雨の音。
霧のような雨が街頭に照らされ、神秘的な雰囲気を作る夜。
車が水を弾く音や、種々の小さな音すら幻想的に聞こえる夜。
その中を小さなレースのついた折り畳み傘を差して歩く女性がいた。
薄い青色のカットソーに黒のスカート。その上に白いコートを着込んだその女性、川里理々子は左腕につけている時計を見つめ
「……はぁ」
ため息をつく。
時計はすでに日付を越えており、明日……いや、今日が土曜日であることを差し引いても晴れやかな気分になれるはずもなかった。
本来同年代と比較して美人であるであろうその顔にも疲労の色は隠せず、そういう自覚が理々子をさらに落ち込ませる。
(……帰ったら、洗濯……は、もう無理だから……ご飯、確か、冷凍のが残ってたわよね。それと、冷凍食品の野菜と、からあげがあったっけ? それで……)
今日これからの予定と、明日何ができるかを考えながら帰路を行く理々子は、ふと視線を上げる。
そこには先ほども見た街頭に照らされる霧雨。どこか現実感を喪失させてくれる光景。
「…………つめた」
それに触発をされたのかふとかさを傾け、雨を体に受ける。
意味のあった行動ではない。ただ、ふとそうしてしまった。そのつもりがあったわけではないが冷たい雨が現実感を呼び戻させ、理々子はまたため息をついて歩きだした。
「はぁ……」
それからはさすがに一度も傘をはずすなどというバカなことをせずに、自宅、どこにでもありそうなレンガ色の壁をしたマンションにたどり着くとまたため息をついてしまった。
入り口なせいか少しは凝られた三角屋根の玄関口を通り、階段で三階まで上がった理々子はあとは階段から廊下に出て一番奥の自分の部屋に行けばいいというところで足を止める。
「…………………」
自分の目を疑う光景。というほどではないが、妙な光景がそこにはあった。
理々子の部屋の前に雪色のコートに身を包んだ少女が座り込んでいた。
思わず、外を見つめここが自分の部屋がある階だということを確認する。
今度は遠目にその少女を見つめる。
多少距離があることもあり詳しくはわからないが見たところ、高校生程度といったところだろうか。
コートの下は制服などでなく普段着のようだが、普通に考えればやはり高校生だろう。顔までは詳しくわからないが、どこか思いつめたような雰囲気を持っていた。
「…………」
その少女が誰かはわからない。こんな深夜といっていい時間に部屋の前にいれば不気味とも思える。
しかし、彼女のところまで行かねば部屋へと帰れない上に、こんな時間にとても住人とは思えない少女がいれば気にならないはずはなかった。
電灯に照らされた廊下を歩いていくと、すぐに気づくかと思った少女は足音に反応を示さず
「あ……」
理々子が目の前に来るとやっと視線を理々子のほうへ向けた。
(やっぱり、若い)
高校生程度と思ったが、美人というよりも可愛いと評するほうが適切な中学生といってもよさそうな顔立ちだった。
「……あなた、こんなところでどうしたの? この部屋に何か用?」
不気味というよりはその幼さに心配となった理々子は少し前かがみになりながらそう問いかけた。
「……おねーさんがこの部屋の人?」
見た目どおりの高い声で表情を崩さず少女は問い返す。
「そうよ」
「……そう、なんだ」
「それで、あなたは誰? どうしたの?」
「…………………あ、と……昔、その知ってる人がこの部屋に住んでて……えっと……」
(……昔?)
歯切れ悪く答える少女のその言葉がひっかかって理々子はもう一度少女を観察することにした。
歳はさっき思ったような程度で間違いないだろう、気になる点はいくつもあるが……もっとも気になるのは第一印象で思った思いつめたような雰囲気だ。
それに手ぶらな所も気になる。今の雨は、夜になってから降り始めたものだが、降り始めてから外に出たのであれば傘を持っていて普通のはずだ。それがないというのはそれ以前に、家だか学校だかは知らないが外に出てきたのだろう。そして、一度も帰ってはいない。
そして、【昔】という表現。
「……おねーさんがここに住んでるのなら、もう引っ越しちゃったってことかな……じゃ、じゃあ私も帰ります、ね」
(……っっと)
思案している間に少女の【言い訳】は終わったらしい。
「……待ちなさい」
決断は早かった。理々子は背を向けようとする少女を呼び止める。
「帰れるの?」
二重の意味を持つ言葉。
「もう電車もないし。それに外は雨降ってるわよ」
それから片方の意味に対し言葉を続ける。
「あ……」
少女の沈黙は理々子の疑念を確信に変えるものだった。
「……今日、泊まって行く?」
どうして少女がここにいるか検討ついた理々子はそう提案するのだった。
「適当に座って」
六畳ほどの部屋の落ち着いた雰囲気の部屋に謎の少女を招いた理々子はコートを脱ぎながら、少女にそう告げた。
「…………」
半ば強引にここにつれてこられた少女は居心地の悪さと不安に駆られながら、視線だけを動かして部屋を眺めていた。
まず誰もが目を奪われるであろう少女の身長をはるかに超えた大きな本棚にそこに整然と詰め込まれた書籍。それを覗けば若い女性の部屋としては変哲もないものだが、その本棚があるだけで理々子がどのような人間かは想像が出来る。
「とりあえず名前くらいは聞いてもいい? あ、私は川里理々子よ」
理々子は少し濡れてしまったコートを窓際へかけると少女の前に立ってそう問いかける。
少女は理々子のほうは見ながらも顔は見つめられずにしばし沈黙を保つ。
「…………美織」
そして、ポツリと名前だけを呟いた。
「そう、美織……ね」
ファーストネームしか口にしなかった理由を察する理々子は確認するように少女の、美織の名を呼ぶ。
「体、冷えてるでしょ? とりあえず何か暖かいものでも淹れるわ。ちょっと待ってて」
本来はお風呂でもどうかとも言いたくもあったが、見ず知らずの相手の部屋でしかも初対面でそれをさせるのは相手に悪い。
理々子はそんなことを思いながら、有限実行をするため部屋を出てキッチンへと向かった。
最初に通された部屋に残された美織は、小さなテーブルの前に座って今度は今いる部屋だけでなくこの理々子の家全体を推察する。
今いる部屋こそ、人が一人暮らすのがやっとというところだが部屋は他にもあるようだ。理々子の若さからすれば、分不相応な大きさといえるかもしれない。
(……家賃とか、いくらくらいなんだろう……)
あまり美織の年としてふさわしくないことを考えるがその思考も理々子が戻ってきたことで中断される。
「どうぞ」
理々子が持ってきたのはホットココアだった。
水色のカップから湯気が立ち上甘い香りが部屋に立ち込める。
「ありが、とう、ございます」
少し熱いくらいのカップを両手で持った美織はすぐには口をつけず手を温めるかのようにしてから一口飲んだ。
「……ふぅ」
無意識に安堵の吐息を漏らす美織を理々子は目を細めながら見つめていた。
「おいしい?」
「あ、はい……」
「そう、よかった」
理々子は必要以上に言葉を発しない。
本来なら聞くべき事は山ほどあるはずだが、理々子はそれを自分ではあまり切り出したくなかった。
「…………」
しばらくの間理々子は自分の冷えた体を暖めながら美織と美織に付随することに関し思考をめぐらせていた。
「……あの」
「ん?」
そうしていると、ココアを飲み終えてしまったのか、沈黙に耐え切れなくなったのか、美織が口を開く。
「何も、聞かないんですか?」
「聞いて欲しい?」
少しいじわるな言い方をしているのはわかっている。それでもあえてそういったのはただのいじわるでなく、こちらがある程度わかっているつもりだということを美織に知らせるためでもあった。
「……………」
美織はそれに気づいたのか、それとも別の理由か口を一文字に結んだまま俯いてしまった。
「……とりあえず、今日はこの部屋使って。私は別のところで寝るから」
考える時間が必要だと思った理々子はそれだけを言うと立ち上がって着替えなど身の回りのものを整理し始めた。
「………ありが、とう」
その背中に美織から迷いを含んだ声を受け理々子は、自分の意図が伝わったのだなとその部屋を後にするのだった。