陽がほとんど沈んで、門限もぎりぎりになる頃。
「……ただいま」
控えめにドアが開いて、運動服姿の夏樹ちゃんが帰ってくる。
「………………」
テーブルの前にいた私は夏樹ちゃんが帰ってきても、まるで聞こえなかったみたいにそのまま明日の予習に取り組んでいた。
「ただいま……」
夏樹ちゃんは鞄なんかの荷物をベッド脇に置くと、もう一回私にそう言ってきた。
はじめ、部屋に入ってきたときに言ったのが聞こえてなかったって思ったわけじゃない。私が聞こえてたのを無視したことがわかってそう言ってきた。
「…………」
だけど、私はまたそれを無視して目の前に集中するふりをする。
「…………」
少しの間夏樹ちゃんは私のおかえりっていう台詞を待ったけど、それがないのはわかっていてすぐに部活動のせいで汚れた運動着を脱いで、部屋着に着替えた。
それから、私から少し距離をとったところに座って、控えめに私を見つめる。
それをわかるっていうのは私が夏樹ちゃんのことを気にしているっていうことだけど、私はそれを隠して明日の予習を続けた。
「……ん……」
しばらくすると、区切りの良いところまで終わって少し体を伸ばす。
「あ、あの、梨奈……」
すると夏樹ちゃんは私が空くのを待っていたみたいに声をかけてくる。
「あのさ、ちょっと話したいんだけど……」
「…………」
「っ、梨奈……」
話しかけてきた夏樹ちゃんに冷たい視線を送ると、夏樹ちゃんはそれだけでひるんだように話を続けるのすらやめてしまった。
「…………」
それがまた私の激情を誘って私は、ふんと不満げに息を吐くと立ち上がって部屋から出て行った。
「……夏樹ちゃんのいくじなし」
閉めたドアに背中を預けて小さくそう呟く私は、
(…………バカ)
今度は、夏樹ちゃんと私自身にそう心で呟いて行くあてもないのに寮の中を歩きだして行った。
私は夏樹ちゃんが好きだ。
それは、小さいころからそうだったし、私たちはいつのまにか一緒にいるのが自然になっていてこの学院に決めたのだって、それが全部じゃないけどもっと夏樹ちゃんと一緒の時間が欲しかったからっていうのは確かにある。
夏樹ちゃんもそう思ってるって私は信じてるし、だから、寮で同じ部屋になれたときは夢みたいに嬉しかった。
「わぁ……」
「へぇ……」
三月の終わりも差し迫った頃。
期待と不安にドキドキする胸で扉を開けた私たちは同時に息を漏らす。
ベッドと、タンスと、テーブル。まだ最低限のものしか置かれていない生活感のないまっさらな部屋。
これが、今日から私たちが三年間を過ごす部屋。
きっとその間には色んなことがあると思う。楽しいことだけじゃなくて、苦しかったり、悩んだり、辛いことは多分少なくない。
(でも……)
「ふーん、中々綺麗な部屋ね」
私は早速部屋に入って色々見てまわってる夏樹ちゃんの後ろ姿を見つめる。
平均よりも背が高く、陸上をしてることもあって引き締まった体。私は結構夏樹ちゃんの後姿を見るのは好き。
なんだか、見てるだけで少し嬉しくなっちゃう。惹かれていっちゃう。
(夏樹ちゃんがいるんだもん。なんだって大丈夫だよね)
どんなことがあったって夏樹ちゃんと一緒なら乗り越えていけるに決まってる。今までだってそうだったんだから。これからもそうするつもりなんだから。
「ん? 梨奈? どかしたの?」
「んーん。何でもない」
「そう? ま、いいや。ところでさ荷物届くのって明日だし、少し休んだら寮の中探検でもしない?」
「探検って……案内なら管理人さんが夕方、他の新入生と一緒にしてくれるって言ってたじゃない」
ちょっと呆れたようにいう私だけど、心では多分夏樹ちゃんと同じことを思ってる。
「そだけど、梨奈と二人で回ってみたいから」
ほらね。同じこと思ってた。
「うん、わかった」
私は笑顔で頷くと、もう一つ部屋に入ったときから夏樹ちゃんに言いたかったことをいうために夏樹ちゃんの前に立った。
「ね、夏樹ちゃん」
「ん?」
「改めて、これから三年間よろしくね」
私は三年間夏樹ちゃんと同じ部屋にいられる嬉しさをその言葉に詰めた。
「こちらこそ、よろしく、梨奈」
夏樹ちゃんも同じ笑顔でそう答えてくれる。
そうして、不安と期待がありながらやっぱり夏樹ちゃんと一緒にいられる期待のほうが強い私たちの生活はこうして始まっていった。
最初はいくら夏樹ちゃんとの共同生活だからって戸惑うことはあったけど、それでもそんなのは気にならないくらいに夏樹ちゃんと一緒の部屋で過ごせることは幸せだった。
「そっか、夏樹ちゃんやっぱり陸上部に入るんだ」
入学してから一週間。
四月前から入っていた寮にはもうそれなりになれて、学校でも少しずつ新しい友達も出来てくる時期。
それでも私たちは放課後はいつも一緒になっていた。
今日は、部活動の見学の日で夏樹ちゃんと一緒に色々見てきて、校門までの桜の散り始めた並木道を歩いているところ。
「うん、せっかくだから他のでもいいかなって思ったけど、やっぱりあたしは陸上好きだし」
「夏樹ちゃん、団体競技とか苦手だもんね」
「別に苦手じゃないよ。個人でやるほうが好きなだけ。自分との戦いって感じでかっこいいし。それより梨奈は何にも入らないの?」
「うーん、興味あるのはいくつかあったけど……」
「けど……?」
「……うん、多分入らないって思う」
「どうして?」
「……内緒」
「なにそれ」
私のはっきりしない態度に夏樹ちゃんはちょっとだけ不満そうだけど、私は気持ちを悟られないようにちょっとはや歩きになった。
二人で部活動なんて入っちゃったら。休みに予定あわなくなっちゃうかもしれないし。
(なんていえないよね)
一緒の部屋に住んでいるんだから気にしすぎかなって思うけど、でもやっぱり休みに時間が欲しいもん。
それに、疲れて帰ってきた夏樹ちゃんを迎えてあげたいし。
(……なんて、これはもっと言えないことだよね)
こんな風に呑気に考えていた私だけど、思えば歯車はここですでに狂っていたんだと思う。
先に確認しておくと、私は別にクラスの中に友達がいないわけじゃない。クラスに寮の子がいないからか、特別仲のいいっていう人はまだ四月っていうこともあっていないけど、寮じゃ涼香ちゃんとかせつなちゃんとかよく話す人はいる。
ただ、それでも私にとっての一番は夏樹ちゃんだから休み時間になったりすれば夏樹ちゃんに会いたくなるのは自然なこと。
(あ、夏樹ちゃんだ)
その休み時間になって、夏樹ちゃんに会いに廊下に出た私はその途中で夏樹ちゃんを視界に入れる。
夏樹ちゃんの教室はクラスを三つもはさんでいて遠いけど、今は私のクラスから二つ目、確か涼香ちゃんのクラスの前で私の知らない数人と話をしている。
「…………」
中学生までだったら夏樹ちゃんが誰といようがこっちから積極的に話しかけていって、奪っちゃうじゃないけど夏樹ちゃんの意識を私に向けさせていたけど……
(……まぁ、いっか)
私は無言で回れ右をする。
今はまだ四月だし、私のせいで夏樹ちゃんの人間関係が損なわれるようなことが合っちゃいけない。
いくら私が夏樹ちゃんのこと好きで、夏樹ちゃんが私のことを好きでも二人だけでこれから三年間を過ごしていくわけじゃないんだから。
だから、今はこれでいいだなんて、正しいはずだけどある意味甘いことを考えて私は過ごしていた。