だめよ、葵ちゃん。

 

 これはいつごろだっただろう。

 

 仲直りしたいって思うならちゃんと自分からごめんなさいって言わなきゃ。

 

 優しく触れる見知らぬ女性の暖かな手。

 

 千影ちゃんのこと本当は大好きなんでしょ?

 

 子供心に心の中を見透かされたような気になった私はちょっとだけくやしそうに、でも心の底からうんとうなづいた。

 

 よし、いい子。あのね、葵ちゃん。これからだってね、千影ちゃんと喧嘩したりするかもしれない。でもね、お互いに大好きって思うなら仲直りできないことなんてないの。だから、ちゃんとごめんなさい、いわなきゃダメだよ。

 

「うん……わかった。お姉ちゃん」

「うん、えらいぞ」

「あ、そうだ」

「ん? なぁに?」

「お姉ちゃんのお名前なんていうの?」

「……私? 私はね……」

 

 

 ぴっ、ぴ、ピッピピピ。

 断続的に起きる目覚ましの音。

 その脇で眠る痩身の女性は、ベッドの中でもぞもぞと動きながら手探りに目覚ましを探りあてると、スイッチを押して目覚ましを止めた。

「…………くぅ」

 そして、もう一眠りするかのような寝息を立てるが

「……はぁ、起きなきゃ」

 誰ともなくそうつぶやくとその女性、真崎葵は目を覚ました。

 寝癖がついた髪のまま体を起こしてベッドに座ると何かを思い出すかのように隣の部屋と隣接している壁を見つめた。

(……懐かしい夢、みたな)

 あれは小さなころ、本当にとても小さなまだ小学校に上がるかあがらないかの時だったはず。

 理由なんて覚えてないが、とにかく喧嘩したのだ。友人……親友である、森嶋 千影と。

 そう、今のように。

 

 

 葵は青空の下大学に向かって歩いていた。青く澄み渡った空とは裏腹に、どこか不機嫌そうにその端整な顔をしかめている。

 真崎葵は十八年間すみ続けた町から今年離れ、大学生として下宿生活をしている。今まで住んでいたのは誰もが認める田舎であり、あまりこのような都会になれていない葵は不安もあった。人ごみも得意でなければ、家事だってろくにしたことがない。しかし、大変ではあってもつらくはなかった。

 葵には親友がおり、アパートも隣の部屋で何かあれば二人でなんとかしてきた。大学は違うが、何かあったらすぐに会えるということが心の安定をもたらしていた。

 だが、今は違う。逆に千影の存在がつらかった。隣の部屋ということで物音がすれば壁一枚の距離に千影がいると思うとどこか気が重かった。

 きっかけは些細なこと。

 千影が待ち合わせに、連絡もなしに遅れてきた。もともと千影は時間にはルーズなほうだしそれはわかっている。逆に葵は約束の五分前にはいる人間だ。だが、普段なら慣れてしまっているからそれほど気に障ることではなかった。

 ただ、その日は大学で少しおもしろくないこともあり、大幅に遅れたくせに連絡もなしというのが何よりも気に食わなかった。何度、メールや電話をしたと思ってるのかと。

(……しかも、なによあの態度)

 ごめんとは言われたが、そこに本気は感じられずそれどころか、どこか浮ついていた。

 だから思わず、怒ってしまった。今まで、約束の時間を守らないことや、メールなどの返すのが遅いこと。小さく堪っていた不満を爆発させてしまった。

 今では少し後悔している。

 もっとちゃんと言い分を聞いてあげればよかった。理由もなしにそこまで遅れるはずはない。など、ぐるぐると胸の中に嫌な気持ちがずっと渦巻いている。

(千影、何かいいたそうだった)

 喧嘩するのは初めてではない。今までだって何度も喧嘩をしてきた。だが、年を重ねるごとに仲直りというのは難しくなった気がする。余計なプライドやそのた諸々が影響して、きっかけがないのだ。

 いや、年など関係ない。葵はそういうことが苦手だった。きっかけがなければ、仲直りに限らず何事も取り組めない。

 そう、あの名も知らぬお姉さんのときのように。

(……そういえば、あのお姉さんの名前なんていったっけ?)

 何度も同じゆめは見たことあるのにそれが思い出せない。

(そもそも、聞いてないような……)

 ただ、あれは夢ではあるが【記憶】なはず。なのに、名前を聞いた覚えがない。

(子供だったから覚えてないといえばそれまでだけど……)

 何かがひっかかる。すっと浮けいられない。

 考え事をしていた。注意力が散漫だった。

「あ……」

 気づいたときには道路の真ん中にいて、

(千影……)

 猛スピードで迫ってくる車をどこか他人事のように見ていた。

 

 

 なんだろう……ここは?

 白くて何もない世界。

 前にも後ろにも、右にも、左にも何もない。

 上も下も何も。

 あるのは私の体だけ。

 真っ白な広大な世界にポツンと私だけが立っている。

 本当に何もない世界。

 今たっているはずの場所すら感覚がない。まるで浮いているような気分。

 どうして、こんなところに。

 あ、そうだ確か学校向かってる途中で。

 気づいたら車が目の前にあって……

 それで……あれ? どうなったの? 

 轢かれた? 轢かれたの?

 なのに、あれ? なにこれ? 

(……ぁぉい)

「?」

 何か聞こえた気がした。

 聞いたことのある声。

 そうだ、これは

 千影の声、だ。

 

 

 次に葵気がついたのは見知らぬ町だった。

 絵に描いたようなのどかな町並み。寂れても、栄えてもいない住宅街のすぐ脇を適度に整備された国道が通っている。

 道路わきには街路樹が植えてあり、田舎よりもちょっとだけ都会なのどかな、本当にのどかな町。

「?」

 その町を上空から見下ろしていた。

(なんだろう……これ?)

 不思議なこと。何が起きているのかさっぱりだった。

 だが、こんな異常なことが起きているというのになぜか恐怖は感じなかった。かと言って、高揚感があるわけでもなく、本当にただ不思議なことが起こっているなぁとしか考えられなかった。

(あれ……この町って……)

 見覚えがある、ような……?

!?

 いきなり視界が変わった。

「あ、れ……?」

 今度はちゃんとした地面に立っていた。

 大きな交差点から、ひとつ脇に入った閑静な道路。その道脇にいつのまにか立っていて、葵は首をかしげる。

「っ!?

 次に感じたのは衝撃。

 さっき、町を空から見下ろしていたときには、見たことがあるような気がする程度だったが、今度ははっきり気づいた。

 寂れても栄えてもいない町。

 大通りから外れた閑静な道路。

 見覚えの、いや、見飽きたといっていい塀に囲まれたこの道。

 そう、左の家にはおっきな犬がいて子供のころは大きな声でほえるのがすごく怖かった。

 右の家は庭にいっぱい植物が育ててあった、たまに野菜をもらったりしてるって中学生くらいになってから知った。

 知ってる、どれもこれも見慣れた家、景色。

「はっ、はっ、はっ」

 葵はいつの間にか走りだしていた。

 立っていた場所からまっすぐに言って、二つ目の角を左に曲がって、そこからまた少し十メートルほど進んで今度は右に曲がる。

 信号機のない横断歩道を渡って、壁伝いにある三軒目の家。

「っはぁ……は、ぁ……は」

 特徴的な青い屋根の二階建ての家。十八年間すみ続けた家。

 そう、ここは

(私の、町だ……)

 

 

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