結月が玲菜のそれを知ったのは中学一年のころ。

 勘ぐっていたわけじゃない。

 それを知ったのは偶然で唐突だった。

 その頃ももちろん、結月は玲菜の部屋に訪れては玲菜と友だちとも姉妹ともいえるような時間を過ごしていた。

 その日も結月は玲菜の部屋を訪れては学校のことを話したり、玲菜が何をしていたかを聞いたり特別なことは何もせず眠くなったからと部屋に戻って行った。

 自室に戻った結月は明日の準備をして、お手洗いに行ってベッドに入った。当然そのまま寝るつもりだったが、玲菜に言おうとしていたことを思い出した。

 そんなものは全然緊急なんかではなかったし、必須のことでもない。ただ、なんとなくだ。なんとなく玲菜に話そうと思って玲菜の部屋に戻って行って

 そして

「……………?」

 机の前にいる玲菜を見て初めは何をしているのかわからなかった。

「っ!!!??」

 印象に残ったのは玲菜の呆然とした表情。真っ赤に染まった手首よりも、その原因を作ったナイフよりも玲菜の我を失った顔が印象的だった。

「え………?」

 ついで、目の前の光景を改めて認識して結月も我を失った。

(なに、これ? 玲菜ちゃん、何してるの? これって……え?)

 わけがわからなかった。こんな光景はあまりにも現実離れしていて、十数分前に仲睦まじく話していた相手がすることには思えなくて、現実が受け入れられなかった。

 そのまましばらく固まっていると

 ポタ。

 玲菜の手首から血が一滴落ちた。

「なに、してる、の?」

 それをきっかけに結月はふらふらとした足取りで玲菜へと歩を進める。

「…………………」

 玲菜は机の前から動けず今にも泣きそうな顔をするだけでナイフを机の上に置くだけ。

「ねぇ、玲菜ちゃん。何してるの? ねぇ……ねぇ」

 近づくにつれて結月は自分が焦っていくのを感じた。血が沸き立って頭が真っ赤になっていく、冷静でいられなくなっていく自分を冷静に感じていた。

「なにこれ………何してるの! ねぇ……ねぇ、玲菜ちゃん」

(血……血が、いっぱい)

 玲菜が何をしたということはもう結月にもわかっている。

 自分でした。今手にしているナイフで自分の手首を切った。

 それはわかる。それがわかっても。

「なんで? なんでこんなことしてるの!? どうしてこんなことするの!?」

 玲菜を凶行に走らせた理由はわかるはずもなく興奮した声で問いかけた。

「っ………なんでも、ない」

 しかし、玲菜が返したのは明らかに無理のある言葉だった。

「なんでもないって……そんなわけっ」

「なんでもないんだ!!」

 玲菜も冷静になれるはずはなくめったに出すことのない大声で結月を制した。

「っ……玲菜ちゃん」

 玲菜にそんな態度を取られるなんて思っておらず、いや、というよりも玲菜がこんなに感情をむき出しにすることなんて初めてと言ってもよく結月はますます混乱を極める。

「結月……本当になんでもない。大したことじゃないんだ。だから……だから………」

 その後に続く言葉を玲菜はなかなか出すことができなかった。

 言葉がないのではなく、迷いがあったから。

「…………気にしないで、くれ」

 それでも玲菜はそれを絞り出すように言った。

 結月がもし冷静な状態だったら、それが迷いの中で言った言葉だと、本心であっても本心でないと見抜けたかもしれない。

「っ――!! 何言ってるの!? そんなことできるわけないよ!? ねぇ、どうして!? どうしてなの!?」

 しかし、落ち着けるわけもない結月は玲菜の機微に気づけないどころか、玲菜が一番して欲しくない反応をしてしまった。

「っ。結月………」

 玲菜はその反応が悲しくはあった。だが、同時に当たり前だということもわかって……泣きそうな顔で結月を呼んだ。

「玲菜ちゃん…………」

 結月もまた涙を浮かべながら玲菜を見つめ返す。ただし、玲菜が自分が泣きそうな理由を把握しているのに対し、結月は自覚できていない。

「……………結月、今日はやめにしないか?」

「ふぁ?」

「お互い、冷静でないだろう。こんな状態で話をしてもきっと互いのためにならんさ。今日はもう休め」

 我ながら無理なことを言っているとわかっている。

「そんな……やだ……やだよ。だって、私……玲菜ちゃんが」

 結月は当たり前の拒否を見せる。ただ、玲菜の何かを感じ取ったのかそれを強く言えてはいない。

「……今お前がここで粘っても私は……話さないよ。絶対にな」

「っ……」

 玲菜のはっきりした拒絶。それでも普通なら食い下がっただろう。しかし、玲菜が結月にこうした反応を見せるのはほとんど初めてと言ってもよくて

「………明日になったら、話してくれるの?」

 ついそんなことを言ってしまっていた。

「………………」

 玲菜はその問いに目をそらしながら

「………あぁ」

 と頷いていた。

 

 

「……………」

 結月を追い出した部屋で玲菜は先ほどと変わらぬ場所で傷を見つめていた。

 もう血は止まっている。

 結月からしたらとんでもないことに思えただろうし、実際とんでもないことであろうが玲菜にとってはばれたことは置いておいて大したことではなかった。

 経験がなければ滴る血液に動揺もするだろうが、大した傷ではない。確かに血は流れるが、それも十数分で止まる。その後も滲んできたりはするが、それも一時間と続くことはない。

 だから、玲菜からすればこれは大げさなことではなかった。

(もっとも……大げさなことに思えないことがすでに異常なのだろうがな)

「……ふ」

 玲菜は自虐的に笑う。

 この時すでに玲菜はし始めてからそれなりの時間が経っており、なれてしまっていた。

 最初は怖くてたまらなかったことになれてしまっていた。

「………話さねばならないのだろうな」

 玲菜は脅迫でもされているような気分になりながらそれをもらしていた。

(……話せるのか?)

 結月には話すと頷いてしまったが、改めて思えば話せる気がしない。

 いや、話を聞いてもらいたかった自分は確かに存在するし、その相手を選ぶのなら結月以外にはありえない。

 もしかしたら、こうしてばれなかったいつか結月に相談をしていたのかもしれない。

 だが、予期せぬことでばれてしまったということが玲菜の心中を複雑にしていた。

「……………」

 仮に玲菜がこの家にいなければ、結月と普通の親友だったのなら話はもう少し簡単だったかもしれない。

 だが、現実に玲菜はこの家の世話になり、さらにはその恩がありながらも学校にも通わずこうして家に引きこもるだけ。

 そんな自分が自傷行為を働くということは、結月や結月の家族への背信でしかない。

 それがわかっているからこそ、結月にその理由を話すということができる気がしなかった。

 ここでこうしていることそのものが理由の一つなのだから。

「っ…………」

 そのことを改めて認識した玲菜はぎゅっと手のひらで傷を握った。

(……話せんよ)

 それを思って傷を包む手に力を込めた。

「っ………」

 肉体と精神の痛みに玲菜は顔をゆがめる。

(……だめだ……だめなんだ)

 約束までしておいて、話さないなど結月が納得するはずがない。玲菜が話してくれないという事実に結月は苦しむかもしれない。傷つくかもしれない。

(……けど……だけど)

 顔を歪ませ、今にも泣きそうな表情になる。

 話すことが余計に結月を傷つけるかもしれない。結月に責任を感じさせてしまうかもしれない。

 そして、なにより……結月に見捨てられてしまうかもしれない。

「っ………」

(それは……それだけは……)

 無意識に傷に爪を立てて、まだふさがりきれていない傷口から再び血がにじむ。

 だが、そんな痛みは心を襲う痛みに比べれば瑣末で……

(……すまない、結月)

 過ちをさらなる過ちに進める決意をしてしまった。

 

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