カチャカチャ。

 食器の音と、テレビの音だけが響く夕食。

 最近は家を出るときに遅くなるから先食べていていいと美織には告げるが、美織は一度として先に済ませていたことはなく、このすっかり様変わりしてしまった食事を続けている。

「……今日は、どう、かな。いつもとちょっと味付け、変えてみたんだけど……」

 それでも、美織は会話をしようと毎日何かは言う。

「……えぇ。おいしいわよ」

「あ、ありがとう」

 だが、理々子の反応は淡泊でかつ短く、そこから会話を派生させない。

「……ごちそう様。お風呂、大丈夫?」

「あ、うん。沸いてるよ」

「そう。じゃあ、入らせてもらうわね」

「うん……」

 手早く食器を片づけた理々子は自室に戻って、着替えをとると宣言通りにお風呂へと向かう。

 そして、服を脱ぐと今日も綺麗に掃除されている浴室へと足を踏み入れた。

 髪を洗って、体を洗って、ピカピカの浴槽に身を沈める。

「……………」

 その間に、理々子の表情が動くことはほとんどなかった。美織と食事を取っているときから仮面をかぶったかのように無表情のまま理々子は熱いお湯に体を揺蕩わせる。

「ばーか」

 小さい声でそうつぶやく。

 後悔している。あの日、弱い自分のせいで美織を抱きしめてしまったことを。今更後悔しても遅いというのに。

 たった、あれだけ。時間にすれば数秒でしかなかったもののせいですべてが壊れてしまった。

 あれさえなければ、今でも偽りの幸せはあったかもしれないのに。

 ………もっとも、それにどれほどの意味があるのかはわからないが。

 まして、気持ちを偽らなくなった今がこれでは。

(…………最低ね、私)

 残酷なことをしている。自分のことを好きな人を理由もなしに抱きしめておきながら、そのあとは人が変わったように冷たく当たっている。

 一方的に気を持たせておいて、そのあとは一切相手からの好意を断っている。人としては最も低俗な行為だろう。

(でも……)

 ここでやっと理々子は表情を崩した。

 美織の前では決して外さない仮面を外し、一転泣きそうな顔になる。

「……ひどい、顔……」

 お湯にうつった自分の顔を理々子はそう評した。

 自分勝手の人間の顔、可愛い妹を傷ける人間の顔、一人の人間の人生すら狂わせようとしている顔、だと。

(……もうすぐ、試験だっていうのに……)

 それは、美織が目指している高卒認定試験のことだ。難度と美織の実力を考えれば、問題はないはずだろうし、まだ実質二年生であることを思えば、絶対に今回受からなければいけないものでもない。

 しかし、今年を逃せばそれは後々に響きかねないものでもある。

(……だから、今じゃないのよ)

 今、告げれば美織はショックを受ける。何もできなくなってしまう。

 いずれは気持ちを告げるつもり、だ。

 自分は姉でしかなく、気持ちには応えられないと。

 だが、それは今ではない。

(……今じゃない。……今じゃ、ないのよ)

 じゃあ、いつなのか。

 それを考えなければいけないはずなのに、今じゃないとだけで自分の心をごまかしながら、これもまた美織のためではあると自分を正当化させるのだった。

 自分が、自分の態度が美織にどんなことを抱かせているのかにも気づかずに。

 

 

 ぺたり、ぺたりと静まった夜に足音が響く。

 いつものように遅くまで勉強をしていた美織は、時刻が三時を回ったところでようやくその手を止め、勉強に使っている対面キッチンのテーブルから離れていた。

 ただし、向かっているところは自分の部屋ではなく理々子の部屋だ。

 もう慣れてしまった理々子への【夜這い】。

 こんな時間まで勉強をしていたのもほとんどフリだ。今日は初めから理々子の部屋に忍び込もうと思っていた。

 それを悪いこととわかっている美織は、勉強していてたまたま遅くなったという言い訳をやめられない。

 ドクンドクンと、慣れてはいても決して落ち着くことのない心が動悸を起こさせる。

 ガチャ。

 それでも躊躇なくドアを開けた美織は真っ暗な部屋の中に入っていった。

「………ふぅ……ん」

 瞬間、理々子の寝息が聞こえてきて思わずビクっとするが、それがただの寝息だったと判断すると胸をなでおろす。

「……………」

 今までならこのまま理々子のベッドによっていって、暗闇に浮かぶ理々子を見つめたり、触れたり……キス、をしたりするがこの時の美織は音を立てずに閉めたドアに寄りかかり、そのまま背中を預けてへたり込んだ。

(……理々子さん……)

 そのままさみしそうに理々子のほうを見つめる。

 近寄れないのは罪悪感じゃない。美織に距離を感じさせているのは、美織の心から来るものではあるが、罪の意識とはまた別の感情だ。

「……私、馬鹿じゃないよ……」

 最近になってようやくそれを意識してしまった美織は、小さな声でつぶやく。

「……そんなに、鈍くなんて、ないよ」

 意識してしまったこと。

 理々子にさけられていることを自覚してしまった美織は、泣きそうになるのを抑えて膝を抱えた。

 最初は気のせいかとも思ったし、もしかしてと思ってもそんなことはない、抱きしめてすらもらったんだからと自分をごまかしてきた。

 もしかしたらと、思っていても理々子の前では必死にそんなはずないといつもの自分を装った。

 どこがでは確信のように思っていたくせに、時間がたてば以前のように戻ってくれるんじゃなどと不安が都合のいいことを作り出して本当の自分の気持ちすら偽ってきた。

「でも………」

 抑えようとしても抑えられない心の波が声に伝播して、震えてしまう。

(気のせいなんかじゃ、ないん、だよね………)

 のどが切なくなって、瞳の奥が熱くなる。

 泣きそう、だ。

 そんな心当たりなどないし、嫌われるようなことをした覚えもない。だが、いつのまにか理々子にさけられているというのは既定の事実として美織の心に影を落とし始めていた。

 だが確信を得たからといって、理由を聞けるはずもなく美織は落ち込むことしかできなかった心を抱えて今ここにきてしまっていた。

(……私は、理々子さんが、好き)

 それは今の美織の心の根っこにあるものだ。それが美織の行動の原点であり、たとえその好きな人にさけられていたとしても根から外れたことはできない。

 さけられている、もしかしたら嫌われているとしても、好きという気持ちが枯れることはなく理々子へ好きという気持ちの枝をのばさずにはいられないのだ。

 動いてみなければ、話してみなければ伝わらないのだから。怖くても、拒絶されるかもしれなくても本音を伝えなければ、相手の本音はわからない。

 本当の子供でない自分が、両親にきちんと想われていることを知ったのは、本気の気持ちを伝えたからだ。

 そして、それを教えてくれたのは、立ち向かう勇気をくれたのは理々子だった。

「……理々子、さん」

 美織はふらふらと力なく立ち上がる。

「このままじゃ……やだ、からね」

 

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