、沙羅はその世界にはいない。
一人だけ別世界に迷い込んでしまったような、不安にさせられていた。
結局、世界にいるふりはできても沙羅は孤独感を感じていた。自分だけが苦しんでいる。悩んでいる。それを決して誰にも話せずに。
もちろん、今周りで笑い合っている彼女たちにもそれぞれ悩みはあるだろうし、それを誰にも話せずに苦しんでいるのかもしれない。
しかし、それでも自分だけが別世界にいるのだと思いこめる。
望という同じ女の子を好きという現実は沙羅をそこまで追い詰めることが出来た。
本人に告げるどころか、周りにばれてしまえば独りになってしまう。誰にも受け入れられるはずがない。これまで築いてきたものそのすべてが消えてしまう。
少なくても沙羅はそう思い込んでいる。
しかし、
(……楽に、なりたい)
そう思えるのも本心だった。
友達として望の側にいることは地獄でしかなかった。
側にいるだけ。それしかない。ただ、側にいるだけ。自分の望む事はなにもできない。
いや、今はまだいい。
もしかしたら、この先さらに沙羅を苦しませることだって起こる可能性もある。
もしかしたら、いつか望にも好きな人ができるかもしれない。恋の相談をされるかもしれない。誰かと恋人になるかもしれない。……結婚、だってするかもしれない。
そして、その都度沙羅は友達としての対応しかできない。気持ちを隠して、友達として望にアドバイスだってするかもしれない、応援するかもしれない、おめでとうと言うのかもしれない。
なら、そんな地獄が来る前に。
(……楽になりたい、よ)
すべてを捨てることになったとしても。
その気持ちは決して小さくないのに。
「……望」
通りかかった望の教室の窓から望の姿を見つめ、目と心を奪われた。
楽になりたい。受け入れられなかったとしても、これ以上地獄に身を置くより。すべてを捨てて楽になりたい。
のに………
(……嫌われたく、ない)
望を見つめれば結局その気持ちが勝ってしまい沙羅は苦しみの中にいるしかなくなるのだった。