「はぁ………は、あ」
動悸が治まらず息苦しさを感じたまま、望はどうにか寮への道を歩いていた。
まだキスの余韻が体を支配していて、一歩一歩が果てしなく重く感じてしまう。
「望―」
「っ」
校庭の脇を通りながら寮への道を歩く望は遠くから名前を呼ばれてはっと足を止めた。
声のほうを見ると、体育着姿の玲が小走りに近づいて来ていた。
「今帰り?」
グラウンドと望の通る道を隔てるフェンス越しに聞いてくる玲に対し望は
「……うん」
と、反射的に顔を見ずに答えた。
「そっか。で、今日だけど夕飯一緒に食べない?」
「……うん。いいよ」
うつむいたままさらにコクンと顔を頷けて答える望は友人である玲から見なくても、元気がないことは明白で、玲が気づかないはずはなかった。
「望。……どうしたの?」
どうしたではない。沙羅に何かされたのかと聞きたかった。だが、それを聞いても何もないと否定されてしまうのはもうわかっている。
だから、あえて遠まわしにしたが
「ううん。何でも、ない……」
予想通りの反応をされてしまった。
顔すら上げられない望に説得力があるわけもないが、望にはこれが精一杯だった。玲の顔をまともに見る自信がない。さっきのキスが強烈過ぎて、人の顔をまともに見れる気分ではないし、声だって震えないようにするのが精一杯だった。
「あの、もう行くね」
一人になれば、また沙羅のことを考えてしまいそうではあったがここで玲と話していてもたどり着くところが一緒というのを望は敏感に察知して先手を封じてしまった。
「あ、望!」
玲の返答すらまたず望は背中を向けてしまい、さすがに大声で引き止めるまではできない玲は、沙羅に対する思いを高めるのだった。
玲と沙羅は友人といってもいい間柄であろうが、仲のいいという形容詞が付く仲ではない。
望という共通の友人がいて、たまたまクラスが一緒になったから話すようになったというだけだ。
玲は沙羅の人となりを好きとも嫌いとも思っていない。どこまでもただの友人でしかなかった。沙羅単体としてみれば、だ。
望の友人としてみれば、沙羅のことはあまり好きではない。
それは、【あの時】以前から思っていたことだった。望とは、寮では一番の友人と思っているし、寮という限定にせずともその位置づけはほとんど変わらないだろう。
話す話題は何でもあったし、毎日のように二人で話していても退屈になることはなかった。
だが、いつしか望は沙羅のことばかりを話すようになっていて、それが無意識そうというのがなおさら気に食わなかった。
だから、望が沙羅をどう思っているのか。もしかしたら、望以上に知っているのかもしれないと薄っすらと思っていた。
だからこそ玲は沙羅が許せないし、今の望に苛立ちを覚えている。
「ちょっと、顔かして」
その苛立ちを抑えられないでいた玲は昼休みになると、その原因となる相手の前に立った。
「…………」
声をかけられた沙羅は完全にそれを無視して、机に散らばっていた教科書を片付けていた。
バン!
「来いっていってるのよ」
周りの注目を集めるのもかまわず玲は机を大きくたたくと、沙羅はくだらないものでも見るかのような目で見つめた。
「……何」
「言わなくたってわかるでしょ」
「………さぁ?」
「……来いっていってんのよ。聞こえないの」
もう一度、今度は脅しつけるような声で言う玲に沙羅はようやく立ち上がる。
「……こっち」
玲は口数少なく、沙羅は心からうっとうしそうにして黙って玲へと付いていく。玲が向かった場所は校庭脇の寮へと続く小路だ。
そこは以前、望を気にした玲が校庭側から話しかけた場所で今は二人とも道側で玲は寮を背中に向け沙羅と向き合った。
「望に何してるの?」
余計な回り道をせず直球で切り出す玲。
「さぁ?」
だが、基本的に沙羅に相手にするつもりはなさそうだった。
「望が可哀想だって思わないの」
「……さぁ?」
相手にするつもりはない沙羅は多くを口にはしないが内心バカにしたように笑っていた。
(可哀想なのはこっちだって言ったらどうするのかしらね?)
どうせ今以上に真っ赤になって怒るのだろうなとか、もしかしたら手だって出してくるかもしれないなと他人事のように思って、沙羅は冷めた目を続ける。
「望に何をさせてるのかは知らないけど、あんただって望のことわかってんでしょ。嫌だって言えてないだけなんだって」
「…………」
「最低ね。望の性格につけこんで、望のこと悲しませて。それでも望の友達なの?」
「………………」
「あんたが何を考えて望をいじめてるのか知らないけど、これ以上望のこと傷つけるのは許さない。望がなんて言ったって、もうあんたに」
「…………はっ」
玲自身、自覚のないうちに反応の薄い沙羅に苛立ちを強め、思っていた以上のことを言っているのだが、沙羅はそんな玲を小ばかにするように笑った。
「何が、おかしいのよ」
「何か勘違いしてるんじゃないの? 今のは望が望んだことよ。別に私からそうしろって言ったわけじゃない」
「……だと、しても、あんたがそうさせたんでしょ」
「違うわよ。全部望が……望んだこと。私はそれに応えてあげてるに過ぎないわ」
「っ!」
手を出してくるかとも思ったが、玲は沙羅をにらみつけるだけでそれ以上は動かない。代わりにその瞳には恐ろしいほどの気持ちがこもっていた。
「なんで、こんなやつに望は……」
少し悔しそうに言った後、玲は何かを抑えるように胸を押さえて
「………これ以上、望を苦しめないでよ」
一変した雰囲気の中でそう口にした。
「……だめだ。言いたいことがあったけど、これ以上は無理。とにかく、これ以上望をいじめるのなら、許さないから。望が何を言ったって私はあんたを……絶対許さない。それだけは、ちゃんと覚えてなさい」
やはり最後はどこか悔しそうにして、玲は沙羅の横を通り過ぎていった。
冷静なときの沙羅であったならば、玲の様子がおかしいと、ただ釘を刺しにきただけではないことはわかったかもしれない。
しかし、玲の言い分があまりにも自分の立場からの言葉だったためそれを考えることはできなかった。
「……何が、これ以上望を苦しめるな、よ……」
特にこの一言が頭の中に残っていて
「それは……こっちの台詞よ」
沙羅は自分のことしか考えれないのだった。
沙羅は苛立っていた。
玲が去ってから数分でその場を後にした沙羅だったが、昼食をとるために教室にも学食にも向かわず、何気なく学校の中をさまよっていた。
そこには、昼休みの喧騒と歓喜があふれていて、いつもの日常があった。沙羅が失ってしまったもの、望んでももう戻らないものがそこにある。
それすら苛立ちを強める原因になるが、この時間はどこにいても同じだ。
幸せな普通の人間たちを見つめる。普通であるがゆえに幸せで、それに気づいていないのん気な人間たちを。
(あそこにいなくなったのはいつからだろう)
もうずいぶんと世界から切り離されている気がする。そして、戻ることはおそらくないのだろう。
少なくとも、望と今の関係を続けている限りは。
もちろん、沙羅の望む終わりが来たところで一緒だが。
(……これ以上私を苦しめないでよ)
いい間違いでもなければ、さっきの玲のことを思い出したわけでもない。
それは本心だ。今苦しんでいるのは誰よりも自分なのだ。望にしていることなんか、自分がされていることに比べれば、些細なことでしかない。
そう思わなければ呵責に苛まれるし、本音でもある。
だが、沙羅にとって誤算なのは、望の態度だ。
従順すぎる。
ひどいことをしているはずなのに、拒絶の言葉を述べることすらない。本当にあの時の言葉通り我慢してしまっている。
少し前には、見られるかもしれないというところですらしたのに、安心したところであの時を思い出させるようなキスもしたのに。
それでも、その後望は変わらなかった。
見られそうな場所でしているというのに、その確率も高そうなところでしているのに、望は友達でいてくれるという自分の願いを信じて沙羅を受け入れてしまっている。
それが沙羅を苛立たせている。
こんなこと望んでいないのに。
嫌だと言って欲しいのに。
こんなこと早く終わらせたいのに。
もうやめてと、こんな沙羅は嫌だと、嫌いだ思われたいのに。
こんなに苦しみたくないのに。
望は……
ギリっと奥歯をかみ締めて、抑え切れない心の高ぶりを静めようとするがその程度で収まるのであればそもそもこんなことにはなっていないはずだ。
(……望。早く私を……)
どうしようもないほどに焦がれた心を抱え沙羅は、それでも望を思ってしまう。
(私を……)
「楽にしてよ……」
自分のための終わりが来ることを願って。