せつなには秘密の時間がある。
友達にも、姉であるときなにも、梨奈や夏樹、美優子、涼香にすら秘密の時間。
それは定期的にあるわけではない。
ふとそこを訪れたくなるときがある。
そこはせつなにとって大切な場所。
せつなにとって辛い思い出のつまった場所。
ここにある思い出はそのほとんどが辛いものだ。ここで、二度涼香を諦めた……いや、諦めたわけではない。託したのだ美優子に。
それを初めは後悔した。今だって後悔がないかと問われれば首を横にふる。
しかし、そんな思い出があろうとも、ここはせつなにとっては何より特別なところ。
好きな人に初めてキスされた場所だ。
ほっぺただった。本当に触れたか触れてないかわからないほどわずかなキス。
覚えている。涼香の唇が自分の頬に触れたのを。
そのことだけでもここはせつなにとって特別な場所だった。
屋上に来て何をするわけでもない。
風に吹かれるだけだ。
仲直りをしたことも、キスされたことも、涼香を託したことも、頭をよぎってもそれらを考え込む事はない。
空を見上げて、景色を見つめて、瞳を閉じる。
そうしているのすら長い時間ではない。
五分かそこら、どんなに長くても三十分といたことはない。
何の目的もなくそこで時間を過ごし、気が向いたときに離れる。
意味があるのかないのか自分ではよくわかっていない。
そこから出た後は誰にもそのことを告げず、何事もなかったかのように輪の中に戻っていく。
それがせつなの秘密の時間。
だが、せつなが秘密にしていることが他人にとっても秘密であるとは限らなかった。
「……朝比奈先輩」
私がそれを見たのは偶然でもあったけれど、偶然ではない。
私はこの学校で一番朝比奈先輩のことを見ている。誰よりも朝比奈先輩のことを見つめている自信がある。
だから気づく可能性も私が一番高い。
初めは何をしているのかわからなかった。
ふらふらと屋上を訪れては何もせずに去っていく。いつもいつも付回しているわけではないけれど、すでに何回かそれを見ている。
二人きりになれるチャンスではあるけれど、私はその時に話しかけた事はない。
というよりも話し気にさせてくれなかった。あの朝比奈先輩の背中は。
いくら種島先輩から話を聞こうともすべてがわかったわけではなく、朝比奈先輩にとって特別な場所だということをわからない私は、今はまだ人知れずそこを訪れる朝比奈先輩を見つめることしかできなかった。
「……………」
今日も、私は朝比奈先輩のことを付回していた。
ストーカーといわれればそうかもしれない。
朝、ご飯のとき。学校での休み時間。放課後、夕食、就寝前の時間。
私はあの人のことを追いかけ、その姿を見つめる。
今はただ見つめるだけ。以前のように、無理に話しかけようとはしない。
まだ私も考え中だから。
恋を取るか、自分を取るか。そういうことではなく、朝比奈先輩の力になるにはどうすればいいのか。何が朝比奈先輩のためになるのか。
あの人のことを知らない私に何ができるのか。
……多分、私の中ではある程度答えは出ているのだと思う。
なぜなら私にできることは【何もない】んだから。私がいくらがんばったところで私一人では限界がある。
恋は独りよがりでしてちゃだめなんだ。気持ちを伝えて、そこでおしまいにするつもりはない。
たとえ……想いが通じることがなくとも、好きな人のためにできること。したいこと。それをしなくちゃいけないのだ。
そのために私はまだ知らなきゃいけないことがある。
それを知ったからといって、朝比奈先輩の心に近づけるわけではない。それでも、知らなきゃ前に進めない気がする。
だから私は
コンコン。
この部屋のドアをノックしていた。
朝比奈先輩の部屋のドアを。
どうぞ、という友原先輩の声を受けて部屋に入ると、
「っ!?」
先に反応したのは朝比奈先輩だった。
「っ……」
そして、無言の部屋を出て行く。
入り口近くにいた私のことなんてまるで存在しないかのように。
(…………)
寂しさはもちろん、感じている。けれど、今はその寂しさを胸の内にしまいこんで私は友原先輩の前に立った。
「渚ちゃん……」
テーブルの前に座っていた友原先輩は私を見上げて、小さく名前をつぶやく。その表情は穏やかなものではない。
「……まずは、この前、すみませんでした」
私は座って視線を対等にしたあと、そうして頭を下げた。
「……ううん」
友原先輩の返答は短い。
「私に用、だよね」
「はい」
そう、今会いにきたのは友原先輩だ。友原先輩もそれを感付いていたのか、いつも優しそうな笑顔のある顔を真剣なものへと変えている。
「いくつか、聞きたいことがあります」
「なに、かな?」
「……朝比奈先輩が、たまに屋上にいってる知ってますか?」
私はここで聞きたい事は二つだけ。その一つはこれだ。
「…………」
友原先輩は、多分知らないのだろう。そういう反応をしている。もっとも、この反応はそれだけじゃないっていうことなんだろうけれど。
「ううん。そう、なんだ」
「はい。たまに、それも少しの間だけですけれど」
「ふぅん……せつなのこと、よく見てるんだね」
「…………」
今はこれに関し返答はしない。
テーブルの下に隠した拳を握って、雌伏のときを過ごす。
「もう一つ聞きます」
「何?」
「友原先輩には、その心当たりがありますか?」
「……………」
さっきと同じような反応。自分の中に答えはあるくせにそれを私には伝えようとしないというそういう態度だ。もっともそれは、相手が私だからということではなくそれをいうことが朝比奈先輩の何かにつながるからだろう。
「わかりました」
私は短く答えるとすぐに立ち上がった。
「渚、ちゃん?」
「もう十分です。失礼します」
そうもう十分だ。朝比奈先輩が屋上にいることが友原先輩と関係している。それがわかれば十分。それ以上を私が知る必要はない。
私は立ち上がったまま、友原先輩を見下ろしていて、失礼しますといった割りにその場を動こうとしない。
まだ、ここに来た目的の半分しか達していないのだから。
すぅ、っと深く息を吸った。それは深呼吸とかそういうものではなく、
「私、朝比奈先輩が好きです」
決意を固める癖みたいなものだった。
「……………うん」
多くは答えない。ただ、私から視線を外す事はなかった。
「あなたが朝比奈先輩を好きって思う以上に、私はあの人のことが好きです」
私も友原先輩をまっすぐに見下ろしたままはっきりと私も気持ちを伝えた。
視線が交差する。
私は体ごとこわばった表情のまま、友原先輩は私の気持ちを受け止めるかのようなそんな私には届かない表情をしていた。
「それだけです。では」
「……うん」
今度こそ身を翻した私は、少しだけ早足に出て行って
「……ふぅ」
閉めたドアの前で息を吐く。
「ふふ……」
そして、開いた拳に汗が滲んでいるのを他人事にように感じ笑ってしまった。
(【宣戦布告】は終わり)
もう後には引かない。
私は萎縮しようとする心にそう激を飛ばしてその場を後にしていった。