朝の香りが漂う部屋で麻美は姿見に写る自分を見、右へ左へ体をひねって自らの姿をきちんと確認すると「よし」と小さく呟いた。

「こんな、ものかしらね?」

 いつも変わることのない長髪を軽くなでると小さな手さげをもってドアを出て行った。

 白のベアトップに薄い紫のカーディガンに青のジーンズ。落ち着いた感じの服装で普段は仕事に向かうための駅へ歩いていく。

 十分程で最寄り駅につき、電車へ乗り込む。

 最寄り駅から三つ先の駅が先週、舞から誘われた【デート】の待ち合わせ場所だ。

(……………)

 流れていく見飽きた景色を眺めながら車内にも視線をよこす。休日とはいえかなり早い時間なので普段の出勤に比較すれば比較にすらならないないが、それでもそれなりにはいるが、満席というほどでもなく赤いふかふかした座席がぽつんぽつんと見えていた。

 しかし、麻美はそれに座ることはない。平日なら席が空いていれば即狙うところではあるが今日は、周りの人間の雰囲気……休日特有の何気ない笑い声や、嬉々とした雰囲気が人の側にあってそれが気に食わなかった。いや、気に食わないのではない正確にはうらやましい。

 そんなのを近くで感じるのが嫌でわざわざ窓の側に立っているのだ。

(他人の幸せを妬むなんて私もヤキがまわったものね)

 軽く鼻先で笑うとまた外に視線を戻して、今度はこれから会う舞について考え始めた。

 あの日はよくわからないまま家に帰り、今週いっぱいは会社でほとんど一緒にいることもなく昼も同席することはなかった。

 正直にいって舞が何を考えているのかさっぱりわかっていない。嘘をついていたようには見えなかったがそれでも今日はもしかしたら何か裏があるのではと少し勘ぐってしまう。してしまったのことの重さを考えればなにかあっておかしくないどころか当然とすら言っていいはずなのだ。

 だが、【あれ】があるまで可愛い後輩と思っていた舞が何かするともあまり考えられなかった。やはり合って直接確かめるしかない。

 麻美がそう結論付けるのと同時に電車が駅へとつき麻美は降りていく。エスカレーターに乗り、通路を通って改札を抜けると、駅前の広場に出た。

 ここ、舞の最寄り駅に麻美が訪れるのは二回目だが一回目……つまりデートの約束をした日は思考がまったく働いていなかったのと暗かったこともありほとんど覚えていなかった。

 駅の大きめな階段を下るってすぐの駅前広場は中心に噴水が存在し周りにはそのためのベンチや景観のための木々が揃い、都会とも田舎ともいえない様子が漂っていた。

 麻美は噴水近くの木のベンチに腰を下ろすと手元の時計を確認する。

「いくらなんでも早すぎたかしら?」

 まだ舞との待ち合わせ時間には五十分以上はある。まして舞は電車を使ってくるわけではないのだから待ち合わせからそれほど早くくるとは思えない。

 読んでいる途中の文庫本が手さげには入っているが今は読む気が起きなかった。今はというよりはこの一週間読み進めていない。この一週間、というよりは楓の結婚式からというほうが正確かもしれないが。思えば、手さげの中もほとんど変わってなくときが泊まったままだ。

 麻美は黙って噴水を見つめた。周りはやはり電車と同じように幸せがそこら中にあり目を向けてられない。退屈には違いないが麻美は待ち合わせには必ず相手より早く来るというルールを自分の中で作っていた。

(……楓)

 一人でじっとしていると気づくと楓のことを考えてしまう。考えたくなどないのに。楓とは一度も連絡を取っていない。まだ向こうだって忙しいだろうし、あんな別れ方だったから楓からも連絡はしづらいのかもしれない。

(いい訳、よね)

 噴水向こうに見える一組のカップルを見て麻美は唇を噛み締める。見たくないのだ、聞きたくないのだ。自分以外といる楓のことなど。

「…ん…ぱ…い」

 しかし、気にはなるし、気にもする。知りたくなんてないのに。

「せんぱい?」

 もういないものに、手に入らないものに縛られるなんて滑稽なのかもしれない。しかし、それでも麻美にとって楓は

「せんぱ〜い?」

 ふにっとほっぺをつつかれた。

「ま、舞ちゃん!?

 そこでやっと麻美は目の前にいた舞に気づき慌てて立ち上がった。

「ご、ごめんなさい」

「おはようございます。どうしてんですかぼーっとしちゃって」

「あ、ま、舞ちゃんがこんなに早くくるとは思わなくて……」

 いい訳になっていないが予期していなかった舞の登場に麻美は当惑していた。

舞はシフォンを使ったディープブルーのワンピース、黒のロングソックスにシルバーのウェッジソールのシューズ。年相応の可愛らしい格好で麻美とは対照的ににぱっと笑う。

「それはこっちのセリフですよ〜。先輩を待たせちゃいけないと思って早く来たつもりだったのにもう先輩のほうがいるんですから」

「私も舞ちゃんを待たせたくなかったから」

 麻美は舞をはっきりとは見ない。後ろめたい気分があり、やはりしっかりとは向き合うことができなかった。舞はそんな麻美のことを知ってかしらずか、明るくありがとうございますと笑顔をみせた。

「時間早いですけど、ここでこうしていても仕方ないし、いきましょうか」

 突然舞に手を取られた麻美は戸惑いながらも、そのやわらかく暖かな感触を感じてまた改札へと向かっていった。

 

 

 最初に訪れる予定だったのは映画館で、見たのはよくあるアクションものの映画だった。

「舞ちゃんてああいうのも見るのね。よく恋愛映画が好きだって言ってたからそういうのをみるんだと思ってたわ」

 映画を済ませた二人は近くにあったレストランで昼食をとっていた。休日だが、待ち合わせが早くなってしまったおかげで映画を一本早くみれ混む前に入れたのは幸運だろう。

「今やってるのは大体見ちゃいましたから。それにたまにはあぁいうのもいいじゃないですか。なんていうか胸が、こう、スカッってして」

 前菜のサラダを食べながら舞は楽しそうに語る。確かに舞は映画を終始に楽しみながら見ていた。あまりに場面に素直に反応するため麻美も映画と同時に舞を見るのが面白かった。

「そうね。たまにはいいかもしれないわね」

 映画なんて久しぶりだったので楽しんだという点では舞に感謝するべきなのだろう。

(楓は、映画館の音がうるさいって言ってほとんど行かなかったものね)

 麻美は舞から目を離し、どこか遠くを見つめる。遠くというよりは、決して届かないものに目をやっていた。

 舞は一瞬ムスっとした顔になるが麻美には気づかれないようすぐに笑顔を取り繕う。

「そうだ、先輩。結局朝はどうしてあんなに早かったんですか?」

「え? だから、舞ちゃんを待たせたくなかったからって言ったじゃない」

「そうなんですけど、なんか朝の先輩の様子ちょっと変だったので。あ、あたしの気のせいかもしれませんけど。それに先輩って時間を決めたりするといつもすごくはやいなーって思ったので」

「人を待たせるのは好きじゃないのよ」

「そう、なんですか? 何か理由でもあるんですか?」

 なにか気になる風に麻美が言ったわけではないが舞は待たせるのが好きじゃないといって麻美の遠くを見ていたまなざしがさらに独特の濁りを秘めたのが気になった。

「まあ、少しね」

「へー、どんなのですか?」

「別に面白い話じゃないわよ」

「えー、いいじゃないですかー教えてくださいよ」

 年下特有の甘えのようなものを見せる舞に麻美は思案顔を見せた。

 あれのことは気にしなくていいと何回も言われたけど、そんなの無理よね。舞が頼むことは他の人よりも聞いてあげなきゃと自然に頭が思ってしまう。

「昔ね、人と待ち合わせするときに、私が約束を途中まで忘れてたことがあったのよ」

 麻美は懐かしそうに話し始めた。

「私はきっとすごく怒られるだろうなって思ったのだけど、楓は私が現われるなりいきなり抱きついてきて泣き出しちゃって」

 麻美の姿に舞は笑顔を貼り付けたままだったが机の下ではこぶしを握り締め、自分の不必要な好奇心に後悔をしていた。

「悪いのは約束を忘れた私なのに楓は、私になにかあったんじゃないかってものすごく心配してくれてたのよ。だから、それ以来待ち合わせには楓に限らず相手よりも必ず早く行こうって決めたのよ。と、ごめんなさい、くだらない話だったわよね」

 あんなことしてしまったのに、二人でいるときにまた楓のことなんて話すべきじゃない。舞からすれば楓は例のことをされた遠因の一つといっていい人なのだから。

 片手を顔の前に持ってきて麻美は軽く頭を下げる。

「そ、そんなことないですよ。いい話じゃないですかー」

 反応がないことを不満と取られたのかと心配になった舞は慌てて言葉を返す。ただ、握り締めたこぶしはそのままだった。自ら掘ってしまった墓穴が予想よりも深く体は正直に反応していた。

(やっぱり、先輩は……)

 どうして無駄なことを聞いちゃうんだろう。聞く前からもしかしたらくらいには思ってたのに。

 舞は沈んでしまった心を振り払うかのように頭をブンブンと振った。

「ま、舞ちゃん? どうしたの急に?」

「え、あ、な、なんでもないですよ。そんなことより、ほらっ。このサラダおいしいですよ。先輩もよかったらどうぞ?」

 そうよ。いちいちくよくよなんかしていられない。そんなことのために今日勇気だして先輩を誘ったんじゃないんだから。

 舞は自らの心を奮い立たせると残っていたサラダを元気よくほおばり始めた。

 

 

 このデートを約束するにあたり麻美は舞と約束していたことがある。それは絶対にあの夜のことを気にして必要以上に気を使ったりするなということ。逆に言えば舞はそれだけしか要求をしてこなかった。

 それ自体、それほど難しいことではなかったがあくまで表面上のことで心の中では負い目を感じ、舞の言ってくることを断ろうとか、反論しようとは思えなかった。

 そう、例えそれが……自分にとって耐えられないことでも……

「ま、舞ちゃん本当にこれ、乗るの?」

 映画館のあとは遊園地で一遊びとは了承していたが、どんなものに乗るかなど当然聞いているはずもなかった。

 カンカン。

列が動きだし、金属製の階段を上るたびに音を立てる。

麻美は下よりも上を、これから乗るはずのものを見てごくりと生唾を飲み込む。

「え、だってそのために並んでるんじゃないですかー。どうしたんです? 少し変ですよ? お手洗いならまだもう少しあるしいってきても大丈夫だと思いますよ?」

「そ、それは大丈夫だけど……」

 麻美の視線の先にあるのは絶叫マシーンの典型ともいえるジェットコースター。この遊園地は規模はそれほどでもなくどでかい観覧車くらいしかめぼしいものはないが、これも立派な絶叫マシーンとしては役目に果たしている。

 鋼鉄のレーンが空中に縦横無尽としかれ一回転するようなところは二つほどしかないが、それでも何度も起伏は激しく、先ほどから幾度となく聞こえる糾合は悲鳴にしか聞こえなく麻美の足を震わせた。

 麻美は高所恐怖症ではないが、高いところは得意ではない。そもそもこういった絶叫系は本気で苦手だった。

(楓とはゆったりしたものばっかりだったものね)

 楓と遊園地デートは何度もあるが、コーヒーカップやメリーゴーランドなどメルヘンなものというかとにかくこういったものは楓も苦手だったのでほとんど乗ったことがなかった。

(そういえばお化け屋敷なんて……昔、楓が泣いてから一度もないのよね)

 いつのまにか麻美は舞ではなく、自分の中にいる楓のことを思い出してクスリと顔をほころばせていた。

「…………」

 思い出に浸る麻美は当然舞の様子に気をとられることはない。

 舞は麻美には気づかれない程度に唇を噛み締めて、心の中が顔に出ないようにと努力はしていたが瞳に哀しみの色がはっきりと出ていた。そしてそれを自分でもわかるのに、麻美には気づいてもらえないということがさらに舞の心に暗い影を落とす。

 口論としたわけでも話の話題に詰まったわけでもないというのに二人の間には沈黙が訪れた。

「……先輩、ほらっ。前進みましたよ」

 列が進むと舞は麻美の腕を強引にとって歩きだした。それが麻美も現実へと引き戻され自らのこれからを考えまた表情が固くなるのだった。

 

後編

ノベル/ノベル その他TOP