それは、デートの終わり。

 先輩の体のこともあるから、デートの終わりには大体先輩の家まで送り届けてから、そこで別れるのが私たちのお約束みたいになっていた。

 そりゃ、たまにはそのまま先輩の家でお茶を飲んだりもするけれど、デートの帰りということもあって結構遅くなってたりもするから、そういうことはあんまり多くはなかった。

「あの、はるかさん」

 今日なんてもうゆうやけが眩しい時間になっていたのに、門の前で先輩はその夕陽を受けながらどこか遠慮がちに私のことを呼んだ。

「はい? なんですか」

 それは私がどこかで期待していたこと。

「……よかったら、もうちょっとだけ一緒にいてくれませんか? 帰りは優衣さんに車頼みますので」

 もろに夕陽を受けている先輩は眩しそうで、恥ずかしそうで、その中に迷いと不安をごっちゃまぜたようなあんまり先輩らしくない態度だった。

「今日は……もうちょっと一緒にいてもらいたいんです」

 そして目を閉じながら、今度は何かを決意するかのように語りかけてくる先輩。

 私はその響きに惹かれるように、

「はい」

 と頷いていた。

 

 

「はるかさん、こっち、来てもらってもいいですか?」

「え?」

 いつものように先輩の遊び部屋っていうか、寝室じゃないほうの部屋に向かうつもりだった私だけど、先を歩いていた先輩は別のところで足を止めた。

 そこは

「ここって……」

 中を見た事はないけど何の部屋かは知ってる。

 そう、ここは

「私の寝室です。確か、まだ入ったことないですよね」

「は、はい」

「……ちょっと、見てもらいたいかなって思いまして」

「はい……?」

 先輩はどこか大人びた、ううん達観しているような不思議な横顔を見せてその部屋に入っていった。

「失礼、します」

 私も自然な木の色をする扉をくぐり先輩の寝室に入っていった。

「…………」

 初めてはいる先輩の寝室。

 フローリングの床に高い天井。この辺は普段通される先輩の遊び部屋と同じ印象。テーブルや本棚も同じようなものがある。違うのは、大きさが一回り小さいのと、クローゼットがあること、それとベッドの大きいことくらい。

 それくらい。たった一つ、異質なものを覗けば。

 先輩は無言で一直線にその異質なものに向かっていった。

「これ……なんだと思います?」

「何、って……」

 それは二メートルほど大きさで、もっと質素なものなら私の部屋にも置いてあるもの。

「鏡、ですよね……」

 ただしそれは通常な状態じゃない。というよりも見るからにおかしなもの。役目を果たしていないもの。

 その鏡は割れていた。全部ってわけじゃないけど、中央のあたりが割られ、まともには役目を果たさないものだ。

「はい。そうですね」

 先輩はその鏡に手を置いたまま、こっちを向かない。悲壮を感じさせる背中を見せ付けている。

「……これ、割ったの私なんです」

「え……?」

「手術が終わって、退院して……その夜でした」

 先輩は痛みを抑えるかのようにその場所を押さえた。【傷】が隠れている場所を。

「それまで見たことなかった。見ようと思えば、見れたけど、勇気がなかったんです。それで、退院した夜。初めてこの鏡の前にたったんです。傷をさらして……」

 先輩の手が震えていた。デートのとき、私の気持ちは伝えたしそれは伝わったと思うけど、それが先輩の抱えるものすべてを取り去ることなんてできるわけがないのは、仕方のないこと。

「ショック、でした。もう、なんていったらいいんでしょうね。熱いような、寒いような、痛いような、かゆいような、あぁいうのをはらわたが煮えくり返るとでもいうんでしょうか? 気づいたときには、手は血だらけ。もう、叩き割っちゃってたんですよね」

 仕方のないこと? 私は当事者じゃないから先輩の本当の気持ちなんてわからない?

「ふふ、傷がいやだったくせに、自分でそんなことしちゃうんですからバカみたいですよね」

 それはそうだよ? 私は先輩じゃないんだから、先輩の気持ちなんてわかりようはない。全部をわかるなんてできるわけがない。

 だけど、

「……でも私って本当に弱いですよね。はるかさんが昼間のように言ってくれるって思ってたのに、やっぱり怖かった。この前のときと同じ。また、はるかさんを信じられなかったんですよ。はるかさんに見られるのが怖かった。気持ち悪いって思われるのがいやだった」

 だけど、私は先輩の恋人で、私は先輩の全部が好きで愛してて、先輩がそうやって自分で自分を否定するなら。私はそんな先輩をまるごと愛したいんだ。

 仕方ないことじゃない。本当の想いがあれば、そんなことは一つもないんだから。

「だから、今日本当にうれしか……?」

「先輩……」

 その時を思い出して嬉しそうな笑みを浮かべてるであろう先輩の背中を私は抱きしめていた。

「はるか、さん」

 先輩が抱えていた痛みを包み込むように。

「もう一度見せてくれませんか? ううん、見せてください」

 先輩の手に手を重ねる。

 ちっちゃくて、暖かい先輩の手。震えさせたりなんかさせない。

「……はるかさん」

「見たいんです。先輩の全部。先輩が嫌って思うところでも、全部」

 片手を先輩の首元に寄せて先輩を引き寄せる。私の鼓動と想いを伝えるために。

「…………………………………はぃ」

 

 

 先輩は鏡の前から離れると、私から数歩の距離で固まっていた。

「あ、はは……その、緊張するもの、ですね」

 手を服の中に入れはするもののそこから肌を出そうとはしていない。

「ゲームなんかじゃなれっこなのに、もう全然違うものですね。……当たり前ではありますけど……」

「…………」

 先輩は見られたくないという思いのほかに単純に恥ずかしいっていう思いも重なって、さっきからもじもじとしているけど、私の方から何かを言える状況じゃなくて、私はただ真剣に先輩の体を見つめていた。

「あはは、体には自信ないですしねぇ……」

 ちゃかしたりとか、せかしたりとかはできない。これがもし、ただ体を見せるっていうことだけならそうしたことだってあったかもしれない。でも、今はただ先輩のことを待つ。

 ドクンドクンって、自分の鼓動が高鳴っているのを感じながら。

「も、もう〜、わかりましたよー」

 私が何も言わないのをプレッシャーに思ったわけではないと思う。自分で自分にそういうことで少しでもきっかけにしたかったんだと思う。

「……笑わないでくださいよ」

 口ではこういいながら先輩の目はちっとも笑っていなかった。ううん、緊張しててむしろ怖いっていう印象を受けるくらいだった。これが言葉通りの意味じゃないっていうのはわかってる。

「……はい」

 私はそれを正面から受け止めると、私も心の準備をするために一瞬だけ目を閉じた。

 自分でも何の準備なのかはっきりはしていない。でも、それは先輩の傷を見る準備ではあったかもしれなくても、傷痕を見る準備じゃなかったことは確かだった。

 パサ。

 布が落ちる音、軽いけど、心に響くような音だった。

「…………」

 上半身を露出させた先輩。

 まだ成長期が着始めたばかりって言ってもいいような小さな体。

 細い肩、華奢な腕、なめらかなくびれ、その美しい肌を覆うのは今は小さな花柄のブラジャーのみ。

 そして、

「……先輩」

 私はここで初めて先輩のことを呼んだ。

 先輩がその場所を覆っていたから。左胸の少し下、胃よりも少し左。そこを先輩は抑えていた。

 心を守るかのように。

 そう、ここは先輩の心が直接見える場所。先輩の見られたくない心が表に出ている場所。

 私は先輩に近づくと、

「はるか、さん」

 先輩の手を優しく取った。

「……先輩、好きです」

「……はい。私もです」

 そして、ゆっくりその手を外していった。

「っ………」

 先輩の体がビクって震える。

 昼間、触ったけどあれは見たわけじゃない。

 触られることと、見られること。

 どちらが先輩にとって辛いことかといえば、見られることだと思う。

「っ」

 私は恐る恐る、先輩の傷に触れた。

(…………)

 声は出さないけど、やっぱり違うって思うのは止められない。

 こげたような色に、普通の肌よりも固い質感。

「……痛かったり、するんですか?」

 はじめてみたわけではない私が初めて口にしたのは、ただの感想といっても良いようなものだった。

「痛みとかは、ないですね」

「そう、ですか」

 こたえながら私はもう一度そこを撫でた。

 ざらっとした感触。

「……………」

 言葉が出てこない。先輩が今望んでいること、それは肯定の言葉であることは間違ってはいないと思う。

 だけど、

 あ、あぁ……だめだ。何も言えないよ。ううん、言おうと思えば何かはある。ううん、何かじゃない。きっといっぱいある。

(でも、………でも!

 どれも届かない気がする。何をいっても、それがたとえ先輩が一番聞きたいと思う言葉だったとしても。

 本当の意味じゃ先輩に届かない。

 そんな予感……確信がある。

 あるの………

(……………)

「……? はるか、さん?」

 こんなのは全然違うのかもしれない。

 こんなのは先輩が望むことと違うかもしれない。

 こんなの、もしかしたら先輩を驚かせるだけ……傷つけるだけなのかもしれない。

「はるかさん? あ、あの……」

 でも、

(胸が、熱い……)

 ううん、締め付けられているような気もする。

 胸だけじゃなくて手も、足も、腕も、肩も、頭も、全部が胸から染み出る何かに縛られているような、そんな気分。

 ただそれは私を拘束するものじゃなくて、ゆっくりではあるけど体を動かす力になるような、そんな想い。

 私はそんな思いに引っ張られるように

「っ!? はるかっ、さん!?

 先輩の【傷】に口付けをしていた。

 

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