この物語は誰のためでもない私、白姫文葉の物語。

 退屈だった私が彼女と出会い、一つの結末を迎えるまでの話。

 彼女は一言で言うなら変わった人間だった。

 詳しくはこの後に述べることになるが、彼女に対する私の印象はよかったわけじゃない。

 私にとっては私が関わる大勢の中の一人で、その中で少し特殊な相手だったというだけ。

 出会ってしばらくは特別でも何でもない人だった。このまま少しすれば二度と会わなくなる一人だと。

 そう、あのことさえなければそうなっていただろう。

 

 

 それはある穏やかな春の日。

 薄暗い図書館の一角、背の高い本棚に囲まれた場所。

 静寂が包むその場所でまだ出会って数週間と経っていない私達が向かい合っている。

 この時、私が彼女について知っていることはまだ少ない。どんな人間かと問われれば今の私には綺麗な人だと答えるしかない。

 猫を思わせるような切れ長の瞳に陽光に映える黒髪。薄くリップの塗られた唇。

「文葉」

 その唇が私の名を紡ぎ、伸ばした手が頬に添えられると私の胸はドクンと不規則な鼓動を刻む。

 形いい唇から紡がれる言葉と、妖しい光を宿らせる瞳はどこか蠱惑的だ。

 異様な雰囲気。

 本の香りが漂うその中、本棚に囲まれ誰も私たちを見るものはいない。

 周りからは音が消え続く彼女の声だけが世界を埋めていくような、そんな現実感を失いそうな中で

 彼女が私へと迫り……その唇がある場所へと触れる。

 何が起きたのか理解できない私。そんな私を愉快そうに見据えながら、彼女は彼女特有の有無を言わせない響きで言い放つ。

 

「私の恋人になりなさい」

 

 

 それが私と彼女の本当の始まりを告げる言葉だった。

 

 

 彼女と出会ったのは数週間前のこと。

 司書として図書館に勤める私はその日もいつも通りに出勤し、何も特別なことのない一日を過ごすはずだった。

 貸出窓口の少し奥、直接は利用者とやり取りしない場所での事務処理と図書の整理がこの日に主に携わっていた業務。

 司書の仕事というと一般的には貸出業務が主なものと思われているかもしれないけれど、今私がしているのはそれを支える裏方だ。

 専用のバーコードリーダーとパソコンを使い、図書の管理をしている私の耳にはある声が響く。

「この前おすすめした本、どうでしたか?」

 図書の相談窓口の方から馴染みのある声。その声にまたかと生温かな目を向ける。

 そこにいるのは少し小柄な体躯に似合う短めの髪に快活さを感じさせる笑顔をもつ女性。

 彼女の名前は早瀬雪乃。私と同じ司書で同期でもある。

 その早瀬が二十代前半と思われる女性と何やら話をしていた。

「面白かったですよ。女の子同士のことが繊細に描かれていて、すごい引き込まれました」

「そうですか、それはよかった。なら今度はこちらの本はいかがですか? 前のを気に入ってくれたのならこれも気に入ると思いますよ。まぁ、この前のよりも少し過激だけど」

「過激、ですか。どんな風に?」

「ふふ、おねーさんが今考えたので間違いないと思いますよ」

(自分の方が年上でしょうに)

 おねーさん、などと軽口を叩く早瀬を半ばあきれながらも二人の様子をうかがうことをやめない。

「やめておきます?」

「い、いえ、その……お借りします」

「はい。ではどうぞ。あ、これ実は私物なので、返却は本に挟んである連絡先にお願いします」

「え? あ、は、はい」

「……………」

 見ていて恥ずかしくなるほどあからさまな、しかしすでに見慣れてしまった光景に辟易としていると目的を果たした早瀬と目が合う。

 見られていたということに気づいた早瀬は満足気な顔でこちらへと近づいてきた。

「……相変わらずね」

「まぁね」

「せめて業務中は控えなさいよ」

「っていっても仕事中だからこそしやすいしねぇ。まぁいいじゃない。文葉ってばその胸と同じで固いんだから」

「……胸は関係ないでしょう」

 一緒に働きだして五年、定番のとなっているやり取りに再び私はあきれ顔を見せる。

「ほらほらむっとしない。せっかくの美人さんが台無しだよ。もっと愛想よくすればモテるっていつも言ってるじゃない。髪だってこんなきれいなんだし」

 私の背後へと周り早瀬は背中まで伸びた私の髪に自分の指を触れさせ軽く梳く。

「ほんといいよね、文葉の髪。指の間をかかる感触とか好きだな」

「……茶化さないでよ」

「本音なんだけどなぁ。まぁいいや。文葉も怒ることだし、見回りでも行ってくるよ」

「見回り、ね。別の目的があるんじゃないの?」

「何をいいますか。悩める利用者の方に積極的に声をかけて図書館を気持ちよく使ってもらうのも司書の務めだよ?」

 言っていることは間違っていない。司書の仕事は机に座ってただ本の貸し借りの管理をしていればいいというものではない。

 早瀬が口にしたようなことは目立つことはないが、司書としてすべきことの一つだ。

 ただし、早瀬の場合は

「女の人限定で、でしょう」

「んー……行ってきます」

 指摘には反応を示さず早瀬は私から離れると本棚の中に姿を消していった。

 残された私はしばらくの間自分の仕事に集中していたが、少しするとそれもひと段落し手持ち無沙汰になった。

(私も見回りしてこようかしらね)

 先ほど早瀬が口にしたことの表面的な意味は私も司書として大切なことだと考えている。

 図書館のプロとして困っている人間に手を差し伸べることは意義も意味もあることだ。

 青絨毯の床の上を私の二倍近くある背の高い本棚の間を歩き、館内に問題がないかや困っている利用者がいないかを探すも、平日の昼間では人そのものが多くはなく。そんな図書館の現状に嘆きたくなる。

(それにしても、早瀬は相変わらずよね)

 中々声をかけるべきの相手の見つからなかった私は、今同じことをしているであろう同僚のことを思う。

 とはいっても、早瀬本人のことよりも私が気になるのは

(どうやったらあんな風に生きていけるのかしらね)

 奔放で、あけすけでしかし幸せそうな早瀬の生き方。

「…………」

 働き出して五年。司書は子供のころからのなりたい職業であり、仕事自体は辛いこともあるが充実はしているしまたやりがいも感じている。

(でも)

 私生活が同様に充実しているかと言えば首を横に振らざるを得ない。仕事のある日は何もしなくても仕方ないかもしれないが、休日も家事とあとは数少ない趣味としている読書、それとたまにいく映画程度だ。

 同じことを繰り返している日々。物足りなさを感じるのは確かだが、その焦燥感にも似た気持ちを処理する方法を私は持ち合わせておらず、また停滞感をどうにかしようとする積極性もない。

 だから、日々を楽しく生きているように見える数少ない友人をうらやましくも思えば若干の嫉妬すら感じている。

 友人相手にそんなことを思ってしまう自分を情けなく思う私はちょうど本棚のない開けた通路に出たところで、

「ちょっと、そこの貴女」

 凜とした声に呼び止められた。

 頭の半分以上を早瀬に奪われていた私は、一瞬反応を遅らせたものの反射的に振り返り

「っ………」

 そこに見えた人物に言葉を失った。

(綺麗な、人)

 そこにいたのはそう表現するしかない人だった。

 整った顔立ちと猫を思わせるような切れ長の瞳。陽光を受けて光るセミロングの繊細な髪。グレーのシャツとロングカーディガンが似合い、すらっと伸びた脚に合うパンツスタイルがモデルの様な佇まいを感じさせた。

 そんな美しい女性が自信に溢れた足取りでこちらへと向かってくる。

 ガラス張りの窓から入る逆光がまるで後光のように指し、その超然とした雰囲気に

「妖精、みたい……」

 なんて子供じみた言葉が口をついて出た。

「ねぇ、貴女ここの司書さんでしょう」

 目の前の女性は私の迂闊な一言には気づかったのか芯の通った声でそれを訪ねた。

「……っ。はい」

 自分にはないその強気な様子に一瞬戸惑ってしまう。

「そう。なら、聞きたいことがあるのだけれど」

「何かお探しでしょうか?」

 図書館で職員に尋ねることと言えば用件は想像がつく。司書としての仕事は他にも数多く存在するけれど、一般の利用者に尋ねられることと言えばほぼ間違いない。

「えぇ、そうなの。本を探しているのよ」

「どのようなものをお探しでしょうか」

 そして、今回もその予想自体は正しかったのだが。

「面白い本」

 出てきた用件は想像の外にあるものだった。

 子供ならともかく、見たところ私と同程度の年代の大人が言うようなこととは思えない。

 が、目の前の女性は当然のように【面白い本】と言い放った。

「え……えぇと、何かおすすめの本を紹介して欲しいということでしょうか」

「そうね、そういうことになるのかしら」

 司書としては過不足のないものをしたつもりだけど、女性は不満というほどではないものの満足はしていない口ぶりで答える。

「かしこまりました。どんなジャンルのものがよ……」

「何でもいいわ」

「え?」

「だから、何でもいいって言っているのよ。私が楽しめるものならどんなものでも構わないわ」

「…………」

 司書としてはあるまじきことだが、思わず私は言葉を失ってしまう。

(何でもいいという言葉ほど難しいものはないのだけれど)

 なにせゴールが見えていないに等しい。

 一見理知的にも見える相手にこんなことを言われるなんてと内心は呆れてしまった。

「すぐには難しいの?」

「そう、ですね。少しは方向性が見えないと」

「だから何でもいいのだけれど」

 この女性は自分を困らせようとしているわけではない。ただ本気でそう言っているのだということは感じられるがそれが分かったからと言って今の状況が改善されるわけでもなく困惑していると。

「すぐには難しいのなら、そうね……三日後にまた来るからその時に紹介してくれればいいわ。貴女、名前は」

「白姫、文葉です」

「そう。私は森すみれよ。それじゃ、よろしくお願いするわ」

「あ……」

 有無を言わせぬ様子ですみれと名乗った女性は勝手な約束を私にさせると、そのまま踵を返したがふと思い立ったようにもう一度振り返る。

「ところで、初対面の相手に妖怪は酷いんじゃない?」

「え?」

「まぁいいわ。三日後楽しみにしているから」

「………………」

 突然現れて、一方的な要求をたきつけ去っていく。

 それこそ妖怪にでも化かされたような気分にはなったが、

「妖精って言ったのだけど……」

 その勘違いに毒気を抜かれてしまう私。

 こんな形容しがたい出来事が彼女との出会いだった。

 

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