「今日は、ちょっと遅くなる、から」

 朝、理々子は玄関先で美織からお弁当を受け取りながら美織を見ずにそういった。

「あ……うん」

 朝食の片付けのためエプロン姿の美織は丹精に、情を込めながら作ったお弁当を理々子に差し出しながら沈んだ表情となる。

「最近、いつも、そうだね」

「……そうね」

「お仕事、忙しいの?」

「……まぁ、そんな感じ」

「そう、なんだ。頑張ってね」

「えぇ、ありがとう。それじゃ、言ってくるわね」

「……うん、いってらっしゃい」

 ドアを開けて外へと出て行く理々子の表情は固く、見送った美織もまた沈んだ表情をする。

 ここ最近は毎日のようにしている朝の会話。

 美織はそのたびに心を落ち込ませる。

 以前は、理々子と話が出来ればそれがどんなものだろうと嬉しくて、心が温かくなったのに。

 とぼとぼとキッチンに戻った美織は、沈ませたままの表情で片づけを再開した。

(……今日も、顔合わせてくれなかった……)

 なによりも思うのはそのことだった。

 前までなら、朝の見送りの時には理々子は必ず美織の顔を見て受け答えをしてくれた。今日は何時ごろに帰れる、昨日のお弁当はおいしかったなど他愛のないことではあってもしっかりと顔を見てくれたというのに。

 今は美織を見ることはなく、抑揚のない声で受け答えをする。

「……なんで?」

 かちゃかちゃと食器を洗う音に混じりながら美織は自分に謎を問いかける。

 理由がまったくわからなかった。

 いつのまにかそうなっていて、その理由を聞けることもなく時間だけは過ぎていつのまにか朝は決まって先ほどのような会話をすることが多くなってしまった。

「…………………」

 片付けと食器洗いが終わっても美織は中々その場を動こうとはせず、一向に明るくならない表情のまま立ち尽くし

「あ、洗濯物、ほさなきゃ……」

 と思い出したようにつぶやいて洗濯機へと向かっていった。

 洗濯物を干す間も、掃除をしているときも美織はぼーっとほとんど思考を働かせられないまま作業を行う。

 ほぼ無意識で行える作業。無意識でできるようになってしまうほどに美織にとって当たり前の作業。

 そのくらいの時は過ごしてきた。理々子と、そしてなにより自分のための時間を。

 だが、今のような状態は初めてだった。

 理々子はいつでも優しく、暖かく、決して美織に負の側面を見せてくることはなかった。それを少しだけ、気を使わせてるのではと不満に思っていたときもあるし、もっとすべてを出して欲しいと思ってもいたが、こんなのは望んでいなかった。

 気づけば淡白な関係となっている。

 煙たがられるわけでも、怒られているわけでもない、嫌われてるということも考えていない。

 だが、淡白なのだ。会話はしても長くは続かなく、理々子から話題を振ってくれることも少ない。

 帰ってくるのも遅ければ、寝るのは早いし、これまでほとんど休みの日に出かけることもなかったのに、出かけることも多くなっている。

(…………私、何かしちゃったのかな)

 働かない頭でも、習慣のようになっている勉強を行える美織は食事のテーブルの上で肩肘を付く。

 浮かない表情のまま中空に視線を送る美織はその答えを探ってみるが、一向に心当たりは見当たらない。もう幾度と同じことを考えているが、行き着くところは一緒だ。

 そして、その後に考えることも。

「……抱きしめてくれたのに、な……」

 問題集の上にぺたんを頬を置きながら、美織は鬱屈した息を吐いた。

 目を閉じて、あの時の唐突な抱擁を思い浮かべる。

(柔らかくて、暖かくて、いい匂いがして……嬉しかった)

 心ではそう思うがそれが表情に出てくることはない。

「………は、ぁ」

 心の底から不安を少しでも吐き出すかのようにため息をつくとようやく体を起した。

「……勉強、しなきゃ……」

 こんなときでも、いや、こんなときだからこそ表向きの理由を疎かにはできないと理性が命じる。

 まだ今の状態になってからそれほど時が経っていないのと、もしかしたら時間が経てば前のようになれるのではという根拠も何もない期待に従い理々子はしなければいけないことを再開する。

 理々子にそんなつもりがないのと、何度も何度も思い浮かべる好きな人からの抱擁こそが今につながっていると気づかないまま。

「あ、それでねお姉ちゃん………」

 美織は毎月定期的に実家へと戻っている。それは最初の決めた決まりごとの一つであり、理々子を好きで少しでも一緒にいたいと思いはしても、それを破ったことはない。

 ただ、もちろんそれで家族との交流が終わりなわけではなく時にはこうして電話をすることもある。

「…………うん」

 夕飯の支度も済み、後は理々子が帰ってくるのを待つだけの時間。

 普段はテレビを見たり、本を読んだり、適当に携帯をいじったりと好きなことをして過ごすが、今日は妹の茜から電話がかかってきて美織は部屋で妹の声をどこか遠くに聞いていた。

「あ、それから………」

 メールはともかく、茜から電話をしてくることは実はそれほど多くなく、してくるときはその鬱憤を晴らすかのように茜は嬉々として話をしてくる。

「…………うん」

 いつもなら姉としてそれに応えることはできるし、美織自身としても理々子を好きな感情とはまったく別に茜のことも好きで話すことはいくらでもあるが今日はほとんどにこうして相槌を打つだけ。

「………お姉ちゃん、どうかしたの?」

 そして、姉を想う妹がそれに気づかないはずはない。

「っ。何が?」

 だが、姉のほうは妹が気づいたということに気づかず、逆に問いかける。

「元気、ないよ?」

「そんなこと、ないわよ?」

「………そう、かな」

「そうだよ」

「…………まぁ、ちょっとね。色々あるのよ長く生きてると」

 あからさまな誤魔化しだ。少なくともこの話題にこれ以上触れて欲しくないと望んでいるのが誰にだってわかるような言い方。

「……お姉ちゃん」

 だが、妹である茜はわかるからこそそこで立ち止まったりはしなかった。

「あの、ね、お姉ちゃん」

「…………ん」

「何があったのかわからないけどね、私だったらいくらでも相談に乗るからね。急だって、帰ってきちゃだめなんてことないんだし、何だったら私が会いに行ってもいいんだし。いつでも、話してくれていいんだよ?」

 姉を心配する妹でありながら、姉を取られたくないという甘えを同時に見せる茜。

 そんな茜をありがたくも、嬉しくも思いながら聞いていた美織は

「ただいま」

(あ………)

 好きな人が帰ってきたことを知り

「ありがと、理々子さんが帰ってきたから、またね」

 と、妹の心配に何も返答することなく電話を打ち切ってしまった。

「あ………」

 自分が理々子を優先するたび茜が寂しさを募らせているとも知らずに美織はおかえりなさいと表面上は明るく理々子を迎えるのだった。

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