秋も中ごろをすぎ、山が様々な色に姿を変え始めた頃。
絵梨子は何気なく校舎から校庭で部活動にいそしむ生徒たちを見つめていた。
日が落ちるのも早くなり、もう少しすればあっという間に太陽も沈んでしまうこの時期はなんとなく寂しさを感じるような気もするが、それは小説やらドラマ、言葉などでそういう表現が多いからそう思ってしまうだけなのかもしれないと意味のないことを考えていた絵梨子は気づけば西日の差してきた窓辺から離れて校舎内の巡回を再開した。
この日は教室などの鍵を確認する当番で今はその途中だった。
生徒の下校時間間近の今は、教室にほとんど人が残っていることもなく絵梨子はシーンとした中、一つ一つの教室の鍵の確認をしていく。
「あ、」
そんな中二年生のある教室でまだ荷物の残っている机を発見した。
「ときなのだ」
今年はときなのクラスの授業を受け持つこともなかったのだが、しっかりとときながどの席に座っているかは把握しており、今荷物が残っている机は間違いなくときなの机だった。
まだ下校時間を過ぎてはいないのだから問題はないが、こうしたことがあると困ってしまう。直接会えれば戸締りするから早く帰れとも言えるが荷物だけでは勝手に鍵をかけてしまうわけにもいけない。
もっとも、こんなところでときなと二人きりになったら話しこんでしまい仕事に支障をきたすのは間違いないからいたらいるで困るとも言えた。
(……また、後でくればいいか)
仕事の最中なのにときなを待っていたなんてことがときなに知れたらしかられてしまう。
そう思い回れ右をした絵梨子の耳にカツンカツンとはっきりとした足音が聞こえてきた。
もしかしてと思った絵梨子は教室を出て足音のほうに目を向ける。
「ときな」
それは願ったとおりの相手で教室に向っていたときなを入り口で迎えた。
「先生……」
(?……)
まず違和感。普段とときなと違うと思った。少し、沈んでいるような感じだ。
「どうか、したの?」
「……いえ、たいしたことじゃありません」
「……そう」
まずは一人でというのがおそらくときなに染み付いている。だからときなは何か悩みがあっても最初は一人で立ち向かおうとする。絵梨子が目の前にいるとしても。
「……先生」
「何かしら?」
「週末、先生の部屋に行ってもいいですか?」
しかしこのときのときなはめずらしく出会い頭にこういってきた。
「え、えぇ、もちろん」
「ありがとうございます。すみません、その時話しますね。まずは一人で考えてみたいので」
「……わかったわ」
「はい、では」
用件だけの会話を済ませるとときなは荷物を持って絵梨子の前から去っていった。
何か悩みを抱えていることは一目瞭然だったがすぐに聞き出そうとは絵梨子もしなかった。頼ってもらいたいという気持ちはあっても、すべてにおいて手を差し伸べるのはそれはそれで正しいことではない。
絵梨子はときなが何を悩んでいるのかは気にしつつ、落ち着かない一週間を過ごすのだった。
週末、言葉の通りにときなを迎えるため寮へと迎えに来た絵梨子はときなの顔がすぐれていないことにさっそく気づいた。
「さて、行きましょうか」
「え、えぇ」
寮に居つくこともなく絵梨子の車に乗り込んだときなは絵梨子が車を発進させてもどこか遠くを見つめるだけでほとんど会話もなく、車内は静まり返っていた。
(……そんなに、大きなことなのかしら……?)
この前ときなと話をし、その時にはまず一人で考えるといっていた。
それから数日。考えて答えの出ることであれば、ある程度の答えは出ていてもいいはず。
しかも、ときなは優秀だ。大抵のことは自分で片付けてしまう。そんなときなが自分で解決できていないということが絵梨子に気色を悪からしめた。
このまま予定通りに部屋へといってしまえばときなに話さなければければならないという義務感が生じてしまうだろう。絵梨子が言い出さずとも、以前にときなは絵梨子の部屋で話すといってしまっている。
「どこか寄ってく?」
まだときなが話す決心をうまく出来ていないと感じた絵梨子は少しでも時間を与えたいと提案をしたが。
「いえ……このまま先生の部屋に行っていいです」
ときなは絵梨子を見ないまま冷静に答えた。まだ迷いはあるのかもしれないが、もしかしたら絵梨子の部屋を訪れ、義務感を生じさせることで自らの背中を押そうとしているのかもしれない。
「……わかった」
今思ったことはあくまで絵梨子自身の想像でしかない。ときなが何を思っているかは結局のところ直接ときなに聞くしかないのだ。
絵梨子はどんなことであろうとしっかりとときなを支えようと決意してハンドルを握り、アクセルを少し強く踏み込んだ。
そして、この日二人の絆に変化が訪れることになる。
絵梨子の部屋についたときなは絵梨子のベッドに寄りかかってぼーっと天井を見つめていた。
絵梨子も同じくベッドに寄りかかりながらも少し距離をとってときなを眺めていた。
部屋には二人の新たな関係が始まった日と同じような空気が流れていた。
「……聞いてくれないんですか?」
ポツリ、といつの間にか絵梨子を見つめていたときながつぶやく。
「……聞いて欲しい?」
「さぁ、どうでしょう。よく、わかりません。でも、私は先生に手を引いてもらうのは好きですよ」
それは一年前のときなには出来なかった言い回しだった。相手が絵梨子であるからこそ言える、人に頼る言葉だった。
「じゃあ、聞かせて」
直接手を取って欲しいという意味ではなかっただろうが、絵梨子は床においていたときなの手に自分の手を重ねた。
「……はい」
ときなはそれに応えるかのように返事をすると絵梨子へと体を寄せて話し出す。
「この前、進路相談があったんです」
「進路相談……?」
確かに二年生のこの時期は初めての進路相談がある。しかしこの時はまだときなが何をそんなに思いつめているのかに思いを馳せることは出来なかった。
「私、何もいえませんでした。もちろん大学には行きたいとは思いますけど、どこに行きたいとか、行って何がしたいかなんて考えたことがないんですよね。先生はどうやって大学決めました?」
「あ、わ、私は、親が二人とも教師で私も小さいころから教師になりたいって思ってたから、レベルにあった教育学部を選んだんだけど」
「そう、ですか」
「え、えぇ……」
「私は、どうしたらいいんでしょうね。特になりたい仕事があるわけでもないし……まぁ、そういうのも見つけるために大学に行くのだって別に悪いわけじゃないでしょうけど」
「ときな……」
違和感を感じた。
ここまで悩むことだろうか。
確かに、将来のことを考えるのは楽しいばかりじゃない。誰だって、不安だし怖いのかもしれない。
しかし、こんな風に言っては悩んでいたときなに失礼だろうが、ときなはまだ二年生で、そこまで卒業した後のことを真剣に考えるのには早いような気も……
(っ。そつ、ぎょう……?)
そのことを頭によぎらせた絵梨子ははっとときなを見つめる。
(そう、だった)
ときなは人を頼れるようになったとはいえ、まだそれに慣れているわけではなくまた性格もあるのだろうが上手ではない。
もちろん、進路を悩んでいるというのは本心だろうがそれは本音を隠すために使っているのも事実だったのだろう。
そして、絵梨子に積極的に話そうとしなかった理由もそこに繋がるのだ。
「……ときな」
絵梨子は表情を固めながらも腕を伸ばしてときなの体を引き寄せた。
「……先生」
すべてを預けるかのようにときなは絵梨子の服をつかんで瞳を閉じた。
(っ。ときな)
何か言わなければいけない。ときなが頼ってきてくれている。将来の不安に怯えてしまっている。
ときなは今未来という不確かな暗闇を見つけ、立ち尽くしているのだ。今のときなにはいくつもの道と、未来の自分の姿が薄っすらとみえている。しかし、それはその未来の一部分でありどれが自分が本当に望む未来なのかを知るすべはない。
それはときなに限ったことではなく絵梨子はもちろん、すべての人間がそうなのかもしれない。人が時間の檻にとらわれている以上、未来は九十九パーセントそうなるとはいえても百パーセントそうなるとは誰にもいえないのだから。
自分ひとりの未来ですら不確かで、まして二人が共通して得る未来は個人の未来の数と比較すれば砂のようにはかなく小さいものだろう。
(…………)
そのことを絵梨子はすでに知っていた。
そして、絵梨子は思考を今ぬくもりを感じている相手にではなく過去へと旅立たせていた。
「先生……?」
ときなは抱きしめてもらいながらも絵梨子の目が自分を見ていないことを敏感に察知し絵梨子を呼ぶ。
「…………」
しかし絵梨子は悲しそうな顔で過去へと旅を続けていた。
「っ……」
悔しそうに唇を噛んだときなは絵梨子の手を優しく取り外した。
「ふふ、なんて。ちょっと気が早いですよね。まだ一年以上あるのに。ま、私なら選択肢は多くできそうですから、少し気楽に考えたほうがいいかもしれませんね」
あえて明るく、そして無理矢理にときなは話を打ち切ろうとした。
「そ、そうよ。ときなならどこだって大丈夫よ。それに、ほんとにまだまだ一年半はあるんだから、そんなにあせらなくても……ね」
「そう、ですよね」
二人とも【卒業】に関しては直接言葉を出すことなく、いずれ必ず来ることになるそれから今はまだ目を背けた。
「あ、そうだ。今日は私が何か作りますよ」
「そんな、悪いわよ」
「いいんです。これくらいはさせてください」
「ん、じゃあ一緒に作りましょ」
「はい。ならそうしましょうか」
二人とも沈黙が訪れることを歓迎しなくどこか簡素な会話を交わし、結局これ以降この日二人の間にこの話題があがることはなかった。