望は沙羅に憧れのようなものを持っていた。
望から見た沙羅はいつも強くて、しっかりと自分を持っていて、自分にはできないことを簡単にやってのける。
かっこいいとも思っていたし、感謝もしていた。
だから、もし沙羅が何かを抱えているのなら力になってあげたいと思うのは望からすれば自然なことだった。
その自然なことが結果的に沙羅との決定的な決別に繋がっていくが、そんなこと今はわかるはずもなくただ沙羅のためと思っていた。
あの日、沙羅が泣いているのを見て以来望は沙羅を付回していた。言い方は悪いが、おそらく沙羅はまともに聞いても話してくれないと感じていたのでそうすることが一番だと望は考えた。
四六時中沙羅を監視しているわけではないが、大抵のときは目で追うようにしていた。
「あ、望」
そんな日が数日続いたある日、一緒に昼食を取っていたら沙羅が思い出したようにいって来る。
「なぁに?」
「この前、また仕事押し付けられたんでしょ? 先生から聞いたけど」
「あ、えと……」
机をくっつけてお弁当を食べている望は少し気まずそうに箸をくわえてしまう。
「ったく、ちゃんとはっきり言わなきゃだめっていってんでしょ。しっかりしなさいよ」
「うん……でも」
「でも、じゃない。望がそんなんだから向こうがつけあがるのよ」
「…………」
望はこういう時なかなか頷けない。沙羅の言っていることは間違っていない、というよりもおそらく正しいのだと望も思っている。
しかし、そう思っても望には沙羅のいうようなことは出来ない。性格上、人に敵意のようなものを持てないのだ。
だからこそ望は一層そうしたことがはっきりいえる沙羅をすごいと思っていた。
「ま、とりあえず今回も適当に言っておくけど、ほんとたまには言わなきゃだめよ?」
「……うん、ごめんね」
「私に謝っても仕方ないでしょ。そう思うなら少しは自覚を持ちなさい」
ほんと、沙羅は強い。こんなことはっきりいえて。
強いんだって、すごいんだって、思っていた。
しかし、沙羅も自分と同い年でその年頃の強さなどたかが知れていると望は知ることになる。
沙羅と望は仲はいいが、いつも一緒に帰ったりしているわけではない。
沙羅が何かを抱えているということを知って、力になりたいと思ってもいつもいつも沙羅を付回しているわけじゃない。
だから、こうなることは偶然であり運命だったのかもしれない。
「あーあ……」
この日、望は下校時間になるとすぐに寮へと帰り明日の予習をしていた。
しかし、いざやろうとしたときに教科書を教室に忘れてきたことに気づいて取りに戻っていた。
すぐそこに校舎があるのだからそんなに面倒というわけではないのだが、一度プライベートな空間に戻ってからまた学校に行くというのはいい気分はしない。
そんなわけで望は気だるい気分の中、教室に向かっていっていた。
「……?」
静まった校舎の中を歩きながら教室が近づくとそこから聞き覚えのある音が聞こえてくる。
コトン、と机が床に置かれる音。
その音をいつ聞くのかといえばそれは普通は掃除のときだ。
放課後に聞くことではない。
まして、それなりに時間は立っている。ちょっと掃除が遅くなったとはいえない時間だ。
もっとも、望の場合は放課後にその音を出す張本人であったが今は教室掃除の当番ではない。
「えっ……!?」
一体何なんだろうって思いながら教室を覗いた望はその光景に衝撃を受けた。
シーンと静まり返った教室の中、最後の一つの机を運んでいた人物は………
「沙羅……?」
いつかのように教室の窓から沙羅を見つめる望。
(どうして、沙羅が……)
まったくわからない。何故沙羅がこんな時間に一人で机を運んでいたのだろう。一人の掃除をしていたのだろうか。だとしたらどうして。
次々と疑問が浮いてくるが答えは望の中から出てくるものではない。
望はただわけのわからぬまま教室に入っていこうとする。
ガラっと、教室のドアを開けた瞬間
「っ!!?」
望に向けられる鋭い沙羅の視線。
「っ!!!??」
望はもちろん、それには驚いた。驚いたが、それ以上に望が眼を疑った、のは……
「沙羅……?」
沙羅の瞳が潤んでいたからだ。まるで涙をこらえているかのように。
「望……」
沙羅はもちろん自分が泣いてしまいそうなことは自覚していた。そこにやってきた望に沙羅は何故か悔しそうな顔をする。
見られてはいけないものを見られたという顔だ。
「さ、沙羅、ど、どうしたの……?」
望はどうして沙羅が泣いているのかわからずに沙羅が整頓したであろう机の合間をぬって沙羅の前にたどり着いた。
「……こないで」
「え?」
小さく沙羅がいった言葉を望は聞き取れず沙羅の目の前へと迫っていく。
「来ないで!」
「っ!? 沙羅?」
沙羅の叫びに思わず足を止める。
(っ……この、表情)
足を止め、沙羅を見つめた望は今の沙羅に見覚えがあった事に気づく。
それは以前、やはり一人で教室にいた沙羅を見かけたときだった。
悲哀を含みながら激怒し、やはり悔しそうに泣いている顔。
「……ねぇ、沙羅」
足を止めた望は今自分が望んでいた場所にいることに気づいた。沙羅の力になれる場所に。
「…………」
「どうして、一人でいたの……? 一人で、掃除、してたの……」
「っ……」
沙羅は答える代わり唇をかみ締め、イエスと答える。
ついで、
「っ!!」
沙羅の頬に涙が流れ、沙羅は自分でも信じられないといった顔をした後に、居心地悪そうに望から顔をそらした。
「…………見ないで、望。」
「…………」
(えと……えっと……)
望にはまだ状況が把握できていない。望にわかっているのはおそらく何故か沙羅が一人で教室の掃除をしていたということだけだ。
しかし、どうしてそんなことをし、今自分で目の前でまるで別人のように不安そうにしているのかまるでわからなかった。
今の沙羅は望の知っている沙羅からは想像できない姿で、理由を探そうとしても答えにはたどり着いていかない。
ただ
「…………それじゃ」
「待って!!」
逃げるように、いや逃げようとする沙羅を引き止めることだけはできた。
反射的に沙羅の腕を掴んでいた望は引き寄せはしないものの必死に沙羅を止めようとする。
「……離してよ」
「やだ」
気が弱い望にしてははっきりとした意志を持った言葉だった。
それに沙羅はまた悔しそうに唇を噛む。
「ね、ねぇ……どうして、一人でしてたの? してたんだよね? 一人で掃除」
「………見れば、わかるでしょ」
「だ、だから、どうして、なの?」
「……………」
沙羅は答えてくれなかった。涙がこぼれそうになるのを必死に抑えながらその気になれば振りほどくこともできる望の言葉を聞くだけ。
(……沙羅)
沙羅を引きとめながら望は答えてくれない理由を考えていた。
沙羅が一人で掃除をしなければならない理由。沙羅がということを抜かせば、まず望が思いつくのは、自分のことだ。いじめというわけではないが人の良さを利用され、押し付けられてしまったこと。しかし、正義感が強く、物事をはっきり言える沙羅にそんなことが……
(……沙羅)
しかし、沙羅が泣いていることが気になった。それも悔しそうに泣いているということが。
(まさか……)
「沙羅、あの……」
「……………なん、でよ」
望の声に何か感付いたようなものが含まれていることを察したのか、沙羅は心がひねりつぶされそうになりながら苦しげな声をだした。
「……なんで、こうなるのよ」
「…………」
その物言いに望は自分の予感が正しかったと確信する。
「何で私がこんな惨めな思いをしなきゃいけないの!? 悪いのは向こうじゃない!」
「……みんな、帰っちゃったの……」
「……だから、私一人しかいないんでしょ」
「沙羅……」
思わず沙羅を握る手に力を込める。引き止めるためじゃなく、慈しむように。
ポツリ、ポツリと話してくれたことではこうらしい。
はじめは二、三人が掃除をしないで帰ってた。それを沙羅が厳しく注意した。だけど、それで出て来るどころか、そのサボっていた相手は沙羅が気に食わなかったらしく周りを巻き込み始めた。
そして、今に至る。
帰ってしまった人間の大半は沙羅に含むところがあったわけではないだろう。しかし、こういう状況では流されるほうが楽なのだ。
「いつもこう……」
いつの間にか二人で机の上に座っていた沙羅は震える声を発する。
「……気づくと、一人になってる。私は……私が何、したっていうのよ……私は正しいことをした、じゃない。悪いのは、サボってる向こうじゃない。なのに、なんで私がこんな気持ちにならなきゃいけないの!? おかしいでしょ、こんなの!」
「…………沙羅」
望は何もいえなかった。行為そのものは望と同じなのに、立場は全然違っており、沙羅の気持ちを汲むことは容易にできることではなく、また沙羅のこんな弱音を吐く姿に望はたじろいでいた。
「…………本当は、裏で陰口叩かれてるのだって、知ってる」
「っ!!?」
「いつもいい子面して調子乗ってるとか、何様だとか……言われてるんでしょ、私」
「………ぁ、えと……」
望は居心地悪そうに目を瞬かせる。
聞こえてきてしまう。集団生活をしていれば、聞きたくもない雑音は意識せずとも聞こえてきてしまうものだ。
望も沙羅がそんな風に言われていることを知っていた。
「ふふ、望も実はそんな風に思ってたりして」
沙羅からすれば落ち込んだ心が思わず発した自虐的な台詞だったが
「っ! 沙羅!!」
望はそれに本気で怒って返した。
「……っ。冗談よ……ごめん」
自分とは全然異なった理由で目を潤ませている友人に沙羅は驚くと共に、情けなくなった。
「……………」
それから一分ほど二人の間で会話が止まる。
望はどうにかして沙羅の力になりたいと考えつつも、それが見つからず、沙羅は、初めて弱味を見せてしまったことと自分の馬鹿な冗談を後悔していた。
「…………ふ、ふふ……、なんか、疲れちゃった」
「さ、ら?」
「小さいころから、ずっと【戦ってきた】けど、いつもこうなっちゃう。一人になって、孤立して、悔しくて……悲しくて、むなしくて……」
望に見られたということが元々緩んでいた心のタガをはずしたのか沙羅はずっと心に溜め込んでいたものを徐々にもらしはじめた。
「結局さ、無駄なのよね……あんまり自分で言いたくないけどさ、私は頑張ってきたわよ? いつも理不尽なことには立ち向かってきたし、相手が誰かだって関係なかった。面と向かって敵意向けられたりしたこともあったけど、私は正しいことをしてるって思ってるから誰かに認められなくてもやってこれた。別に、認められたいわけじゃないけど……でもなんでこうなるの!? 認められたいわけじゃないけど、なんでこうならなきゃいけないの! 私が悪いの!? おかしいじゃないこんなの!! ……おかしいわよ……」
淡々と語りつつも、後半には張り裂けそうに声を荒げ、最後には張っていた虚勢から本音を漏らしていた。
「……もうやだ」
悔しそうにそういう沙羅を見て、望は今の沙羅が突発的なものでなくずっと抱えていたものだということをなんとなく察した。
「……だって、何にもならない。何にもならなかった……かっこわるいだけ……」
同じことを繰り返す沙羅の手を望は優しく包み込む。
「何にもならないなんてこと、ないよ」
おそらくずっと抱えていたのだとわかっている望は軽々しく言っていいのかと不安になりながらも、自分の中にある確かな思いを伝えた。
「……いいよ。慰めてくれなくても」
「そんなことない!」
「っ」
「そんなこと、ないよ」
ぎゅっと沙羅の手を握る手に力を込めた望はこちらを見てくれない沙羅をまっすぐに見つめる。
「だって、そのおかげで沙羅と友達になれたんだもん」
「…………」
「沙羅は……私と友達になれたのだって、無駄だってっていうの? 私って、沙羅にとってその程度?」
「それは……、そんなこと、ない、けど……」
言葉の通り望をその程度だなんて思ってはいない。しかし、今の沙羅は自分の抱えているものが重過ぎて友達の望にすらはっきりとしたことが返せなかった。
「それに、かっこわるくなんかないよ」
「かっこわるい、惨めよ……」
「ううん! そんなことない、かっこいいよ! 私にとって沙羅はいつでも、かっこいいもん」
「ふ、ふふ……じゃあ、幻滅じゃないの。こんな、ところ……」
「ううん……それでも、沙羅はかっこわるくなんかない」
「…………」
沙羅が自分を否定しては、望がそれを否定する。
そんなやり取りをしていくうちにいつしか、沙羅は口を閉ざしてしまった。
「ね、沙羅」
望は机から降りるとそんな沙羅の正面にまわりあくまでこちらを見ようとしていなかった沙羅の視界に入る。
「沙羅は、強くて、かっこいいけど……私たち、友達だよ。一人で抱え込まないで欲しい、な。頼りないかもしないけど、沙羅が困ってたら私だって、力になりたいよ」
「っ…………」
「ね、だから。沙羅、私も力になるから、自分のことそんな風に言わないで。一人なんじゃないから」
単純な、友達として当たり前だが、中々いうことの出来ないまっすぐな言葉に沙羅は
「っ!」
望の手を振りほどいた。
「あ………」
(沙羅……)
それに望は心が離れてしまうような寂しさを覚えたが
「……もう、帰る、わ」
「…………沙羅」
自分の思いが届かなかったのだと、さきほどまで沙羅のぬくもりがあった手を悲しく見つめるが
「……望」
「え?」
「……今日は、ごめ……ううん、ありがとう」
「沙羅……」
そう言って去っていく沙羅に少しだけ望は心を軽くするのだった。