「先輩、私たち、別れましょ」
「私、先輩のこと、大好きです。尊敬しています。先輩と一緒だったから……楽しかった。楽しかった、です。これからも……一緒にいたいって思ってます、思って………ました」
「……私、弱くて……本当に、どうしようもないくらいに弱くて………先輩と離れ離れになるのが怖いんです。先輩は卒業、して……遠くに行っちゃって……今までみたいに毎日会えなく、ううん、ちょっとした休みに会えるような距離でも、なくて……メールや電話は出来るかもしれないけど……でも、会えないんです……」
「私、先輩が大好きです。愛してます、っく。……で、も……自信が、ないん、です……好きだけど……大好きだけど!! 先輩と会えなくなって……離れ離れになって……それでも……先輩のこと、ずっと、好きでいられる……自信が、ないんです……」
(……あの時、私はどう答えたんだっけ?)
夕暮れが迫る中絵梨子は自室のベッドで膝を抱えて、過去を思っていた。
(……そう、確か。少しの間、何も言えなくなって……その後)
「…………………わかった」
「っ!!?」
「……柚子が、そうしたい、なら……そうしましょ」
「っ……………………はい。わかり、ました。っ! 今まで、あ、あり、がとうございました!」
(……それで、柚子は走っていったんだっけ……)
一時は毎日のように夢にみた光景を絵梨子は思い出していた。
行かないで欲しかった。本当は抱きしめてでも柚子を自分につなぎとめたかった。距離が離れたっていつまでも好きだと。信じて欲しいと。心から訴えたかった。
それは本心だ。
ときなに未練があると言われたが、その通りだった。記憶はその通りを思い出していると自分では思っても、無意識にも意識的にも都合よく改竄してしまう。
だから改竄されたものなのか、本当のことだったのかはわからないがこのことを振り返るといつも絵梨子にある不安がよぎる。
それはすなわち、
(……柚子は追いかけてもらいたかったんじゃないの?)
記憶の中の柚子の背中はそう語っていた。
追いかけて、抱きしめて、キスをして、愛を語ってほしかったのではないかと。
だが、同時に
(でも、本当にそうだったら……追いかけていた、はず、よ)
いくら突然別れを告げられ動揺していたとしても、最愛の相手が自分を求めていたのであればそれに応えたはずだと。
(それにそもそも……試していたのなら、私は……わかったなんていわなかった、はず)
それを見抜けないほどの仲ではなかったと確信はする。確信はするが、その確信も別れを切り出されていた衝撃でそんな判断もできなかったのではと不確かな理由で打ち消されてしまう。
今の絵梨子の見解は、一応本気で柚子が別れを望んでいたから、最愛の相手がそれを望むのであれば、そう応えるのが一番と思ったからということになっている。
恋というのは一方的では意味がなく、相手に応えることもまた愛なのだから。
しかし、人の心には常に別のものの見方をしようとする存在がいる。
つまり、自分もまたこの天原で教師を続けながら柚子を想い続けることへ不安があったのではないかということ。柚子を繋ぎとめようとしなかったのは、それを拒絶されるのを恐れたからではないかということ。
どれが正解かということはなく、おそらく心にしめる割合に差はあれどれも心にあった絵梨子の本心であったのかもしれない。
だが、今重要なのは思い返して答えの出るわけでもない過去ではない。
(……私、今でも……柚子が、好きなのかしら……?)
もちろん、それは恋人として好きかどうかであり、もしそうであるのなら……
「つまり、私は柚子さんの変わりでもさせられていたんでしょうか」
その言葉を完全には否定できなくなるのかもしれない。今の一番はときなだとしても、絵梨子とときな双方にその疑いが拭い去れないものとして残る。
絵梨子は膝を抱える手に力を込めながら、迷路の中を当てもなくさまよう。
今、ときなに距離を置かれてしまった原因は確実に絵梨子にある。
ときなの【卒業】を意識することでそれが原因なった柚子との別れを意識したのは当然であるかもしれないがときなの不安を見過ごして、柚子を想ってしまうなどときなを侮辱すること以外の何者でもない。
(……違う、違うわよ。ときな)
未練はある。今も引きずっているのも事実。柚子を想っていることも否定しない。しかし、ときなを柚子の代わりなどとは思っていない。いないはず。
「そう、よ……」
違う。ときなだから、ときなだから好きなのだ。ときなだから一緒にいたいと思う。今もこれからも。
「今は……何を聞いてもいいわけにしか思えませんから」
ときなに半ば別れを告げられたことを思い出し今度は頭を抱える。
(今はって……いつまで? いつになったら言い訳じゃなくなるの?)
時間を置いて、ときなの気が静まったとしてもときなからすれば言い訳であることは変わらない、はず。それならば、一秒でも早く自分の気持ちを伝えるべきかとも思う。思うが、
(……ときなが距離を置きたいって、言ったのよ……?)
あれはときなの本心だった、はず。
(……はず)
だから、しばらく話をしないことがときなに応えることの、はず。
自分の考えに自信が持てなかった。どう考えようともそれを否定するだけの反対意見が自分の中から出てきてしまう。
柚子のときには追いかけなかったことを後悔した。しかし、だからといってときなを追いかけることが正解なのかといえばそうとは限らない。
別れを切り出されるときのときなは一週間絵梨子がときなに何もしようとしなかったことに不満を持っていたが、それも状況は異なっている。やはり追いかけるのが正解であるという確信はでない。
「……どうしたら、いいの? ときな……」
そして、それらすべては単に自分が傷つくのを恐れるがあまりのことではないかとの自らへの不信を内包しながら絵梨子は出口の見えない迷路の奥深くへと入っていくのだった。
柚子に別れを切り出されたとき、絵梨子はショックもあり、また柚子と顔が合わせられないということもあって一週間大学に行かなかった。
しかし、社会人という身分ではそうすることなどできるはずもなくときなに距離を置かれてからも絵梨子は毎日ときなのいる学院に通っていた。
そして、お互いに会いたくない、会えないと思っていたとしても同じ校舎の中にいれば完全に会わないということなど不可能だった。
「っ」
(ときな、だ……)
気分が沈んでいる中、職員室で昼を取ろうとは思えなかった絵梨子は一人食事をするために、中庭のベンチに向っていた。
しかし、そこに会いたくもあり会いたくもない相手を見つけて中庭に出たところで足を止める。
ときなは時折絵梨子と二人で昼食を取っていた校木そばのベンチで一人弁当箱を膝の上に広げていた。
それを見て絵梨子の頭にはいくつか考えが浮かぶ。それらにはまだときなは自分を好きでいてくれるからこそ二人の思い出の場所とも言えるところにいるのではないかといった都合のいい妄想も含まれていたが、少なくても完全には嫌われていないとは思えた。
しかし、嫌われていないとしても我がままを言ってしまえば、好きでいてもらえなければ嫌なのだ。
(……まず、話してみなきゃ、始まらないわよ、ね……)
不安も迷いもあったが、絵梨子は自分の中の勇気を振り絞り今の場所から一歩を踏み出した。
少しだけ意識的に足音を立てる。
ときなに意識してもらうために。
「っ……先生……」
願いが届いたのかときなは絵梨子が数メートルの距離に近づいたところで絵梨子に気づき箸を止めた。
ときなは数秒絵梨子を見つめたがすぐに顔を伏せる。
絵梨子はそんなときなへとさらに歩を進めた。
が、
「とき……」
こちらから声をかけようとした瞬間ときながお弁当を片付け始めたのをみて機先を制された。
それがどういう意味を持つのかわかってしまうから。
「……失礼、します」
ときなは一分と立たずにまだ途中のお弁当を片付け終えると軽く頭を下げ絵梨子が歩いてきた道を逆にたどっていった。
「……………」
あっさりそうされてしまったことに追いかけようとすら思えなかった絵梨子はまだときなのぬくもりが残っているベンチに腰をかけ、昼食に買って来たパンとカロリー食品を半ば無意識に食べ始める。
実際に簡素な味を舌で感じながら絵梨子はときなのことしか考えられなかった。
(……逃げられちゃ、った……)
そこに思考が収束していく。
ときながどんな理由をもって絵梨子の前から去っていったのかはわからないが、絵梨子からすれば逃げられたと思えてしまう。
思えてしまう、のだ。
(や、っぱり……まだ会わないほうが、いいの?)
確信は持てないが絵梨子は天秤をそちらへと傾けていった。