「…………」
身を切るような冷たい空気が張りつめている。
この寮は各部屋や、食堂、浴場の脱衣所などはエアコンが完備されているけれど、廊下などにはなくこの季節になるとロビーや廊下には人がほとんどいなくなる。
誰もが部屋にこもって暖を取るなか私は時間を見つけると、この場所にいた。
(…………せつな、先輩)
ここは、あの時の場所。
せつな先輩が、私にキスをしようとした場所。
……私に無断でキスをしようとした場所。
今でもその時のことは鮮明に覚えている。
唇をなぞったひんやりとした指。頬に添えられた手。
近づいてくる、先輩の熱。
そして、
(…………あれは、どういう意味だったのかしら)
キスを思いとどまった先輩の顔。憂いの表情などという一言では片づけられるはずもない、あらゆる悲哀を飲み込んだかのようなとてもとても寂しそうな顔。
それと、あの言葉。
「……………だめよね、こんなの」
達観的に、諦観的に響いたせつな先輩の声。恐ろしいほどに感情のこもったせつな先輩の声。
それは私の心の何かに触れたけれど、私の心はその刺激に反応を示すことができなかった。
なぜなら
「…………わからない、わからないですよ。先輩」
何にもわからなかったから。せつな先輩の気持ちが全然見えなかったから。
まるでわからないわけじゃない。表面に現れた気持ちはわかる。やはり、せつな先輩は、私に……不満を持っているということ。
その不満の具体的なことまでもわかるけど、それでもわかるのは表面だけでその奥ある気持ちを理解してなんてしていない。できていない。できもしない。
それと、もう一つだけわかることはある。
それは、せつな先輩は私にそのことを隠そうとしていることだ。
キス未遂があった日。結局、せつな先輩は戻ってくることはなかった。
私は、混乱した頭と熱くなった体を抱え部屋に戻っていき、ほとんど思考停止状態で時間をすごし、夕食を終えお風呂に入っていた。
そこでもぼーっと何も考えられなかった私だったけれど
ぴゅ!
「きゃ!!?」
いきなり顔にお湯をかけられ、私としては珍しい声をあげた。
「なーぎさ」
驚きながら声の方を見ると、せつな先輩が水鉄砲を打ってきたのだとわかる。
「あ、せつな、先輩」
心が震えだす。
何を言えばいいのかわからない。【キス】のことを、どう考えればいいのかもわからない。
もしかしたら、そのことに関して何か言ってくるのではとも考えたけれど、私は逃げることも自分から他の話題を振ることもできず、黙ってせつな先輩の体を見つめることしかできなかった。
「今日、ごめんなさいね」
「っ!!??」
一瞬、キスのことを言われたのかと思った。
「渚があんまり気持ちよさそうに眠ってたから、起こすのが悪い気がして」
その言葉に私はほっとしながらも心のどこかに何かが引っかかるのを感じた。
「わた、しのほうこそ……眠ってしまって、すみませんでした」
「別に、渚が謝ることじゃないでしょ」
「いえ、約束があったのに……」
「だから別にいいわよ。渚の可愛い寝顔が見れただけで満足」
「そう、ですか」
当たり前なのかもしれないけれど、【キス】のことには触れようとしない。当然と言えば当然。いくらこ、恋人同士だからと言っても、まだキスをしたことないのに無断でそれをしようとしたなんて言えるはずはないのだから。
けれど、それ以上に私が気になったのは
(……自然、だ)
せつな先輩の態度に少しもおかしな点がなかったこと。
あんなことをしてきたくせに、せつな先輩の態度はあまりに自然で、普段通りだった。
それはつまり
(……はじめてじゃ、ないってこと?)
それしか考えられない。初めてあんなことをしたのなら私の前でこんなに自然体になれるはずがない。
あれは、きっと初めてじゃなくて
「……ん?」
(……きっと、何回も)
今まで、きっと何度も……何度もあったこと。
「ふふ、どうかしたの? じっと見つめてきちゃって」
それは、つまり。
先輩は、ずっと……ずっと
(……私とキスをしたいって思ってたんだ)
私はそれにようやく気付くことが……ううん、それに気づいてしまった。