人って不便だ。

 英単語も、歴史の年表も、数学の公式もすぐ忘れちゃうくせに、覚えようともしないのにいつまでも頭の中から離れてくれないだってある。

 そのくせ忘れようとしても全然忘れられなくて、そのせいで眠れずに朝を迎えちゃうことだって、たまにはあるんだから。

(うぅ……ねむいよぉ)

 朝、青葉が翳りを見せ始めた通学路を私、白雪撫子はしょぼしょぼする目を擦りながら歩いている。

「ふぁ、あ」

 大きなあくびもでちゃいそうだけど、年頃の女の子としてはそんなこと恥ずかしくてせめて口を手で押さえた。

(……テスト前なのに……)

 今年人生はじめての受験を迎える私にとっては、二学期の中間テストを前に今の不調に不安を覚える。

 でも、私が本当に気にしちゃうのはテストとかそんなことじゃなくて

(………………どうしよう)

 今日これから学校であう二人のこと。

 昨日、あ、あんなことをしてるところを覗いちゃった二人のこと。

(………葉月ちゃん……藍里ちゃん)

 それが昨日見た二人の名前。

 正確には赤坂葉月ちゃんと、実原藍里ちゃん。

 私が二人と仲良くなったのは今の学校になってからだけど、二人は幼馴染で幼稚園からずっと一緒だったらしい。

 だから本当に仲がいいなぁって思ってた。表面上は喧嘩みたいなのをしたりもするけど、お互いのことすごくよくわかってて、いつも相手のことを考えるような二人で、私も小学校からのお友達はいるけど、葉月ちゃんと藍里ちゃんみたいになんでも分かり合えるのかっていうとちょっと違うって思う。

 でも……

 でも……………

 でも………………………

(あんな、ことするなんて)

 校門が見えてきたところで私は、足を止めた。

 昨日から忘れよう、忘れようって思ってることがまた頭に入ってきたから。

 瞳と心に焼きついたあの【光景】が。

 私の世界を変えたあの光景が。

 強く抱き合う二人。触れ合う唇。絡めあう舌先。情熱的に見つめあう瞳。

「………………」

 思い出すとまだドキドキする。すごく、ドキドキする。

 だって、あんなの初めてだったから。あんな風にキスをするところを見るなんて、初めて、だったから。

 私は、キ、キス……なんて考えたこともない。人を好きになったことはあるけど、その時はキスなんて考えたこともなかった。

 今まで私の世界はキスっていうのはすごく遠いもので、全然現実感があるものじゃなかったのに。

 なのに………

 少しのきっかけでまたあの光景。

 それを思い浮かべるだけ体が熱くなっちゃって、頭がぼーっとするほどで、昨日はこんなことを繰り返しちゃってほとんど眠れなかった。

(……どういう風に話したら、いいんだろう)

 それと、これも眠れなくさせた原因。学校に行けば、葉月ちゃんとも藍里ちゃんとも絶対に会う。昨日、私のことはばれてないと思うけど、私は二人がキスをするのを見てて、【そういう】関係だって知っちゃってて、だから、どうすればいいのかわからなくて……

(葉月ちゃん……藍里ちゃん……)

「……でしこ」

(どうしたら、いいんだろう)

「おーい?」

(……今までとおんなじになんて、できるのかな……)

 だってもう私は二人のこと知ってる、のに……今までと同じ、なんて。

「……ふん」

「きゃ!!?」

 急にぐらって視界が変わって、私はびっくりして声をあげた。

 肩くらいから胸にかけて小さく編んでいる二つの三つ編みを引っ張れたっていうのはすぐにわかって、それをしてくる人も限られているから誰かっていうのも私はわかって反射的に

「も、もう、やめてよぉ。藍里ちゃん……」

 その相手の名前を呼んで思わず固まっちゃった。

「おはよ、撫子」

「おはよ。相変わらず朝から抜けてるわね」

「あ、……う」

 そこに、いたのは………

「お、おは、よう。葉月ちゃん、藍里、ちゃん」

 昨日の二人だったから。

 私よりもちょっとだけ背の高くて、ショートカットの髪に青い髪留めをしてるのが、葉月ちゃん。

 私より全然背の小さくて、腰まで届くほどの髪を赤いリボンでまとめているのが、藍里ちゃん。

 ついでに言うと今髪を引っ張って、ちょっといじわるな挨拶をしてきたのも藍里ちゃん。こうやってたまにちょっとだけ意地悪なことをするの。

 対照的に葉月ちゃんは藍里ちゃんのせいで乱れた髪を、三つ編みから背中に垂らしているほうまで整えてくれている。

 でも、今の私には藍里ちゃんのいじわるも、葉月ちゃんの優しさも気にしていられない。

「ん? 撫子、顔が赤いわよ。調子でも悪いの?」

 まず藍里ちゃんがそのことに気づいて

「あ、ほんとだ。熱でもあんじゃない?」

 葉月ちゃんが顔を覗き込んでくると、

(あ………)

 もっと顔が赤くなったって思う。

 だって、近づいてきた葉月ちゃんの唇がどうしても目に入っちゃって、昨日ことがまたフラッシュバックして、

「な、なんでも、ないよ。い、いこ」

 どうにか、顔をそらして歩き出した。

「あ、撫子」

「ふぅ、せっかく心配してあげてるのに」

 二人にすぐに追いつかれちゃうけど、私はとっさに話題をそらすことにした。

「そ、そういえば、今日は、早いんだね」

 いつもこの二人は一緒に来るけど、遅刻ギリギリなことは多い。というよりも遅刻することだってあるのに。

「んー、今日は珍しく藍里がすんなり起きてくれたしね」

「そう、なんだ」

「結構大変なんだよ。起こしに行ってあげても、まだ大丈夫とか言って全然起きないし」

「朝からそんなに元気になれる葉月のほうが変なのよ」

「あ、朝は起きるの、つらいよね」

「そりゃ、わかんないでもないけど、着替えくらいは自分でして欲しいもんだよ」

(着替え……)

 こんな話を聞くのは初めてじゃない。

 家も近い二人。葉月ちゃんがほとんど毎日藍里ちゃんを起こしに行ってあげてるのは知ってるし、そういうこともしてあげてるんだって言うのも知ってた。

 でも……

 また、キスが浮かぶ。

 あれを知っちゃったら、今までとおんなじ風になんて考えられない。葉月ちゃんが、藍里ちゃんの着替えをさせているところの一つ一つが思い浮かんで、やっぱりすごく恥ずかしい気分になる。

「大体髪を梳かしてあげてるのだって、私なんだしそろそろ介護料取った方がいいんじゃないかって気がしてきたよ」

「あ、はは……」

(髪、を………)

 それすらも、特別なことに感じちゃう。ううん、特別なことだよ。髪を他人に任せるって普通じゃできないもん。

 でも、二人は普通じゃなくて。

「ふん、葉月が私のことするなんて当然でしょ。こっちだって普段世話してあげてるんだから。大体、今回のテスト教えてあげなくていいの?」

「う………」

「ま、私のありがたみがわかったのならこれからも殊勝に尽くすことね」

「あー、もう、はいはい」

 会話に入らない私は二人のことを見つめながら歩く。思うと、すごく近い位置にいる気がする。私が仲のいい友達と一緒にいてもここまで近い位置じゃ歩かない。ふと手が触れたりするのが恥ずかしく感じちゃうときもあるから。

 けど、二人はそんなこと気にする様子もない。

(手をつなぐ、くらい普通、なのかな……?)

 二人でいるときにはそんなの当たり前にしてるのかな。

「っていうかさ、週末泊まりに行っていい? なんか勉強って自分の部屋だと集中できないんだよねー」

(っ!?)

 お、泊まり……

 ううん、そんなのは普通だって、知ってる。仲のいい二人で、今までだってよくお泊りするっていうのも聞いてたし、それにお友達の家でお泊りするのは別におかしなことじゃない。

(ない、けどぉ……)

「ふーん、勉強に、ね。まぁ、いいわ」

 含みのある言い方に、聞こえる。ううん、気のせいかもしれない。でも、聞こえちゃう。テスト勉強だけじゃないのかなって思っちゃう。

 だ、だってあんなキスをする二人がお泊りするって……その……あの………

 かぁあああっと今日一番体が熱くなった。

(な、ななななに、考えてるの私!)

 ふ、二人がしてるのはいつもの会話だよ!? いつもこんなこと聞いてたでしょ。今更、変なこと考えるなんて……そ、その……だ、駄目だよ。

 何が駄目なのかわからないけど、駄目だよ。

「ふん!」

「きゃ!!」

 また、グイって視界が揺れた。藍里ちゃんにまた髪を引っ張られたんだってすぐにわかるけど、私は抗議の声を上げることもなくその場で黙り込む。

「ちょっと藍里やめなよ」

「撫子がぼーっとしてるのが悪いの」

 すごく近い位置で話す二人。仲のいい二人。キスをする二人。お泊りする二人。

(だ、め………)

 また顔が熱くなってきちゃう。考えちゃう、ううんそういうことしか考えられない。

「あ、あの……そ、そういえ、ば……よ、用事が、あったの……ご、ごめんね。先、行くね」

 二人とこれ以上、一緒にお話しできる気がしない私は、一瞬でばれるような嘘をついて小走りに学校へと向かって行った。

 

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