「……ん……」
窓から入る冷えた風を心地よく感じる一人の夜。
一人の時間。
お風呂上りの望は勉強用の机に突っ伏すと猫のように体を丸めていた。
「はぁ……」
ひんやりとした机の感触をほっぺで感じながら胸につっかえるもやもやをそのまま声にしたような息を吐く。
横になった視線の先には窓があり、月明かりの中うっすらと校舎を見ることができる。
「っ……」
ブルルっと震えた体の原因が冷気でないことを自覚する望は、その原因となる相手のことを思い浮かべていた。
「……沙羅……」
その名にはとても一言で表すことのできないような感情が詰まっている。
それは、友達の名前。
とっても大切な親友の名前。
そして……
「……沙羅」
今度はほんの少しだけ泣きそうな声で、その相手の名を呼んだ。
もう今の関係になってそれなりに時間がたった。
沙羅がしてきたことはもう一回や二回ではない。場所やタイミングもバラバラだが、共通なのは学校の、人目にはあまりつかないが、人がいない場所ではないというところだ。
(…………)
こういうことをされるというのは覚悟をしていた。
しかし、今の関係は予想外でもあった。
二人きりのときなら、というのは基本的に学校ではということを考えていなかった。というよりも、ほとんどは沙羅の家で、ということだった。
だが、それは最初のときすら望の想像していたことはなく、今もなお、この部屋で起きた以上のことをされたことはない。
というよりも以上どころか、それよりはるかに以下のことしか沙羅がしてくることはなかった。
しかし、行為としては以下でも【学校】でということは望の想定外ことで、それが望を混乱させていた。
「…………沙羅」
それでも【友達】という関係から抜け出そうとは考えられない望は親友の名をせつなそうに呼ぶのだった。
「ん……」
朝、寮を出た望は少し不安そうな顔で、これから向かう校舎を木々の合間から見つめていた。
目が覚めるような青空とは反対に曇った心でグラウンドの脇を通る望の足取りは鈍く、それがどういう意味なのかを自分でわかってしまう望は、あえて鈍った足取りを速める。
(……沙羅。今日は……)
「望」
「っ!?」
その足を緩める原因となる相手のことを考えていた望は背後からいきなり名前を呼ばれ、反射的に肩を震わせた。
「あ、玲……」
声をかけてきたのは、寮での一番の友達である玲だ。
朝の気だるさとは無縁な凛とした様子で小走りに望へと近づいてきた。
「おはよ」
「うん……おはよう……」
玲を待ってすぐに足を校舎へと向ける望はすでに自分の思考へと入っていく。
「…………」
「…………」
並んで歩く二人だがその間に会話はない。
玲は時折望の顔を覗き込むが、望は玲を見ることはなく、沙羅のことばかりを考えていた。
「ねぇ、望」
「…………」
「望ってば」
それを面白くなく、いやそれを心配に思う玲は望の制服を引っ張りながら、少し強い口調になった。
「あ……なに?」
だが、望はそうされても心ここにあらずといった様子で反応は鈍い。
「……最近、沙羅とどうなの。たまに一緒にいるところ見るけど」
「え? ど、どうって……」
「……だから、何も、ない、のよね」
玲としても軽々しく口にしていいことではないことは重々に承知している。だが、言葉を濁しつつも友達として聞かずにはいられない。
「な、なんにも、ないよ。さ、沙羅は友達だもん」
「……そう」
「こ、この前のだって、ちょっとふざけてただもん。玲が心配するようなことなんて、何にもないよ」
あえてそう口にしてしまうというところがすでに、その反対の意味を示している。
「……そ」
経望の言葉は言葉通りの意味なんかではないことは玲にはわかっているが、直接問いただしても埒があかないのは、未遂の現場を目撃したときに験している。
しかし、それ以来望の様子を観察している玲は今の望の変化が沙羅に関係していることを確信しており、玲も望とは全然別の意味を持ってこれから向かう場所を見つめるのだった。
まだ陽も高い放課後の教室。
特に用事もなかったが、少しだけ授業のあとも教室に残っていた望は、帰ろうとしてたまたま通りかかった沙羅の教室に一人でいる沙羅を発見してしまった。
沙羅も帰るつもりだったのか、荷物をまとめているところではあったが廊下の窓から覗く望の顔を見て、雰囲気を変える。
沙羅も帰るつもりだったのだろうから、教室に入らず入り口で待っていればよかった、いや待つべきだと望は頭のどこかでは考えていたが、そんな思考よりも先に体は動いてしまっていて、沙羅と二人きりになってしまう教室へと入っていってしまった。
最初は、沙羅も荷物をまとめることを続けていたがそれが一区切り付いたところでイスから立ち上がると
「……望」
と、声をかけた。
(あ………)
その声が、雰囲気が何を示すのかもうわかってしまって、望の体は金縛りにあう。
人のいない二人きりの教室。外からは部活動の声。一見隔絶した空間。だが、教室にはまだかばんもちらほら残っておりいつ人が来てもおかしくはない。
もう一度や二度ではない。
わかってしまう。
沙羅がしてくるであろうことが。
(…………)
腕をとられる。
「望」
指を絡められる。
「…………」
近づいた沙羅の表情は明るいとか、暗いではなく色を失っている。
瞳には暗い光が宿っていて、その瞳がなおさら望の体を縛っていた。
ただ、幸いといっていいのかソレ自体はすぐに終わる。
そして、その後には何もなかったかのように沙羅は行ってしまうのだ。
だが、今日は
「っ!!?」
何度目か、まだ数えられる程度のキスをされる覚悟をしていた望の耳に
カツン、カツンと廊下を歩く音が聞こえてきてしまった。
される覚悟はしている。逃げるつもりない。
しかし、誰かに見られるということは二人きりでされることとはまったく異なる恥ずかしさや不安があった。
「さっ……」
「黙って」
反射的に名前を呼ぼうとしたがその前に沙羅は低い声で望を制した。
一瞬だけ、廊下のほうへ視線を送ったということは沙羅も当然気づいている。
(なのに……)
沙羅は体を離すどころか絡めた指に力をこめ、手を腰に回してきた。
(え? え?)
人目に付きにくいところでしかされたことがなかったというのが、油断になったのか望はその行為に頭が真っ白になってしまった。
強引に沙羅から逃れることはできないし、考えられもせずかわりに
ドクンドクンドクン。
カツン、カツン。
近づいてくる足音に比例して大きくなる胸の鼓動を感じていた。
「……………」
対して、沙羅は何もしない。
表情すら変えず、望の顔を見るわけではなくしかし他のどこかを見るわけでもない。
ただ、その足音が近づいてくるのを待っているかのようだった。
(あ、え……え?)
見られたくはない。沙羅の考えがどうであれ、それははっきり思うが頭の中が真っ白になってしまっていても沙羅から離れようとはしない。
どうせ沙羅がさせてくれないだろうからではなく。離れようとは思えないのだ。
コッコッコ。
と、もうすぐそこまで聞こえる足音。
通り過ぎるだけや廊下からちらりと見られるだけであれば、問題はないかもしれない。しかし、もしこの教室に入ってこられてしまったら……
(さら……)
わからない。わからない。わからない。
一番わかると思っていた親友の気持ちが、今は全然わからない。
それでも、望は……沙羅から
(あ………)
さきほどまで時間が経つごとに大きくなっていた足音が、今はだんだん小さくなっていくことに望は気づき明らかに安心したという顔をしてしまう。
その瞬間。
「んむっ!?」
唇に暖かな感触。
もう何度も知っている沙羅のキス。暖かくて、ぷにっとした唇が押し当てられ沙羅の熱が伝わってくる。
いつもなら、ここで終わり。一方的なキスをされて、なのにそれがあったことすら疑わしく思えるほど沙羅は冷たい顔でそれじゃといって別れる。
だが
(っ!!!?)
今日はそれだけでは終わらなかった。
(あっ、……っや)
触れ合っていただけの唇をこじ開け、熱い舌が入ってくる。
湿り気をおび、少し甘い唾液の味を望に感じさせながら望の中に侵入してきた。
「ん、あん、にゅ……ちゅ」
ただ唇を合わせるだけのキスとは全然違う頭を直接揺さぶられるかのようなキス。
反射的に体を引きそうになるものの、沙羅はいつのまにか望の制服を皺が出来るほどに掴んでいて、沙羅からわずかにすら離れられなかった。
「ん、くぷ……ちゅぱ、くちゅ」
こんなキスはあの時以来だった。
(あっ……)
一瞬、脳裏にその時のことが浮かんでしまった。
(だ、め……)
そう心でつぶやいたのは自分に対してだ。
瞳の奥があつくなり涙を流そうとしている自分を制止しようとするが、それはあの時を意識させるだけになってしまうどんどん涙が浮かび視界がにじんでいく。
(だめ、だめ……こんなの……)
「ちゅぶ、ちゅく……にゅ」
望の心の声など沙羅はお構いなしに、唇を吸い、舌を絡め、口の中を蹂躙していく。
恥ずかしい。怖い。苦しい。
頭にはあのときが浮かび、心はそれを思う。
「ふぁ……」
抑えられない涙が、いよいよあふれてしまうかというときになってようやく沙羅は望の唇を解放した。
「っ……」
思わず見てしまった沙羅の顔に望は衝撃を受ける。
沙羅の顔は、変わっていない。怒っているのでもなく、楽しんでいるわけでもなく、表情を固まらせて、望を冷たい瞳で見つめている。
こんなキスをした後でも。
「それじゃ」
そして、最後の挨拶も一緒だった。
何もなかったかのようにそういって、かばんを持つとすぐに教室を出て行く。
「はぁ……は、あ……」
いつの間にか、夕陽の差してきた教室。
ドサっ。
一人残された望は体中の倦怠感のままに膝を付いてその場に崩れ落ちた。
「は……はぁ…あ、はぁ……」
息をするのすら忘れていたキスを思い出しながら、思わず体を抱え
「は……はぁ……さ、ら……」
それでも親友の名前を呼ぶのだった。