金曜日の放課後、誰もが晴れやかな顔をして過ごすこの時間に私は、人のいない三階の小さなロビーで文庫本を読んでいる。
前にあるテーブルにはお茶が置いてあるけど、なんとなく飲む気がおきなくてさっきから全然減ってない。
「はぁ……」
時折、本から顔を上げてはため息をつく。
窓からは茜色に染まる空を見ることができ、それが丁度校舎のほうを向いていて私は何気なくその窓から外を見つめる。
「明日はもう土曜日か……」
そして、まるで土曜日を嫌がっているような、普通の人ならめったに言わないようなことを口にする。
「はぁ……」
もう一度ため息をついて、思い出したようにお茶をいっぱい飲む。
別に土曜日が嫌なわけじゃない。というよりも、当然休みっていうのは嬉しいこと。問題なのはその日の予定。
嫌な予定が入ってるわけじゃない、むしろ……
「りーな!」
「っ、夏樹ちゃん」
明日のことを考えて少しブルーになっていた私は背後から夏樹ちゃんの声を聞いて表情に明るさを取り戻す。
「ただいま」
「おかえりなさい」
運動着姿の夏樹ちゃんは荷物を持ったまま私の隣に座ってくる。
「ね、これ梨奈の?」
「うん、そうだけど?」
「じゃあ、一口頂戴。飲み物切れちゃって喉渇いてるんだよねー」
「うん、どうぞ」
なんてことのない間接キス。このくらいは当たり前で、夏樹ちゃんはおいしそうに……って
「夏樹ちゃん、一口じゃないの!?」
「あ、ごめん。のど渇いてたからさ」
「もうっ」
別にいいけど、一口っていったんだからちゃんと守ってよね。とはまでは口にしない。こういうこともしょっちゅうだし。
「あ、そだ。梨奈、明日なんだけど」
「うん……」
夏樹ちゃんが来たときには私の少し憂鬱だった気分も晴れていたけど、明日の話題が、それも夏樹ちゃんから出たことにまた急降下していく。
「ごめん、やっぱ。無理っぽい」
「……そう」
「やっぱ、行かないとだめだってさ。試合には出なくても手伝いとかあるみたいだし」
私が憂鬱だった理由。それは、少し前に約束してた夏樹ちゃんとのデートのこと。でも、昨日になって、夏樹ちゃんが所属している陸上部の記録会への一年生のお呼びがあった。
夏樹ちゃんは私との約束が先にあるからってできたら休むって言ってたけど、結果は案の定。
こういうことは覚悟はしてたけど、覚悟してたからって面白くないのは変わるわけもない。
「いいよ。気にしないで。仕方ないもんね」
「ごめん」
「だからいいってば。連休は時間取れるんでしょ?」
「あ、それは大丈夫。今度こそ本当に出れる人しかいかないって言ってたから」
「うん、ならいい。明日、頑張ってねっていうのも変だけど、頑張ってね」
「ん、あんがと」
相手の都合を理解してあげることだってその人を思ってのことなんだから。
そう、よかった、はず。
昔から夏樹ちゃんは、なんていうかあんまり気持ちを言葉にしてくれないタイプだった。それは性格もあるんだろうけど、それよりもわざわざ言葉にしなくても想いを通じ合わせてるっていう確信があったかとも言えた。
でも、どんなに仲がよくても、相手を思っていても相手の心を読むことができない人間に、すれ違いがなくなるっていうことはできない。
その日、夏樹ちゃんはいつもよりも遅く帰ってきた。
門限も過ぎて、夜御飯を一緒に食べに行くのを待っていた私のお腹も大分空いてきたころ、夏樹ちゃんはようやく帰ってきた。
「ただいまー」
いつものように部活帰りの運動着。だけど、いつもと違っているところが一つ。いつもは今日も疲れたーっていう顔してるけど、今日はすごく嬉しそうで、声にも喜色が混じっている。
「お帰り。どうかしたの?」
お腹がすいてたせいで、勝手に下段の夏樹ちゃんのベッドで横になってた私はベッドの上で体だけを起こして夏樹ちゃんに問いかける。
「それがさ、聞いてよ」
「うん」
なんだろう。夏樹ちゃんは結構感情態度に示すほうだけど、今日みたいにはしゃいでるようなのはめずらしい。
「今度の連休に記録会があるって言ったよね?」
「うん」
なんだろう。なんか、胸がチクって痛むような不安がする。
「確か、夏樹ちゃんには関係ないんだよね」
勝手にこんな言葉が飛び出す。先手を打つかのように。
「うん、そうだったんだけどさ。実は、選手に選ばれちゃったんだよね」
「っ……そう、なんだ」
「まぁ、出る予定だった先輩が怪我しちゃったからなんだけど。せっかくだから、一年を出すことになって……あたしが、選ばれちゃったってわけ」
それは、夏樹ちゃんに限らず、本気で部活動をしている人なら誰もが嬉しいこと。
夏樹ちゃんが部活動を遊びじゃなく、本気で取り組んでいるのは知っている。知ってるよ、知ってるけど……
「まさかさ、こんな早く実戦ができるとは思ってなかったしさぁ、やっぱり練習とじゃ違うし、認められたってわけじゃないだろうけど、でも、一年生だって結構いるんだしさ……」
(なんで、そんなに嬉しそうなの……)
その日は……二人で遊びに行こうって約束してたのに。
(……わかってる。大丈夫)
夏樹ちゃんは私とのデートがいやなわけはないって。もちろん、覚えているけど選ばれちゃったんだから仕方なく記録会を選んだんだって。
だから、私は自分から約束の日のことを口にしない。
私との約束を破るっていうのは夏樹ちゃんにとって辛いことに決まってるし、選手に選ばれたっていうのは今の夏樹ちゃんを見ればわかるとおり夏樹ちゃんにとってすごく嬉しくておめでたいこと。
なのにわざわざ私との約束はどうするのなんて言える訳がない。
「ま、上位に入れたりはしないだろうけど、でもこういうのを目指して部活やってるわけでもあるしさ……」
嬉しそうに記録会のことを話し続ける夏樹ちゃんは一向に私との約束のことを話そうとはしない。
私は黙ってそれを聞くだけ。
(だけど……)
ベッドに座ってる私は夏樹ちゃんからは見えないところで作った拳に力を込める。
(大丈夫、夏樹ちゃんはちゃんと自分から言ってくれる)
私はそう信じてる。
のに……
「あ、ってか、もうこんな時間じゃん。梨奈とりあえず御飯いこ。あたしもお腹減ったしさ、まだちょっと気が早いけどちゃんと食べて体力付けておかないとね」
そう言って夏樹ちゃんは着替えを始める。
ごそごそと、言葉通りに着替えを続けていく夏樹ちゃんの丁度下着姿になった背中を見つめる。
(なんで、何も言ってくれないの……?)
部屋に来てから記録会のことしか言ってないよ!? 私との約束があったでしょ? 出るななんていわないし、記録会のほう優先してくれていいけど……ごめんっていうくらいは当たり前でしょ!?
心にある暗い気持ちを吐き出したい。だけど、それはまるで夏樹ちゃんのことを信じてないみたいで……
「……ねぇ、夏樹ちゃん?」
俯きながらあえてトーンの落とした声を出す私。少しでもいつもと違うんだっていうことを夏樹ちゃんにわかってもらいたくて。
「ん? 何?」
着替えを終えようとしている夏樹ちゃんの様子はいつも通りで。
「その日って……何の日か覚えてる?」
こういっちゃうことを抑え切れなかった。
「その日って……記録会の日?」
「うん」
「なんかあった、っけ……」
(っ!!!)
唇をかみ締める。
「あ、そいや、遊び行く予定だったっけ」
だけど、夏樹ちゃんへの文句を口にする寸前で夏樹ちゃんがそう言ってくれてどうにかそれは思いとどまった。
「あ、ごめん。その日無理だよねー。ま、いいじゃん。梨奈とはいつでも遊べるしさ」
「………うん」
わかってる。大丈夫、大丈夫。相手を理解してあげられるのが本当の好きなんだから。我がままを言ったってしょうがないんだから。
夏樹ちゃんの残念そうにも申し訳なさそうにもしない態度に少しだけ心を猛らせるけどその気持ちは口を固く結んで胸の奥に押し込めた。
「ね、その日は駄目だけど、次の日も空いてたよね。学校始まる一日前になっちゃうけど、軽くでいいからどこか行かない?」
不満の変わりに私はそう言って立ち上がった。私の勝手な予定なら、御飯を食べながらその日のことでも話そうかなって思ってた。
「あ〜、悪いけどその日部活の友達と約束しちゃったんだ。お祝いじゃないけど、ま記録会のこととか聞かせて欲しいって。だから……」
「っ!! なにそれ!!」
目の前が真っ赤になっていた。
「っ!? 梨奈?」
「何でその日まで約束しちゃうの!? 記録会のことはいいよ!? 出ないでなんていわない。でも、私との約束があったって覚えてなかったの!??」
「お、覚えてたって。だけど…仕方ない、でしょ」
「だから、そんなのはわかってる!! なんで次の日まで約束しちゃうかって聞いてるの! 私との約束が駄目になったんだから次の日にしようとか思ってくれなかったの!」
「いや、だって、だから……梨奈とは」
「いつでも遊べるって言うの!?」
「そ、そう」
「いつでもっていつ!?」
「っ!!」
「入学してからまだ一回だって二人でどこかに行ってないじゃない」
「ちょ、り、梨奈、どうしたの」
どうしたのって。怒ってるに決まってるでしょ!
夏樹ちゃんがあまりにも私のことに無神経だから怒ってるんだって。それくらいもわかってくれないの!?
「なによ……バカみたいに浮かれて…どうせ出れるっていっても数合わせでしょ」
逆。夏樹ちゃんが浮かれるのは当然。
バカみたいに浮かれてたのは……私だ。久しぶりに夏樹ちゃんとデートができるって、楽しみにしてて、それが裏切られたから……
「それなのに浮かれて、……どうせ負けるに決まってるのに」
こんなことすらあっさりいえてた。
「ちょ、梨奈……」
少し怒ったような夏樹ちゃんの声。同時に驚いてはいるようでやっと本気で私が怒っているんだっていうのは気づいたみたいだけど、それも今の私には癇に障った。
「夏樹ちゃんの……バカ!!」
その一言に悔しさをいっぱいに込めて私は部屋から飛び出していった。
「あ、梨奈!!」
夏樹ちゃんの声を聞きながら、
(っ……)
自分の浅はかさに涙を浮かべて。