玲菜がこの街を歩くのはあの日以来だ。結月の家から唯一家出をしたあの日が最後。

 捨てられたということを自分で認めてからは来たことがない。

 というより来られなかった。何度か訪れようと考えたことはあっても、少しでも考えると心臓を掴まれたような気分になり恐ろしくなってしまうのだ。

 その街を今、結月とともに歩いている。

 小さな子供が母親の手を握るかのようにしっかりと手を繋ぎ、玲菜は自分の育った家へと向かっていた。

「……玲菜ちゃん、その」

 なんてことのない、どこにでもある住宅街。その場所を歩く玲菜の表情は固い。それどころか蒼白になっており、玲菜が決して平気なわけではないことを物語る。

「大丈夫だよ。結月」

 本当は大丈夫などではない。そんなわけはない。今向かっている場所はトラウマそのものと言っていい場所だ。

 長年にわたり玲菜の心を縛り付けてきた場所だ。一歩、一歩その場所に近づくたび心が軋む。

 それでも玲菜は結月に心配を駆けぬようにと笑う。

「……うん、わかった」

 結月には大丈夫でないことがわかる。だが、結月は頷いていた。

 玲菜が来たいと言った。その理由を聞いてはいないが、玲菜が望むのであればそれを全力で支える覚悟はある。

 結月は繋ぐ指に力を込めて前を向いた。

「……感謝する」

 短くそう答える玲菜。

 これから玲菜がしようとしていること。伝えようと思っていることは今向かう先でなくともかまわない。

 必然性はないが、玲菜にとってはその場所である意味がある。

 結月とのこれからのために、過去と向き合いたかった。過去を清算し、振り切り、結月との未来を見つめたい。

 そのためにこの場所に来た。

「……………」

 自分が生まれ、そして見捨てられた場所に。

「っ……」

 その場所は今は空き家になっているらしく、外観から生活感は感じられない。

「……なんだか、小さく見えるな」

 玲菜が最初に発したのはそんな言葉だった。

 自分の背よりも高かった塀よりも高い位置から見上げる自分の生家は子供の頃に見たものよりもはるかに小さく見えた。

 ここに来て玲菜はずっと結月とつないでいた手を離すとおぼつかない足取りで近づいていき、表札があったであろう場所を撫でる。

「………誰も、いないんだな」

 噛みしめるようにそう口にした玲菜の胸は砕けそうなほどに痛みを覚える。

 誰もいない家。誰も帰ってこない家。

 心の底に封じたつもりでも自分の中から消えたわけではない。

 ひとりの家で過ごす寂しさ、誰も帰ってこないこないことへの恐怖。

 そして、【いらない子】だと悟ったときの絶望。

「私は……どうして、捨てられたんだろうな」

「玲菜ちゃん……」

「いや、今更答えが知りたいわけではないんだ。ただ……私は多分、それを考えなくなる時はこないんだろうな」

「……………」

「結局私は、愛されていなかったということなんだろうな。まぁ、珍しいことではないのかもしれないな。愛されたいと思う相手に愛されるとは限らない。世の中そんなに都合よくできてはいないのだからな」

 結月には玲菜がここに来た意図がわかるまではなるべく必要以上のことは言わない様にしていた。

 だが、

「私は玲菜ちゃんのこと愛してるよ」

 こっちを見ない玲菜の背中にそう声をかけた。

 黙ってはいられなかったから。

「…………………知っているよ」

「あ………」

 くるりと振り返った玲菜の表情に結月は言葉を失った。玲菜があまりに幸せそうに微笑んでいたから。

 花の咲いたようなとか、天使のようなとかいくらでも形容の言葉が浮かんだが結月はなにより玲菜がそんな笑顔をしてくれたということが嬉しかった。

「なぁ、結月」

「……うん」

「私が今日ここに来たのはお前に伝えたいことがあったからだ」

「……うん」

「私はこの場所で捨てられた。……お前に救われなければ、多分生きてすらいなかっただろう。少なくても今こうして笑っていられたとは思えない。……家族を失うということは、それほど恐ろしいことなんだと思う」

 それは実感のある相手にしかわからない言葉だろう。だから、結月は口を結んだまま玲菜の言葉を聞く。

「……お前に憧れを持ったのは、お前だけにでなく……幸せな家族に憧れを持っていたのかもしれない」

 玲菜は自分の胸が期待と不安で高まっていくのを感じた。愛を望むことに対する恐れと憧れたものを手にする希望。

「私は、ずっと…求めていたのだと思う。……幸せな、家族、というものを……私を愛してくれる誰かを。そう……つまり、だ。何が言いたいのかと言うと……」

 その気持ちが玲菜の頬を染め、たどたどしくもさせる。だが、今日はそのためにここに来た。

「い、今すぐにというわけではないが……お前に………」

 家族を失った場所で

「……私の、家族になって欲しい」

 新しい家族を得るために。

「え……?」

 結月は意味を悟ったのかもしれない。ただ、あまりに突然で言葉を失ってしまっただけ。それを玲菜は通じなかったのかと勘違いし

「……私と、結婚して欲しいという意味だ」

 さらなる想いを伝えた。

「玲菜、ちゃん……」

「私は……未熟な人間だし、これから先お前にふさわしい人間になれるかはわからない。正直に言わせてもらえれば、お前を幸せにすることができるのか不安も大きい。だが、それでも私はお前と一緒に生きていきたいんだ。ずっと一緒にいてくれたお前と、これからも……共に歩んでいきたい」

「……………」

 結月は呆けたまま玲菜を見つめ返す。

 その瞳から涙が一筋零れる。

「……迷惑、だろうか?」

「……ううん。……ううん!! そんなわけないよ! だって……だって私! ずっと玲菜ちゃんのこと好きだったんだよ。玲菜ちゃんとずっと一緒にいたいって思ってたんだよ。迷惑だなんて、そんなことあるわけないよ」

「結月……っ!」

「っ!」

 結月の言葉が終わるか否かというところで玲菜は結月を抱きしめていた。

 強く、強く抱きしめる。

 この手の中にある幸せそのものを。

 子供の頃、愛を失い、この世界で一人となった。

 その闇から救い出してくれた人に憧れ、嫉妬をし、自分を傷つけて過ちを犯した。

 互いに相手を想いながらもすれ違い、心を削り合った。

 しかし、玲菜と結月を想う友人のおかげでその過ちに気づき、向き合うことができた。

 自分の一番望むものを求めることができた。

 家族を失ったその日から、玲菜は絶望をしながらもそれを求め続けていた。自分が愛し、自分を愛してくれる人を、共に歩んでいってくれる家族を。

 もっともそれは最初から手に入れていたのかもしれない、結月に救われたあの日から。

 ただ、劣等感と自己嫌悪と自己否定に苛まれて気づけなかっただけ。

 自分の中にある想いに気づき、それを伝えることができた今……

「……必ず、お前を幸せにするよ」

 愛と共に、覚悟を伝える。

「…………違うよ。玲菜ちゃん」

 愛しい相手はいたずらっぽく笑いながらそう言って

「二人で、幸せになろう」

 一人ではなく、二人で紡ぐ未来を口にした。

「っ。あぁ……あぁ!」

 過ちがあった、遠回りもした。

 しかし、二人想いを通じ合わせここまで来ることができた。

 もう違わない。二人、想いを重ねこれからを歩いていく。

 玲菜は、結月は、二人はそのことを心に強く思い

「んっ……」

 口づけに未来を誓い合った。

 

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