それからしばらく絵梨子はときなと会うことはなく、日々の忙しさに先日の出来事の印象も薄くなってきた頃。

(う、うぅぅぅ………)

 絵梨子は心の中でうなっていた。

 午前中の授業が終わり、ハレのお昼休み。生徒に限らずしがらみから解放されるはずのこの時間に絵梨子は中庭の校木の下に設置してあるベンチに一人腰を下ろしていた。その表情は暗い。

 くぅぅぅ。

 時折、体の中から空腹を知らせる音がなると、絵梨子はしかめ面でお腹を押さえる。

「お、お腹、減った……」

 今は昼休み、普通であればお弁当なり、学食なり、教師の特権である出前を取ったりと空腹を満たす手段はいくらでもある。

 しかし、それをするには一つ条件が必要だ。

(はぁ〜。これが月末ってやつ……)

 すなわち、金銭。

 現代では何を食べるにしてもまずそれが必要となる。

 初の給料日は目の前なのだが、もともとそれまでのたくわえがほとんどなかったのと、ストレス発散のための衝動買いで今ではまともに食べるものすら買えなかった。

 職員室や学食では周りで食べている同僚やら生徒がいて、まともな精神状態を保つことができないと考えた絵梨子はそれほど人のいない中庭でただ飢餓感に耐えていた。

 ぼーっと、校舎よりも背の高い校木からもれる木漏れ日を見つめたりと気を紛らわせようとはするが、時折先ほどのように腹の虫がなって現実に引き戻される。

 性格的に金銭の貸し借りはしたくなく、こうしているがそろそろその信念を食べ物と交換したくなってきた。

「………んせい」

(あー、これで午後も授業かぁ……はぁ)

「桜坂先生?」

(あと、二日……どうしようかなぁ。一日ほとんど一食じゃ、やっぱりつらいし……)

「さ・く・ら・ざ・か・せ・ん・せ・い」

「っ!?? え」

 これからの現実とどう向き合うべきか思案していた絵梨子はその不機嫌そうな声でやっと目の前に誰かいることに気づいた。

 忘れることのできない美しく繊細な黒髪。

 そう、これは

「……えーっと」

(あれ? 名前が出てこない)

 誰だかはわかる。いつぞや、道案内をしてくれ、さらには窮地を救ってくれた人物。一年生のくせに、大人びていて、しかも少しいじわるな生徒。

「あ、あぁ、えーと何か用?」

 そこまで思い出せるのになぜか、中々名前が思い出せず名前を返さずに答えた。

「横、ずれてくれませんか?」

「え、えぇ」

 ベンチ中央に座っていた絵梨子は生徒にそう命令されて、素直に目の前の生徒が座れるスペースを空けた。

(って、なんで生徒にこんなこと言われなきゃいけないの?)

 確かに中央に居座っていたのは人のことを考えてなかったかもしれないが、周辺にはまだ人のいないベンチだってある。わざわざ邪険にされてしまう理由はないはずだ。

 しかし、ときなは絵梨子にかまうことなくもっていた包みを開けるとそこから弁当と思われるものを取り出した。

「…………」

 不覚にもそれに目を奪われてしまう。

 銀色の容器にポテトサラダと、から揚げに卵焼きと小さなおにぎりが数個。定番なメニューだが絵梨子にはなによりも目を奪われるものだ。

「何か?」

 その絵梨子を不審に思ったのかいぶかしげに声をかけてきた。

「え、あ! な、なんでもない」

 いくらなんでもお腹がすきすぎて、そのお弁当がうらやましいのよ。とは生徒相手に言えるはずもない。

「あ、え、えと、なんでこんなところでお弁当食べてるの?」

 しかし、見ていたことは事実なのでとりあえず当たり障りのない会話を始めた。

「教室にいたくなかったので」

「……あ、そう」

 クールに言われてしまったが、この時期にそんなことを言うのはよくない傾向のような。

(友達いないのかなぁ。性格よくなさそうだし)

「誰かと一緒に食べたりしないの?」

「気が向けば食べますけど、昼休みに教室いると面倒なこともあるので」

「面倒、って」

「予習を見せて、とか。実力テストが終わって以来そういうのが多くて、逃げてるんですよ」

 実力テスト。

 有名な進学校であるこの高校では学期の始まりにそういう名称のテストがある。それは一年生といえど例外ではない。普通はそこで厳しさを知るのことになるのだが、中には例外もいる。

 そしてこの口ぶりからすると目の前にいるのはその例外らしい。

「へぇ、あなたって勉強できるんだ」

「勉強だけできたって自慢にはなりませんけど。できますよ。優秀ですから」

(…………なっまいき)

 いや、生意気という以前に先輩など同じ生徒ならいざ知らず教師に対しこの態度はどうなのだろうか。今自分言ったことだが、勉強が出来たところで礼儀作法がなっていなければ人として誇れることではない。

(それとも……怒ってるのかな〜)

 年上に見たこと。確かに自分の立場で考えれば愉快なことではない。

「別に、逃げなくてもいいんじゃない? 嫌だって断ればいいだけの話なんだし」

「頼まれたら嫌と言えないんですよ。困ってる人を見たら放っておけないので。でも、当てにされるのは嫌いなのでこうして予防線を張っているわけです」

 変な子。

 絵梨子はそう思うしかない。言っていることが支離滅裂というわけではないけれど、矛盾している。

(それともこのくらいの子ってこんな感じなのかしら?)

 思い返すと自分にもこんな風にとんがっていた頃もあったかもしれない。まだ若いつもりでも自分がその立場だったのはもう七年も前のことだ。人生の約三分の一。

「あ、っていうかさ。何でこのベンチなの? 他にも場所開いてるでしょ?」

「最近はよくここで食べていたんです。でも、昨日は先生がいたので遠慮したんです」

「それで、なんで今日は来たの?」

「決めたことが阻害されるのは気分よくないですから」

「……そう」

 つまりは邪魔だといわれているのかもしれない。

「ところで」

 空腹の状態でこれ以上会話するのも苦痛なような気がした絵梨子は立ち上がって、どこか別の場所に移動しようとしていたがそれを制される。

「何?」

「お腹減ってるんですか?」

「え、な、なんで?」

「さっき自分で言ってたじゃないですか」

「そう、だっけ?」

 言われれば無意識にそんなことを言ったような気がしないでもない。

「おにぎりくらいだったら分けてあげますよ?」

「え?」

 その言葉は絵梨子にとって意外だった。どこか先ほどからそっけない態度をされるので邪魔かと思われていると思っていた。なので、こんな風におにぎりを目の前に差し出されると、思わずふらふらと手が

「だ、ダメよ。生徒にそんなこと……」

 クゥゥ。

「っう……」

「遠慮しなくてもいいんですよ。お腹が減るのに教師も生徒もないんじゃないですか?」

「え、いやでも」

 これはプライドの問題というか……

「大体、私がお弁当広げたらあんなもの欲しそうな目でみてたくせに今さら遠慮する必要はないんじゃないですか?」

「え!? そ、そんな顔してた?」

「してました」

 婉曲することもなく率直に顔色一つ変えることなく告げられる。

 対して絵梨子は虚を突かれたようにまずいといった顔をして、今にも逃げ出したくなった。

「どうぞ」

 だが、逃げるより早く手ぶらだった手におにぎりを握らされた。

「あ、りがとう」

(って、あ……)

 思わずそう言ってしまった。これではもう返すこともできない。

「いいえ。さっきも言ったとおり困ってる人は放っておけないので」

 変わらずクールに返されながらも内心では歓喜を抑えきれず絵梨子は生徒からの施しを甘受するのだった。

 

 

 結局、一度弱さを見せてしまった心は回復することなく、弁当の中身がなくなる間にさらにから揚げ一つと卵焼き一つをもらってしまった。

(あぁ、生徒にこんなことされるなんて……)

 いけないことではないとは思うのだが、情けないのは変わらず我に返った絵梨子は肩を落とすしかなかった。

「ふぅ……」

 そうしている間に弁当箱をまた包みなし終えた瞬間いきなり、ため息をつく。

「って、何ため息ついてるの?」

「いや、初めて作ったお弁当をまさか先生に取られるとは思わなかったなと」

「く、くれるっていったのはあなたじゃない。ん、って、初めて?」

「えぇ、申請すれば寮で作ってもいいということなのでためしにやってみたんです」

「へぇ、寮に住んでるんだ」

「はい」

「私も昔住んでたのよ」

「知ってます」

「え?」

「着任式の挨拶で言ってたじゃないですか」

「え、あ、そ、そうね」

 確かに学校が始まってすぐの着任式でそんな話はした。しかし、自分の経験からそんなものの話なんてまともに聞くことなんてないと思っていたので驚かされた。

 その後も昼休みが終わるまで絵梨子は取り留めのない話をさせられた。単なる世間話から、学校のこと、寮のこと、果ては何故二日連続なこんなところにいたのかという話までさせられてしまった。

 相手の名前を思い出せていないという点に苦労はしたが、それでも滞りなく会話を進ませそろそろ昼休みも終わろうとしていた。

「さて、そろそろ時間ですね」

 少女は弁当の包みを持って立ち上がるのにつられ、絵梨子も立ち上がった。

「あ、そうね。お弁当、ありがとう。いつか何かお礼するから」

 絵梨子としては舐められることのないよう年上の余裕をさらりと見せ付けたつもりだったが、

「そうですね。これで貸しは二つ目ですし」

「うっ」

 相手のほうが上手というよりも絵梨子は迂闊だった。

 またも逃げたくなったが、少女が何か……そう、この前に会った際の別れのときのようないたずらっぽい顔をしていたのが気になって気を逸してしまった。

「じゃあ、こうしましょうか。私の名前を言えたら、今回の貸しはなしにしてあげます」

「え………」

 背筋に冷たい雫でも入ったような寒気。

 表情を固めてしまった絵梨子だが、それがまずい。

「やっぱり、覚えてないみたいですね」

 それがおそらく確信ではなかったものを確信に変えてしまった。

「おかしいとは思ったんですよ。最初から探るような目をしてましたし、これだけ話して一回も名前呼んでくれませんでしたし」

(いじわる。この子はいじわるだ)

 そうは思っても羞恥に耐えるしかない。

「先生も覚えることが多くて大変なのかもしれないですけど、生徒の名前を覚えるなんて最低限のことじゃないですか?」

 嫌味の上に言い訳を先に封じられては、ぐうの音もでない。

 泣きそう、ではないが、絵梨子は情けない顔をしていまだ名前のわからぬ少女から目をそらす。

「じゃあ、そういうわけで」

 この上さらに嫌味を言われて名前を告げられるのかと思ったが口から出たのはそんな言葉。

「え、あ、あの名前、教えてくれないの?」

 流れからしてそのくらいは当然と思うのだが、

 少女は、まるで教師のように笑い

「今度会うときまでの宿題です」

 と、まるっきり立場を逆転したことを言い、相変わらず美しい髪を春の風にたなびかせ去っていってしまった。

「………………」

 絶句してしまう絵梨子が教師の自信をなくしたのは言うまでもなく、午後の暖かな陽光とは対照的に心を曇らせるのだった。

 

1/夏1

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