理々子が朝、家を出るとき美織は大抵その見送りをする。お弁当を渡したり、忘れ物がないか確認したり、大体何時くらいに帰れそうかと予定を聞いたり、ほとんど毎日似たような会話になってしまうが、しない日のほうが少なかった。
だが、たまには理々子が寝坊をしてしまうときもあるし、美織は美織でやらなければいけないこともないのでしないときもある。別にそれほど重要なことを話しているわけではないので、基本問題ないが理々子がお弁当を忘れてしまったときは別だ。
さすがに美織もすることがある以上、作っていないのにわざわざ作ってお昼に持っていくということまではしないが、作ってあるのに理々子に食べてもらえないというのは悲しく、そんなときには図書館まで持っていっていくことが多かった。
「あ………」
そんなある日。
図書館へお弁当を届けにやってきた美織はよく一緒に食べていた中庭で予想だにしていなかったものを見てしまう。
中庭と館内を隔てる大きなガラスから美織が見たもの、それは。
「理々子、さん……」
それはもちろんのこと、そこにいたのは理々子だけではない。
美織が理々子と一緒にお昼を取ったこともある中庭の中央のベンチ。そこに理々子と同年代と思われる一人の女性が一緒にお昼を取っていた。
遠目にはそれほど詳しくはわからないが、髪の長いちょっと気の強そうな雰囲気を持つ女性。
今日はお弁当がないのだ、その人と一緒にお昼を取っているだけというのならそれほどのショックは受けなかったかもしれない。
しかし、
「っ」
思わずガラスに当てていた手に力がこもる。
理々子はどうやら、相手の女性からお弁当を分けてもらっているようだった。
「……………理々子、さん」
呆然としばらくその光景を見つめていた美織だったが、気づくとざわつきを覚えていた胸に従い図書館から去っていった。
美織の朝は早い。
理々子が目を覚ます、一時間前にはベッドから出て身支度もそこそこに台所に立つ。
主に昨夜の残り物に一工夫を加え、違うものとして朝食のおかずとし、汁物がないときには簡単なものを作る。
理々子には言っていないが実は二回目の家出をする前に母親に料理を教えてもらっていたので手際は最初にここにいたころに比べてかなりよくなっていた。
本来であれば、朝食と一緒にお弁当も作ってしまうところだがこの日美織はその手を止めていた。
「…………」
いつもと同じ時間に起きてしまったため、お弁当を作る時間が余ってしまう。理々子を起こす時刻までまだあるためなんどか、やはり作ろうかと手は伸びたが結局美織はしなかった。
そして、いつもの時間に理々子を起こし、いつもと変わらぬ朝の時間を過ごして、いつのものように理々子を見送るために玄関までは来た。
「あれ? 今日はお弁当なし?」
そろそろ時間だとドアを開ける寸前で理々子は思い出したかのようにそう言った。
「う、うん。ごめんね、ちょっと寝坊しちゃって」
「ふーん、そうなんだ。まぁ、美織だってたまにはゆっくりしたいわよね。たまにはなくなって大丈夫よ。一週間に三日くらいにするとかでも、いいよ?」
理々子がそんな深い意味を持っていったどころか、理々子としては美織を気遣った言葉だったのかもしれない。
しかし
「っ……ないほうが、いい?」
昨日のあの光景を見てしまった美織はそれに過剰に反応してしまった。
「へ? そんなことはないけど」
「でも、昨日……」
「昨日?」
言ってから美織は昨日自分が図書館を訪れたことを理々子がしないのだということに気づく。
別にやましいことをしたわけではないのに、昨日のことを理々子の口から聞きたくなかった美織は
「な、なんでもない。ほら、もう時間だよ。出なくていいの」
「え? まだ、結構余裕あるけど」
「だーめ。前遅刻したとか言ってたでしょ。余裕を持っていかないとだめなの。ほら、早く」
「わ、わかったわよぉ。それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
とりあえずと、理々子を追い出すのだった。
理々子を見送った美織は朝ごはんの片づけをして、いつもどおりの家事をして、さて勉強だという時間になったが。
「……………ん、ふぅ」
勉強机としている、ご飯用のテーブルの上で美織は、憂鬱そうにため息をついた。
気になってしまう。昨日の光景。
理々子が見知らぬ人と楽しそうに食事をしている様子。
そんなに気にするほどのことではないと、頭ではわかっている。あれは、おそらく職場の同僚だろうし、お弁当を作ってもらっていたのではなく、分けてもらっていただけ。
ちゃんと美織がお弁当を渡していれば理々子はそれを食べてくれたはずだ。それは疑ってはいない。
だが、そもそもそれがいいことなんだろうか。
昨日を見ていなければ、それほど気になることはなかったかもしれない。しかし、昨日を見てしまった今は理々子の朝の言葉が気になっていた。
たまにはなくてもいい。
気遣ってもらえたのだろう。それはわかっている。ただ、同時にそれが理々子の本心とまでも聞こえてしまった。
「………ないほうが、いいのかな……?」
いつの間にか手を止めテーブルに突っ伏してしまった美織は不安そうにそうつぶやく。
美織とてもう十五年以上は生きてきている。理々子には本来の理々子の生活があるのだということをわかる年だ。
そして、自分がそこに入ってきた異物であることも。
自分がお弁当を作れば理々子はそれを食べるだろう。職場というものがどんなものかは知らないが、同僚とどこかでお昼というのは普通のことだろうし、それは社会人として必要なことなのではないだろうか。一人、とは限らないがいつもいつもお弁当を食べていたら理々子は輪から外れてしまうのではないだろうか。
それに、理々子は早く帰ってくることが多い。平日はもちろん、金曜日すら遅くなることはめったにない。それどころか、美織が最初に家出したときも、今も休日、美織をおいてどこかにいくということはほとんどなかった。
(……ほとんど……?)
いや、それどころか。
「……ない?」
はっとなった美織は、携帯を取り出して最初ここに来たときからの休日を一日一日思い出してみる。
「……………」
数ヶ月前ということもあり、はっきりと思い出せないところもあったが、同時に理々子が出かけていたという記憶も見当たらなかった。
正確にはまったくないわけではないが、軽い買い物や、ちょっと本屋に行ってくるなど、長くても数時間だ。誰かと会っていたということはないのではないだろうか。
それが、社会人にとって珍しいことなのかどうかまではわからないが、以前の、何も知らなかったころの美織からすれば考えられないことだった。
毎週とまではいかないかもしれないが、少なくても一ヶ月の間休みの日に誰とも会わないで過ごすということはありえなかった。
だが、理々子は誰とも会っていない様子だった。
「……………」
以前は自分のことだけで精一杯だったことが、余裕が出てきてしまった今は気になってしまう。
「……理々子、さん」
気になってしまうのだ。
だが、この場ではどうしようもなく美織は理々子が帰ってくるまでまったく集中できない時間を過ごすのだった。