美織の勤めている図書館は極めて普通の市立図書館だ。一応、司書を目指してはいたが市の職員になった年から勤められたのは幸運といっていいだろう。
仕事が楽しいかといわれれば、素直に頷けないが少なくても嫌いではない。元々本に囲まれるのは好きだし、夢だったというわけではないが司書というのは目指していた職業でもある。
ただ、嫌いではないものの同じことの繰り返しのように仕事を感じてしまうのはおそらく多くの人間とっての悩みなのだろう。
どこかで日常を逸脱したいと考えるのもまた自然で、
「美織―」
「理々子さん」
こうして逸脱というわけではないが、日常に変化を与えてくれた美織は理々子にとって意味のある存在だった。
「迎えに来てくれたの?」
美織は背の高い三角屋根の駅舎を出たところで声をかけてきた理々子を驚きをもって迎えた。
「うん。迷っちゃうといけないしね。美織携帯持ってないし」
「ありがとう」
そう、美織は今時珍しいといって良いのか携帯を持っていない。いや、正確には持っていないのか知らない。携帯の電源を入れているだけでしかるべき場所であれば居場所を調べる可能だ。それを嫌がり、持っていること自体を理々子に伝えていないのかもしれない。
「ん? なんか持ってきたの?」
理々子は美織が持っていたバッグに目をつけた。それはおしゃれ用というよりは、実用的なスクールバッグに近いもので、初日美織に買ってあげたものの一つでもある。
「あ、うん。ちょっと、ね」
「悪いけど、さすがに本は貸せないわよ?」
市立図書館である以上、住所不定の美織に本を貸し出すのはできない。さらに言ってしまえば住所どころか名前すら正しいとは限らないし。
「あ、そういうのじゃないの。気にしないで」
「そう? まぁ、いいや。ところでお昼どうする? どこか寄ってく? 悪いけど図書館にはないわよ」
「ん、と、中庭とかって、ある?」
「ある、けど……それがどうしたの?」
ほんの少しだけ照れたような美織だったが、その理由がわからず質問にだけ答えた。
「うん。わかった。先に図書館見たいな。理々子さんがどういうところにいるかって知りたい」
結局ここではバッグのことも、照れた様子のこともわからなかったが図書館に着くとその理由を知ることとなる。
赤レンガの壁に平べったい屋根。三階建てのその図書館は、周りを木々に囲まれ歴史を感じさせる面持ちで佇んでいた。
「へぇ、ここが理々子さんの……」
入り口手前の自転車置き場で美織は三階建ての建物を見上げながらそう口にする。
それはそれほど意味のある言葉ではないのかもしれないが自分のお世話になっている人の職場ともなれば多少意識をするものかもしれない。
「で、ここまで来ちゃったけど、お昼は、あんまり時間ないからそんな遠くはもういけないけど」
いくら招待したとはいえ、あくまで理々子は仕事としてここにいる。お昼休みが終われば美織を相手だけをしているというわけにはいかない。
「実は、お弁当、作ってきたの」
「え? おべん、とう?」
「……うん。理々子さんのところにいるようになってちょっと料理とかもやるようになったし、ためしにっていうか」
「美織……」
理々子は驚いていた。もちろん、美織がお弁当を作ってきてくれたっていうのもだが、それ以上にお弁当を作ってきてもらえたことを喜んでいる自分にだ。
それも、ただ嬉しいというだけではなく、すごく嬉しいと思えるほどに。
「ありがとう。すごく嬉しい。あ、だから中庭がどうとか聞いてたんだ?」
「うん、いい天気だし。外のほうが気持ちいいもんね」
「じゃ、さっそくいこっか。こっち」
理々子と美織は並んで図書館に入っていき、青い絨毯と背の高い本棚に囲まれた館内を進んでいって、廊下から建物に囲まれた中庭へと出た。
四方を図書館の建物に囲まれる中庭は丁度太陽が南向きになるお昼には日に照らされ、理々子たちだけでなくお昼を取っている人たちがいる。
「綺麗なところなんだ」
その影響もあってかベンチやテーブルも設置されており、周りには花や小さな池もあり景観にも気を使っていることが見て取れる。
「ありがと」
「? なんで、ありがとうなの?」
「ここの工事するとき、私も一応口出ししたから。美織にそう言ってもらえると嬉しいなって」
「そうなんだ」
姉の職場に見学に来た妹みたいな会話をして二人は小さな池の側にあるベンチに腰を下ろした。
すると、さっそく美織は持っていたバッグからお弁当の包みらしきものを取り出しベンチへと広げていく。
理々子が今まで自分で昼食を作っていくなんてことはしていなかったため、お弁当箱というものもなくタッパーに小分けされたものが並んでいくがその品数は多い。
サラダに、ふりかけごはん。あと、鮭の切り身に、デザートにはリンゴ。手の込んだものというわけではないが、美織がある程度栄養に気を使ってくれたのだというのは察することの出来るメニューだった。
「いただきます」
「いただきます」
両手を合わせて、二人で食前の挨拶をすると理々子は箸を手に持つ。
(……手作りのお弁当、か)
箸をつける前に理々子はそのことを改めて思いなおす。
手作りのお弁当。それも自分が作ったものでなく、作ってもらったお弁当。
「? 理々子さん? どうかしたの?」
「え? ううん。なんでもない」
「そう? でも……」
何か考えていそうだったと言いたいのだろうが、美織はあえて口を閉ざす。この状況を傍から見れば仲好し姉妹にも見えるかもしれないが実際にはまだ会って数週間も立っていない。美織からすればあまりずうずうしく口は出せないと考えてしまうのだろう。
「……お弁当作ってもらうの、嬉しいなって思っただけよ」
「え?」
恥ずかしげにいう理々子に美織は最初驚きをもって、次にかぁっと頬を染める。
「も、もう変なこと言わないでよ。た、大したものじゃないし、これくらい別に」
「美織がどう思うかじゃなくて、私が嬉しいの。ありがと、美織」
言いながら理々子はお弁当に箸を伸ばし一口口にする。
「うん、おいしい」
「……あ、ありがと」
少し過剰とも思える理々子の反応に美織はどきまぎしたものの、まんざらでもない様子で照れて見せた。
食べ始めた当初はこのことがあったせいか微妙に会話の少ない二人だったが、徐々に会話も増え、当たり前ながらこの図書館に関したものが増えてくる。
「司書ってさ、どういうことしてるの? なんか、貸し出しとか返却の受付以外にあんまりイメージないんだけど」
「んー、まぁ、そうかもね。でも、あぁいうのって意外に司書資格持ってる人あんまりいないのよ」
「そうなの?」
「んー、こういうと悲しいけど、大体の図書館は司書になるのに司書の資格っていらないしね」
「え? 司書、なのに、いらないの」
「うん、ほとんどは司書の資格を持ってるのが望ましいっていうだけでないとダメってことはないの」
「へぇ。そうなんだ」
「まぁ、中々普通は知らないものよね。で、司書の仕事だけど……」
内容としては、それほど面白いことではないかもしれないが美織は真剣に理々子の話を聞いていた。今、学校に通っていないということもあり仕事というものに興味があるのかもしれない。
「まぁ、こんな感じかしら? 場所によって色々だろうけど」
「へぇ。全然知らなかったな、そういうものなんだ」
話ながらではあったものの二人はしっかりと箸は進めており、最後にデザートのリンゴを口にする。
「ん、おいしかった」
「よかった。そう言ってもらえて。人にお弁当作るのなんて初めてだったから不安だったの」
「うん、ありがと。ほんとにね」
「そ、そんなお礼言われることじゃないでしょ」
二人で食器、タッパーを片付けながら食べ始める前と似たような会話を繰り返す。
美織からすれば確かに必要以上に御礼を言われているように感じるだろうが理々子は本心だった。
嬉しいのだ。こうして自分のためにお弁当を作ってもらえたことが。
(なんせ、初めてだものね……)
「? 理々子、さん?」
「あ、ううん、なんでもない」
また食べ始める前と同じような会話をするが、今度はどうかしたのといわれる前になんでもないといってしまっている部分が大きく異なっていた。
「……あ、あの。ところで、さ理々子さん。……よかったら」
「ん?」
「これからお弁当、つくろっか?」
「え? いい、の?」
美織は最初これを言っていいのかと逡巡して出した言葉であったが、いきなり催促とも取れることを返され、自分がしたことが間違いでなかったと安心する。
「うん。これくらい、大したことじゃないし、何か理々子さんのためにしたいから」
「……ありがとう、美織」
言葉に乗る、美織が知らない感情。理々子が何をそんなに嬉しがっているかまではわからないものの初めて明確に理々子のためになることを見つけ美織もまた嬉しく思うのだった。
食事を終えた理々子と美織は中に戻ると一通り美織を連れて図書館の中を歩きまわる。
当初、美織のようにそれほど馴染んでいない人間には図書館などどこも同じようなものでつまらないかもしれないと、理々子は不安にも思ったが、
「ねぇ、理々子さん。学校の図書館とかでもあったけどさ、こういう百とか二百とかの番号って何なの?」
行く先々で美織は何かしらの質問をしてきた。
「んーと、ちょっと専門的な話だけど、これは本の分類で日本十進分類法っていうのを元に作られてるの、この番号から始まるのはどんなジャンルとかわかるのよ。まぁ、図書館によっては独自に作ったりもしてるけど、基本は同じ風になってるわね」
「へぇ、そうなんだ」
本棚についている区分を見てはさっきのような質問をし、窓と本棚の距離を見ては
「ねぇ、理々子さん。気のせいかもしれないんだけど、図書館って日当たり悪かったりすること多くない?」
「へぇ」
「ん?」
「よくそんなところに気づくわね。その通りよ。本も日焼けしたりするからね、なるべく陽の光が当たらないところに作ってあるの。だから、日当たり悪い場所にもなるし、あと窓から遠いところに本棚を置いたりするのよ」
「そうなんだぁ。何か新鮮。今までそういうの気にしたことなかったから」
「まぁ、中々気にしないことよね。でも、美織がそういうことを知ってくれると思うと嬉しいかな」
周りに対し図書館の意義を押し付けるつもりはないが、自分の職場が人に正しく知ってもらえてるというのはまんざらでもないものだ。
「ところで、時間大丈夫なの?」
美織が予想以上に興味を持っていることを嬉しく思いながら図書館を一通り回って中庭に戻ってくると、美織は今さらながらにそのことを気にした。
「ん? もう終わってるわね。昼休み」
「え!? だ、大丈夫なの?」
「んー、よくはないけど一応遅れるかもしれないっていうのは言ってあるし大丈夫だと思うわ」
「そ、そんなわけにはいかないでしょ!! なんで、言ってくれないの。私のことなんてどうだっていいでしょ」
「どうだっていいなんてことはないよ。美織が来てくれたんだもの。ちゃんと案内したかったの」
本当はここまで時間をかけるつもりはなかったが、お弁当を作ってもらえたというのが予想外に嬉しく、ちょっと案内してはいさようならとはしたくなかった。
が
「っ……も、もう、それはわかった、から。もう戻ってよ」
「えー、大丈夫よ。まだ」
「私がよくないの。私のせいで理々子さんが怒られたりするのはやだよ」
「あ……」
美織の寂しそうにも悲しそうにも見える様子に理々子は目を細める。
自分のせいで自分がお世話になっている人の立場を危うくしてしまう。言い方は大げさかも知れないがそれは確かに本人にとってつらいことだろう。
理々子は美織の優しさとそこに思考が到達しなかった自分を恥じる。
「うん。ごめん……ううん、ありがとう。じゃあ、もういくわね」
「うん。こっちこそごめん。と、ありがとう。楽しかったよ。今日のお夕飯頑張るからね」
「楽しみにしてる。それじゃ」
美織の前ではこうして強がってみたものの、昼休みを大幅に過ぎてしまった理々子がこの後こっぴどく怒られたのはいうまでもなかった。