「………キス、か」
あの日のことを思い出していた私は、せつな先輩と付き合いだしてからほぼ毎日頭をよぎるその言葉を思い起こす。
「……………」
結局私はキスをわかっていない。したいと、強く思ったことはない。
でも、せつな先輩は……
(……したいって思ってる)
そうに決まっている。それも、かなり強い思いを持って。そうじゃなければ、あんなことをするわけがない。
私の前ではなんでもない素振りをして、内緒でキスをしようとするわけがない。
「はぁ……」
無意識にでるため息は、そのまま私の気持ちをあらわしている。
あれが、最初の一回でないことはわかっている。けれど、最後の一回だったのかはわかっていない。
あの日から、私は【隙】を見せなくなった。自分の部屋以外では居眠りしたりしないし、心なしか距離を取っているから。
でも、だからといって大丈夫だったかなんてわからない。いつでも先輩は私の部屋に入ってこれるし、実際夏休みだって昼寝をしていたらその寝姿を見られてしまったこともある。
だから、あれが最後だったのかはわからない。
(でも……)
一つだけわかることもある。
それは、キスをされてはいないだろうということ。証拠なんてないけど、それはわかる。せつな先輩がそんな人じゃないし、なによりしていれば、あんなことをつぶやかなかったはずだ。
「……どうしよう」
それは私らしくない言葉。これまでだって、困ったことなんていくらでもあった。どうしようもないことにだって出会った。
ただ、そこで私は立ち止ってはこなかった。何かしらをしてきた。でも、今はわからない。どうすればいいのかわからない。
キスをする。
それは安易する答え。それを選ぶことは、できない。
以前、陽菜に言われたことが関係しているのももちろんだけど、それ以上にせつな先輩は絶対に義務感でのキスなんて望んでいないのがわかるから。
そんな気持ちでキスをしたら、絶対に後悔する。私も、せつな先輩も。そんなキスでいいのなら先輩はあそこで躊躇したりなんかしなかったはずだ。
私の想いを大切にしてくれているから、ただキスをするだけじゃだめって思ってくれている。
(………はず)
この考えが間違っていないという自信はある。でも、そんなのはすべて私に都合いい妄想でしかないのかもしれない。
臆病で、子供な私の自分勝手な考えなのかもしれない。
本当はせつな先輩はずっと、私のことを待っていて、待ちくたびれていて……私のことを本当に子どもだって、思っているのかもしれない。
「………………どうしよう」
たぶん、今までで一番情けない声。
今にも泣きそうなほど情けない声。
どうにかしなきゃ、何かをしなきゃ、今を変えなきゃ。
心からそう思うのに
「…どうし、よう………」
それしか考えなかった。
どうにかしなきゃ、何かしなきゃ……
だって………
「……だって……」
せつな先輩は……もう
(卒業、しちゃうんだから)
冬、と言えばいろいろなことがある季節。クリスマスやお正月、バレンタイン。これらは誰にでもあることだけれど、ある世代にとっては人生の一つの転換期を迎える季節。
受験のある季節、そして、別れが待つ春へと向かう季節。
こんな進学校に通っていれば、二年生の今だろうとこの季節には受験を意識せずにはいられない、まだ志望校すら決められないけれど、来年への不安はすでに存在する。来年の今頃、どんな気持ちでこの季節を迎えるのか、想像はできないけれどそれは、楽しいこととは思えなかった。
まして、
(卒業……しちゃう)
こんな気持ちを抱えていたら。
「渚?」
せつな先輩の受験もあって、一緒の時間が少なくなってきたこの時期。気兼ねなく一緒にいられるこの時間、お風呂の時間。
私が【キス】のこともあって、せつな先輩との時間を減らしてしまっているのを勘違いしたのか、せつな先輩は最近お風呂や食事に誘ってくることが多い。
はっきり言って今の私にはそれがちっともありがたいことではなかった。
「……渚―?」
だって、考えてしまう。考え、すぎてしまう。
キスのことも、卒業のことも、残り時間のことも。
「渚?」
ピト。
「っ!!??」
たとえせつな先輩と一緒でなくとも考えすぎてしまうことを目の前で考えていた私のおでこに暖かなものが当たる。
それは
(あ……せつな、先輩の唇……)
は、視界に入っているものの当たってきたのはおでこだ。
まぁ、どっちにしろ
(あ、あ………)
く、唇が……目の、前に……
「ちょっと熱い? 風邪引いてるんじゃない?」
おでこを付けたまま、せつな先輩はそう言って来て、ようやくそれで我に返る。
「だ、だからお風呂に入っているのだから当然です! ま、前にも言ったじゃないですか!」
大きな水音を立てて私はせつな先輩から離れる。もしかしたら、お風呂の注目を集めてしまったかもしれないのがさらに羞恥を掻き立てるけど、周りは私たちがこんなやりとりをしているのを慣れているなんて私の想像にはない。
「ふふ、そうね」
楽しそうに笑う先輩。いつも、通りの姿。
「渚をからかうの面白いから、ついね」
「ふ、ふざけないでください!」
「ふざけてるわけじゃないわよ。渚が可愛いから、いじわるしたくなっちゃうの」
「っ〜〜」
羞恥に悶えながらも私は、変わらないせつな先輩の態度にこれまでは思わなかったことを思ってしまう。
今までだってキスみたいに恋人としてのことは、なんども、何度も思ってきた。でも、今回は重みが違う。違い、すぎる。
「でも、ほんと気を付けないとだめよ? 風邪ひきやすい季節なんだし」
変わらない先輩。
「そっち、こそ……試験の日に風邪引いたら、それだけで終わりなんですから、気を付けてくださいよ」
「そうね。気を付けるようにするわ。心配してありがと」
「別に、このくらい普通です。のぼせたらいけないし、そろそろ出たほうがいいんじゃないですか?」
言いながら私は奥歯を噛みしめる。自分からせつな先輩との時間を終わらせようとしてしまう自分に。
「そうね。でも、もうちょっと渚との時間を頂戴」
「…………」
いつものと変わらない先輩。
でも、
(…………)
あのキスが頭をよぎる。
「渚?」
あんなことを思っているのに、あんなことをしてきたのに。キスを、したいって思っているくせに……受験が、卒業が近づいてるのに。
(どうして、先輩はいつも通りでいられるのかしら……)
そう思う私は、そうじゃない先輩を見ることになる。