「ふんふーん♪」
職場を出たときからすでに上機嫌だった理々子はマンションに帰りつく頃には鼻歌まじりになっていた。
そのことにそれほど自覚があるわけではないのだが、ともかく理々子は上機嫌だった。
マンションに帰り着き、エレベーターで自分の部屋の階に着くと理々子は早足に廊下を行くと財布から鍵を出して鍵を開けた。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい。理々子さん」
理々子が少し前までは口にすることのなかった挨拶に少し前までは言われることのなかった挨拶を返される。
「ただいま、美織」
出迎えたのは目下家出中の少女で、今はこの部屋の居候であり、理々子専用のメイドでもある美織だった。
居候が決定した日に理々子が買った花柄の可愛らしいエプロンを身に付けながら帰ってきた理々子を出迎えてくれる。
「ご飯、もうちょっとだから少し待ってて」
「うん。着替えたら、私も手伝うわ」
「ううん、理々子さんはゆっくりしててよ。もうすぐだから」
「そう? ならお願いね」
「うん」
近頃はたまにする会話をすると理々子は自分の部屋に戻って、美織に気を使うようにゆっくり着替えをして美織が待つキッチンへとやってきた。
テーブルの上にはすでにいくつかのメニューが並んでおり、先ほどの美織の言葉通りあと一品程度といった感じであろう。
「ご飯よそるのくらいは私がやっておくわね」
「あ、うん。ありがとう」
おかずは手をつけないほうがよさそうと考えた理々子は炊飯器からちゃわんによそりそれをテーブルへとくわえる。
数分で美織のほうも用意が終わり二人並んでテーブルへとついた。
「いただきます」
「いただきます」
これもまた一人のときには言わなかった挨拶をして二人で食事を始める。
「どう? そろそろ慣れた?」
食事のときの会話はその時々だが、今日はなんとなしにその話題が口を突いた。
「うーん、まぁね。こうして毎日作ってれば。少しはおいしくなったでしょ?」
「うんうん。そうね。ってじゃなくて、ここの生活」
確かに最初は火を使うものは多少こげていたり、生っぽかったりとすることもあったが、今はそれに比べればましになったというものだ。もっともまだまだ一般人にとってはおいしいとよべるものではないかもしれないが、理々子にとってはおいしく感じられる。
「うんと……」
何かを考えるように箸を口にくわえたまま動きを止める美織。
「こら、箸をくわえない」
理々子の容赦ない? 叱咤が飛ぶ。
「はーい。で、まぁ、さっきのだけど……まぁ、大体慣れてきたかな? お店の場所とかもわかってきたし」
「そ。そういえば昼間って何してるの?」
「何っていうか、洗濯とか、掃除とか、買い物とか」
「……何かおもしろみのない話ね」
「だって、私は理々子さんのメイドなんでしょ? なら当たり前のことしてるって思うけど?」
「う……」
そういわれてしまうとまるで押し付けているような気にさせられてしまって、少し罪悪感を感じてしまう。
先ほど自分が注意したにも関わらずお箸をくわえて理々子はちょっと困ったような顔をする。
「あ、そ、そういえば、お小遣いは少し渡してるでしょ? たまには気晴らししてきたっていいのよ?」
「一人でいくところなんてないよ。それに散歩とかだって結構楽しいよ?」
「それなら、いいけど……あ、そうだ。一回私の職場に来てみる?」
「職場って……たしか司書なんだっけ?」
「そうそう。ここからそんな遠くないし、暇つぶしにはなると思うよ」
「本、かぁ」
理々子の思わぬ提案に美織はまたも行儀悪くテーブルに片肘をついて天井を見つめる。
その様子に本が苦手なのかと思った理々子はその旨を伝えてみると
「そうじゃなくて、懐かしいなって思って」
「懐かしい?」
「私も図書委員やってたんだ。別に本が好きとかじゃないけどね。たまたま」
「そう」
それは中学校の頃? それとも、高校のとき? と喉まででかかったがそれをすんでで止める。
「…………」
「理々子さん?」
「ん?」
「どうかした?」
「ううん。なんでも、じゃ早速明日いらっしゃい。朝は別に一緒じゃなくてもいいから、お昼ごろ来て、迎えにいくわ」
「うん」
暗くした部屋の中で理々子は星空を見上げる。
食事の後適当に二人で時間を過ごし、今はもう寝る時間だ。
さすがに本来のベッドは返してもらい、美織は別の部屋で布団をしいて寝ている。
白いレースのカーテンからこぼれる月明かりを受けた理々子は美織のことを思う。
「……だめね。私は」
ぽつりと一人ごちた言葉は理々子の複雑な心情を表したものだった。
理々子を家においてからそれなりに時間がたつ。最初はできるだけ早く事情を聞いて、追い出す……という言い方は悪いが、家に帰れるようにするつもりだった。
あくまでここは避難所のようなもので長くいるべき場所ではないというのが理々子の最初の考え方だ。
どんな事情であれ、家に帰らなければいけないのは美織にとって絶対のことだ。近い将来に家を出るとしても、勝手にそれをすべきことではない。
だから、あくまで理々子が最初目的としていたのは単純に家出の協力をすることではなく、美織の力になるというのが目的だった。
「……ふぅ」
なのに、いつまで他っても理々子は美織に踏み込めなかった。
何一つ聞いていない。
家に置くことになった日から何一つ。
聞かなければ話は何も進まないというのに。
理由はいくつかあるが、
(……ただいま。おかえり、か)
その大きな理由はこれだ。
ただいまといえる相手がいる。
おかえりといってくれる相手がいる。
それは嬉しいものだった。
美織のことはまだ何も知らない。客観的に見れば得体の知れない相手と言ってもよい。正直言って、家に住まわせるという選択肢からして普通は出てこないものだし、生活費もすべて理々子もちでは長く置いていくことは理々子にとって負担にしかならない。
しかし、理々子にとって美織は不思議なほどなじんでいた。まだ、いることが当たり前とは言わない。
ただいまや、おかえりも意識をして口にしている。
しかし、まだ意識してしまうことだからこそ美織の存在は理々子にとって嬉しかった。
友達がいないわけではない。親友も休日に外で会うような友人もいるが、仕事の終わった平日や、一人で過ごす休日にはおそらく経験しなければわからない特有の寂しさがあった。
理々子は一人っ子ではあったが、そういう寂しさにはいつまで立ってもなれない。
「あぁ……それも関係してるのかしら?」
ポツリと頭をめぐった考えを口にした理々子は不思議な得心を得る。
昔から妹や弟が欲しいと思っていた。姉と、言ってもいいのだがこの年で甘えたいとはさすがに思えない。
妹のように可愛がってるとまではいえないが美織を半ば無意識にそういう風に捉えていたといっても嘘にはならない。
(……美織はどう考えているんだろう)
人は決して答えは出せないのに他人がどうかんがえているかを考えずにはいられない。誰もが思うこの問いの正解はその相手以外にはわからないものだが推測はすることも出来るはずだ。
(……お姉ちゃんみたい、とか思ってくれてるのかしら?)
しかし、まだ美織を知って一ヶ月も経っていない理々子が出す答えのようなものには説得力がない。
今のは推測というよりも希望で、最悪便利に使われているだけということもあればもっと穿って考えれば、盗みなど犯罪的なことを考えられている可能性もゼロではない。
(……美織はどうするつもりなんだろ)
またも答えの出るはずのない思考をめぐらせた理々子は、
「ねよ」
軽く頭を振ってベッドへと入っていた。
どうするつもりなのかなどは本来自分こそ考えなければいけないことだということを自覚しながら、
明日は美織が来るのだからと言い訳をして今は考えなければいけない思考から逃げるのだった。