「あー……もうー」

 桜の舞い散る頃、まだ春の惰眠から目を覚ましたばかりの寝ぼけ眼な雰囲気が漂う校舎で、はっきりと若さの残る新人教師がまるで新入生かのように不安そうな顔で歩いていた。

(まずい、まずいよ〜)

 彼女の名前は桜坂 絵梨子。今年大学を卒業して母校であるこの天原女学院に赴任してきた。

 この学院の校舎はかなり古く、建物も洋風のものとなってあまり日本人なじみのないものではあるが外見はともかく中は特殊なものではない。

 まして、三年間という時間を過ごしてきた絵梨子にとっては自分の庭のようなもののはず。

 しかし、彼女は目的の場所にたどりつけず迷っていた。確かに三年間を過ごしてきた。だが、四年間離れてきた。四年間という時間があれば変わってしまうこともある。

(もぅ〜、第二会議室なんて私がいた頃にはなかったじゃない!

 絵梨子は多少不機嫌になりながら、自らの過信を恥じていた。

 もちろん、これから職場になるというのだから一通りの説明は受けた。何度か、校舎内を案内もされた。

 しかし、その時絵梨子はどうせ勝手知ったる場所であるとの自信過剰により馬の耳に念仏状態であった。

 まさか四年間の間に知りもしない部屋が出てきているなど思いもしなかった。

「はぁ……まずいなぁ。また嫌味言われちゃうよ……」

 私立であるこの学院は教員の移動というものが多くはない。当然絵梨子が生徒だった頃の教師も残っており、それが重荷になることは多くはなくとも少なからずあった。

「あ……あの子にでも聞いてみよ」

 適当にさまよっていた絵梨子は、向かいから歩いてくる少女を見て小さくつぶやいた。

(……綺麗)

 と、思ったのは少女に対してではない。彼女の長い黒髪が夕焼けに照らされ美しく光っていた。

「ねぇ、あなた」

「はい?」

 絵梨子が声をかけると少女は立ち止まって答えた。

(…………うん、一年生じゃない)

 目の前にたった少女を観察した絵梨子はそう思う。幼さ自体まだ残っているが、均整の取れた顔立ちもさることながら、雰囲気がそう感じさせた。

 一年生であれば、この時期では不安を持ちながら過ごしているはず。それも今の絵梨子と同じかそれ以上に。

 この少女にはそういった不安が一切感じられず、絵梨子は話のできる人間であろうと確信する。

「第二会議室ってどこにあるかわかる?」

「わかります、けど」

 少女はなぜ教師と思われる女性にこんなこと聞かれるのかという不思議な顔をしている。

「案内してもらってもいい、かな? ちょっと迷っちゃって」

「迷う?」

「あ、ちょっと、ね。今年来たばかりだからまだなれてなくて」

 さすがに生徒だったのにわからなくなったとは言えない。

 少女は少し考えるような素振りを見せるとこっちですと先を歩いていった。

「あ、ありがとう」

 絵梨子はそれについていきながら前を行く少女を居心地悪そうに見つめる。

(うぅぅ、普通逆よね……)

 教師である自分が生徒の前を行くべきなのに、長い髪がゆらゆらと揺れる後ろ姿を見てついていくだけ。

 しかし、なんと言うか絵梨子は居心地の悪さは感じつつも不快ではなかった。正面から見たときも思ったが、年下のはずなのに、絵梨子から見ても自分と同じかそれ以上に大人びて見え、先を行く背中も不思議と大きく見え、惹かれるように歩いて……

(げっ……)

 ぼーっと少女の後ろをついていった絵梨子は少女の先にある人物を見て心で毒づいた。

 そこに立っていたのは顔に皺のより始めた初老の女性。この学院の教頭であり、一番の古株。当然、絵梨子が現役だった頃から赴任しており、絵梨子のことはよく知っている人物。お局様というわけではないが、厳しいことでは有名な人。

 その人が明らかに不機嫌な顔をし、さらには近づいてくる絵梨子を発見するとさらにその色を強めた。

「つき……」

 案内してくれた少女がついたことを知らせようと振り返った瞬間。

「桜坂先生」

 絵梨子はありがとうという間もなく教頭先生は絵梨子を叱責するように名前を呼んだ。

「は、はい!

「今、何時かしら?」

 そして、先を行っていた少女が困惑するのにも関わらずお説教を始めようとする。

「え、えーと……五時二十分、ですね」

「集合時間は?」

「えーと、五時、です、ね」

「何をやっていらしたのかしら、こんな時間まで」

(ハイ! 場所がわからなくて迷ってました! って言えたらな〜)

 と、思いはするがそんなこといえるはずもなく絵梨子は長々と続くであろう説教に身をすくめた。

「あの、教頭先生」

 が、そこに口を挟む人物がいた。

 それは絵梨子を案内してくれた少女。明らかに不機嫌顔をする教頭と絵梨子に間に入った毅然と向き合う。

「あなたは、……」

「私がいけないんです。私が桜坂先生にどうしても相談したいことがあって、今まで話を聞いてもらっていたんです。先生会議があるなんていってくれなくって、さっきまで無理に引き止めてしまって……」

(え……?)

 少女の口から発せられる言葉に絵梨子は首をかしげる。そんなことないのだから。この少女とはさっき道を聞いただけで名前すら知らないのだから。

「……まぁ、そういう、こと、なら。先生、早く中に入ってください」

 しかし、そんな事情を知らない教頭先生は少女の嘘に怒りを沈め、絵梨子を促した。

「あ、は、はい」

「それじゃ、私はこれで、先生、本当にありがとうございました」

 場が収まったと察した少女がそういい残して去っていくのを絵梨子は、歯切れ悪くどういたしましてというのが精一杯だった。

 

 

 そのことから三日。

 絵梨子は空き時間を見つけては、授業中に学院の中を回っていた。

(あっれ〜……)

 この日もその一環を終え、気落ちしながら放課後の校内さまよっているところだった。

 この日回ったところで、二年生と三年生の教室はすべて回った。

 しかし、目当ての人物は見つけることができなかった。

「休んでるのかな〜。名前くらい聞いておけばよかった」

 絵梨子が探しているのは、三日前迷っている絵梨子を案内してくれ果ては機転で窮地から救ってくれた少女。

 名前も学年もわからなかったので、こうして教室の中を覗きまわっているのだがついには該当すると思われるすべての教室を見たが見つかることはなかった。

「お礼くらいちゃんといいたいのに」

 どうしようと迷っていたが、放課後では校内にいるかすらも定かではないので、仕方なく職員室に戻ろうと歩を進めた。

「あ……」

 と、偶然ではあるが始めてあったときのように前から歩いてくる少女に目を奪われた。

 まず目に付く長く耽美な黒髪、それと図書館で勉強でもしていたのか教科書とノートを抱いている。

「こんにちは」

 嬉々として早足に近づくと笑顔でそう告げる。

「こんにちは」

 少女はすぐに絵梨子が誰であるかに気づくと、愛想笑いのような笑顔で絵梨子に答えた。

「よかった〜。やっと見つけたよ〜。もぅー、ちゃんと授業出てないとダメよ?」

「……はい?」

「風邪でも引いてたの? どの教室にもいなかったけど」

「……今のところ休んではいませんよ」

「え、でも。二年生と三年生の教室見回ってもいなかったよ?」

「それは、そう、でしょうね」

「え?」

 なんだか話がかみ合っていないような心地を受ける。と、いうよりも自分が勝手な勘違いをしていたような気になって、まだ確信ではないのに体中に言いし得ない羞恥の熱が湧き上がってきた。

「え、っと。名前、とクラス聞いてもいい?」

 無意識に学年と言えないことがこの恥ずかしさを現わしていたのかもしれない。

「朝比奈ときな、一年三組です」

(や、やっぱり………)

 あの毅然とした態度や、大人びた雰囲気から勝手に最低でも二年生と思っていた絵梨子は、心では果てしなく動揺しながらも表面上はそんな失礼なことはしてないように取り繕った。

「そう。朝比奈さん、この前はちゃんとお礼もいないでごめんなさい。本当助かったわ。あの人って説教ながくてさー」

「気にしないでください。私が勝手にしたことなので」

「あなたがそう思っても、私は本当に助かったから。ちゃんとお礼言いたかったの。ありがとう」

「どういたしまして」

 少女、ときなは短くそういうと絵梨子にそれほど興味なさそうに歩き出そうとしたが、一歩を踏み出す前に何かを思いついたようにもう一度絵梨子に向き直った。

「ところで、私ってそんなに年取って見えますか?」

「っ!?

「…………冗談ですよ。それでは、失礼します」

 いたずらっぽく笑いときなは去っていく。

 ひらひらとゆれる黒髪を眺めながら絵梨子は、

(……一年生のくせに我が物顔で案内しないでよー!

 と自らの失点による恥を隠しためにそう毒づくのだった。

 

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