風の音。

 寒さも和らいで、肌を打つその風はどこか冷たさというよりも心地よさを感じさせるもので、理々子は満月に照らされる夜を一人歩いていた。

 ビュウウ。

 季節が移ろうとしているこの時期には強い風が吹く。

 季節の変わり目を感じさせるものは人それぞれ違うかもしれないが、理々子の場合この風が一番季節の変わり目を感じさせるものだった。

「……もう春かぁ」

 理々子は季節の変わり目が嫌いだった。これから向かう春という季節が嫌いなわけではない。

 春から夏に変わる、生ぬるい風。夏から秋へ変わる、涼やかな風。秋から冬へと変わる、冷たい風。冬から春へと変わる暖かな風。

 そのどれもが理々子は嫌いだった。

 季節ではなく、変わってしまったことが嫌だった。

 何かしなければいけないことがある気がするのに、何も変わらない日々を繰り返して一つの季節が終わってしまう。

 なぜかむしょうに焦燥感が湧き上がってくるのに、いつしかそれは日々の中に消えて、また違う風にそれを思い出さされる。

 いつからこんなことを思い始めたのかはっきりとは覚えていないが、もう十年もこんなことを思い続けている気がする。

 けれど、それはいつも思うだけ。

 何かしなければ、何かしたいのにと思うだけの自分。

 何かをするほど積極的にもなれなければ、その勇気もない自分。たぶん、程度の大小はあれこんなことは誰にもあるんだろうと自分を納得させて、割り切ろうとしてしまう自分。

 そんな嫌なことばかりを思わせてくれるのが理々子にとっての季節の変わり目というものだった。

 これまでは。

 だけど

「ふふーん♪」

 この風は違う。この春は違う。

 理々子は抑えきれない嬉しさを漏らしながらいつもより早足になっているのを感じていた。

 冬の寂しさを耐え、春の女神の祝福を受けたかのような風に押されて理々子はまた寂しいばかりだった家を目指している。

 そう、寂しいばかり【だった】家を。

 三角屋根の玄関口をくぐり、オートロックの解除をする暗証番号をもどかしげに押して階段を上っていった。

 そして、最後の廊下を小走りに過ぎていって鍵を開けると

「ただいまー」

 ドアを開けるのと同時に理々子は、まるで小学生が家に帰って来たときのように元気よく言っていた。

 一人では決していえない言葉を。

 そして、その声に応えるようにパタパタと玄関へ向かうスリッパの音が聞こえて

「おかえりー」

 と、エプロン姿の美織が姿を現すのだった。


「家出して来ちゃった」

 冬の終わりが近づいてきた、ある日。唐突に美織の部屋を訪れた美織はそんなことを言ってきた。

 それを聞いたときには驚いたものだ。

 理々子は動転しながらも、ダイニングで美織の持ってきてくれたケーキに久しぶりにだした美織用のカップに紅茶を注ぎながらわけを聞いたところ、そのまんまの意味じゃなくまずは安心した。

「じゃあ、どうしてそんな言い方したの?」

「……うん」

 美織は一時期、毎日使っていたカップの縁を指でなぞり心なしか嬉しそうな顔をしながら、歯切れ悪く応えた。

「美織?」

 実際はこの日、ただ、普通に家族にも知らせて出てきたということを聞いている理々子だったがその表情にはあまり元気がなく心配そうに名前を呼ぶ。

「……………」

 薄い湯気が立ち上るカップの縁をなでては美織は悩みというよりも、踏ん切りがつかないといった表情を紅茶に映していた。

「……………」

 理々子はそんな美織へと手を伸ばすと

「っ!? な、なに?」

 やさしく頭をなでていた。

 ふんわりとした髪がわずかに沈み、ついで髪が乱れない程度に前後へとゆすった。

「んー、なんとなくね。久しぶりだしこういうの」

「あ、頭をなでられたことはないんだけど」

「そうだった?」

「そうだよぉ」

「まぁ、いいじゃない。久しぶりなんだから」

「も、もぅ」

 口ではまるでそれを疎ましがっているように言う美織だったが、久しぶりに感じる理々子のぬくもりは記憶の中と変わらずにやさしくて、暖かくて、今日ここに来た決意を固めるものだった。

「あの、理々子さん」

 理々子のなでなでが終わると美織は少し強い口調で切り出した。

「戻ってきたいって言ったら、迷惑、だよね」

「…………」

 美織がまだ完全には固めきれていない、揺れていることが丸わかりな言葉に理々子の笑顔は一気に消えうせた。

 それは、決して迷惑だからではない。

 ただ、

「理由を聞いてもいいかしら?」

 美織よりも大人な部分が冷静にそう聞いていた。

「あ、あのね。あの家が嫌なわけじゃないの」

「じゃあ、どうして?」

「……ちゃんと、両親とは話を聞いたし、茜にだって本当のお姉ちゃんじゃないって話した。それでも茜はお姉ちゃんって呼んでくれるし、学校だってすごく久しぶりに行って、友達もすごく心配してくれてて嬉しかった」

 美織が嘘を言っていないことは美織を見ればわかる。美織の言葉には後ろめたい感情が乗っているようには思えなかった。

 一時期は一緒に住んでいたのだ。そのくらいは見抜いてみせる。

「でも、ね。やっぱり、違うって思っちゃうんだ。【ずれてる】のは治らなかった。なんか違うって思っちゃう。私は、誰って思っちゃう。あそこにいるとそうやって思っちゃうんだ」

 一緒に住んでいたころには感じた美織だけが纏う空気。ずれていることを体験していない人間にはわからない、すなわち理々子には完全にはわかりようのない感覚を美織から伝えられている。

「…………」

 そんな感覚を前に理々子は立ち竦む。

 自分だけのことを考えるのなら美織が戻って来てくれることは大歓迎だった。前のように家事をしてくれることの実質的な見返りや、ただいまといえる相手ができることの精神的な充実も理々子が求めているものではあった。

 しかし、やはり理々子は思う。

 今はまだそのずれている場所が美織の場所ではないのかと。

 そのずれているというのは、まだ戸惑っているだけなのだと思う。今はまだ整理をしきれていないが、その感覚はきっとそう遠くないうちに元に戻るような気が、経験をしていない、また美織の心をすべてわかるわけでもない理々子はそんな気をさせていた。

 それは理々子が自分で嫌う、大人の感覚なのかもしれないが。

「じゃあ、一つ聞かせて」

 それを自覚して反発するものまた理々子の中の大人という感覚がさせていた。

「ここに来てどうするの? 何をするつもり? また私の世話をするだけだっていうなら……」

 ここには置けないと続けようとした理々子だったが、美織のさっきよりもブレの少ない言葉にさえぎられた。

「私、理々子さんみたいになりたい」

「っ?」

「大学行って、勉強して、ちゃんと就職して……理々子さんみたいな素敵な女の人にになりたいの」

 どこまでが考えられた言葉なのかはわからない。だが、それは漠然としている上に、どこか矛盾しているようにも思えた。

「大学のお金は、出してくれるって、話はしてあるの。そ、それでね。私ここでならがんばれるって思うの。もちろん、今のままがんばるのが一番いいんだろうけど、でもあそこにいたら、色々考えちゃうって思うから」

「……今の学校はどうするの? ここからじゃ通えないでしょ?」

「……もし、理々子さんがいいって言ってくれるなら、やめる」

「それも、ご両親に話してあるの?」

「うん……いいって言ってくれた」

「そう」

 正直言って、困っているといえば困っている。美織と両親の間にどんな話があったのかはわからない。

 どうせ理々子が断ると思って、ここへの未練を断たせるために美織の話をのんだのか。それとも、美織は本当に今の場所を嫌がる……いや、今を集中できなくてここに来るのがいいと判断したのか。

 どちらにせよ、美織からすればあまりにずうずうしいことをお願いしているということは自分でわかっているだろう。

 それを美織はわかって言ってきている。

(…………)

 理々子は少し目を細めて美織の姿を改めて見つめなおした。想いの天秤に揺らされながらもそこに芯を通そうとしている美織を。

「お、お金ならね、ちゃんとアルバイトとかもして」

「だめ」

「っ!!」

 一瞬、美織が泣きそうな顔をする。

「アルバイトなんていい。大学受けるっていうんならちゃんと勉強しなさい」

「え!?」

「代わりに前みたいに家事はやってね。何もしてないと逆に集中できなくなっちゃいそうだし」

「あ、あの、理々子さん?」

 言われていることはわかっているであろうが、美織はその意味を理解しきれず

「……おかえりなさい。美織」

 久しぶりに聞いた【姉】の一言に

「た、ただいま。理々子さん」

 自分の望が叶ったことを知るのだった。

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