望に心をさらしてしまった翌日。

 沙羅は登校をしていた。

 眠れない夜を過ごした後、普通に朝食を取り、普通に身支度を整え、普通に通学路を歩き、今教室へとたどり着いたところだった。

 玲に見られてしまった以上、学校中で噂になることも考えてはいたし、最悪の事態を想定していないわけではなかった。

 ただ……

(どうでもいい……望に嫌われたんだから……)

 すべてがどうでもよかった。たとえ誰に噂されようと、誰一人友人が寄り付かなくなろうと、この学校にいられなくなろうと、もはや沙羅には関係ないことに思えた。

 朝の喧騒に沸く教室で誰とも話さずに人波をぬって自分の席へとついた沙羅は鞄を机の横にかけると俯いて光のない瞳で机を見つめるだけだった。

(…………噂には、なってない、みたいね……)

 嫌でも耳に入ってしまう周りの声が誰も沙羅のことを話していなかった。本人がいれば話をするのはためらわれるのかもしれないが、それでもなんらかのリアクションがあってしかるべきだった。

 それが一切感じられない。

(……どうでもいい、けど……)

 どれだけのクラスメイトや知り合い、友人に好かれようと今の沙羅には意味のないことだった。

 たった、一人。望に嫌われてしまった今となっては。

 バン!!

「っ!?

 後ろ向きのことしか考えられず、下を向くことしかしていなかった沙羅はいきなり机が叩かれたことに体を震わせて驚いた。

「玲……」

 顔をあげた沙羅の目に写ったのは、昨日望への凶行を邪魔された相手、玲だった。

 普段からツリ目の威圧感のある瞳にさらに力を込め、まるで侮蔑でもするかのように沙羅をにらみつけていた。

「望に何したの」

「………………」

「望に何したのかって聞いてるのよ」

「……うざい」

「は!?

「そんなこと、望に聞けばいいじゃない」

 玲がどのような意図を持って話しかけてきているのかは知らないが話せるわけもなく、話すつもりもさらさなかった。

「聞いたわよ」

(っ!?

 望の部屋を飛び出したときから凍ってしまっていた心がわずかに震える。

 嫌われてしまったことは間違いないと思っていても、何を話したのか気にならないはずがなかった。

「な、んて……?」

 こちらから会話をしようとなんてするつもりはなかったはずなのに口に出すことをとめられない。

「……沙羅は悪くないって」

「っ……」

「詳しくは何も言ってくれないでそればっかり。沙羅は何もしてない、悪くなんかない。だから気にしないで。泣いてたくせに、それしか言わなかった」

「そ、う」

 相づちを打ちながら沙羅は唇をかみ締める。

(望……)

 こうなる可能性も考えていた。

 もし玲のいうとおりであれば望は沙羅を嫌っていないのかもしれない。いや、嫌いになりたいとは思ってもその手前で止まっているのかもしれない。

 望が何を思って玲に話したのか知らないが……ただ一つ確実なことがあった。

(……望の、バカ)

 確実なこと。それは望が昨日のすべてを一人で抱え込んでしまったこと。玲を頼ってしまえばいいのに、自分一人の小さな体に押し込めて抱えきれないものを抱えようとしていること。

「望があそこまでいうから誰にも話してないけど、私は納得してない、だから沙羅に……って、どこいくのよ!?

「……話すことなんて、ない、から」

 玲の話はまだ続いていたが望の姿を想像してしまった沙羅は、玲の話など聞く気、いや聞く勇気を持つことが出来ず、立ち上がると玲の制止を無視して教室を出て行った。

(………………望)

 心に愛しい相手を浮かべながら、沙羅は行くあてのない校舎内をさまよっていった。

 

 

 結局沙羅はHRの時間になっても戻らず、一時間目の授業の開始になってからやっと教室に戻ってきた。

 今年は違うクラスになってしまっている望とは幸いというべきなのか顔を合わせることもなく沙羅はまったく内容が入ってこない授業を聞きながら午前中を過ごした。

(……私ってこんなにバカだったんだ……)

 休み時間に望に会いに行こうと思えば行けたが、行かなかったのはただ望に会うのが怖かっただけじゃない。

 朝の玲の話を聞いて、もしかしたら望のほうが会いにきてくれるんじゃないかってバカバカしすぎる、都合のよすぎる考えを頭によぎらせていたからだ。

(……そんなことあるわけないのに)

 そう、あるわけない。

 庇ってくれたというのは、それが公に出ることを嫌がっただけだ。大事になって、親友にファーストキスを奪われ、あまつさえ貞操の危機に瀕したなど簡単に人に話せることではないのだから。望が玲に話さなかったのはそういう理由でしかないはず。

 それなのに、望が……もしかしたら受け入れてくれるんじゃなんて、一パーセントでも考えたのが浅はかで浅ましすぎて自分が嫌になった。

 嫌われたということが受け入れられずに都合の良いことを考えては、そんなことを考えてしまう自分をあざ笑う。

(…………ほんと、バカみたい)

 自己嫌悪に陥りながら騒がしい教室から逃げるようにふらふらと校舎内をさまよう沙羅。リノリウムの床にカツンカツンとした不規則な音を立てながらまるで夢遊病者のように歩いていた沙羅は

「っ!!??

 廊下の向かいから来るこの世で一番愛しく、一番会いたくない相手が近づいてくるのを発見した。

 咄嗟に顔を背けて望に自分と気づかれないようにするが。

「沙羅」

 望が顔を見ないからといって沙羅を見過ごすはずもなく小走りに沙羅の元へとやってきた。

「……望」

 声をかけられてしまっては逃げることもできず沙羅は顔を上げるが、とても直視などできるはずもなくすぐに顔を俯けた。

「……よかった、会えて。教室に行ったらいなかったから、探してた、んだ……」

「……そう」

 ドクン、ドクン。と心臓の鼓動が大きくなっていくのを自覚している。

(……何を言われるんだろう……)

 怖い。探してまで何を言おうとしているのか、何を言われてしまうのか。怖くてたまらなかった。

 望の声の調子は怒っているとか不機嫌なようには聞こえなかったが、それでも望の前にいるということ事態がすでに恐怖だった。

 逃げてしまいたい気持ちは小さくなくとも探していたといわれた以上ここで逃げても何の解決にもならないことは明らかであり、沙羅は動かなかった。

 正確には動けなかっただけかもしれないが。

「昨日のこと、だけど、ね……」

「……………」

 ドクン、ドクン、ドクン。

 怖い。怖い。怖い。

(………探して、くれた、か)

 その台詞を聞いたとき、朝のことと結びつけてまたも自己嫌悪に陥るには十分な都合のいい考え、……わずかな希望を抱いていた沙羅だったが

「気にして、ない、から」

 望の口から飛び出してきた一言に激情を禁じえなかった。

「……気にして、ない……?」

 それの真偽などすでに沙羅にとっては問題ではなかった。ただ、望の口からその言葉が出てきたことが沙羅にとってあまりに……

「そ、そう。ほんと、全然、気にしてなんかない、から」

 惨め過ぎた。

「だ、だから……その、こ、これからも友達、だよ。ね、今までどおり……」

(……………ふ、ふふふふふ)

 凍ってしまった心で、乾いた笑いを漏らす。

 気にしない。

 今までどおりの、友達。

 つまり昨日のことをなかったことにしろ。

 そう言われた気がした。

 望が実際にそう思っているのかはわからない。だが、沙羅にはそう感じられた。

(ふ、ざけない、でよ……)

 昨日の一件が衝動的なものだったとしても、そこにあった気持ちは本物で、本気の想いだった。

 それを、なかったことにしろと。この思いを抱えたまま、いや、知られたままただの友達に戻れと望は言っている。

「さ、沙羅……?」

 まるでどす黒い空気を纏っているかのような沙羅に望は不安そうな声をかけた。

「…………望」

 沙羅は俯いたまま望の名を呼ぶ。

「な、何?」

 若干震えてしまう望。別段声の調子がおかしかったわけではなかった。しかし、望は場の雰囲気が恐ろしく変化してしまったことだけはわかっていた。

「……放課後、私の家に来てよ」

「え……」

「何よ、『え……』って。おかしくないでしょ。『友達』なんだから」

「あ、う、うん……」

 感情の乗らない沙羅の声に望は震える一方だった。そして、もちろんその提案にも。

「……じゃあ、待ってるから」

「あ、沙羅……」

 あえて返答を待たず、沙羅は踵を返すと歪む視界のまま望の前から逃げていった。

 

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