傷のことを知られて以来、玲菜の中で一番予想外の反応を見せたのは洋子だった。

 翌日もその後も、何度か会話はしたが傷のことには一切触れてこなかった。

 さすがに気にしていないというわけではないようだが、少なくてもそれを言葉にはしてこない。

(意外、だな)

 こういう言い方はうぬぼれかもしれないが、洋子であれば「おせっかい」をやいてくるものだと思っていた。

 だが、現実にはむしろ避けられているような印象だ。

 会話はしてもぎこちなく、すぐに打ち切られる。

(……愛想を尽かされたと考えるべきか)

 もともと玲菜にとっては意外なことに洋子は玲菜を尊敬していると言っていた。その相手が自傷行為などというものを働いていれば、愛想を尽かすどころか幻滅をしてもおかしくはない事態だ。

(……だが、これが普通、かもしれないな)

 そうだ。そもそも学校で見せている姿こそが玲菜にとっては偽りのもの。玲菜にとって自分の本当の姿というものは自分に自信がなく、自己嫌悪と自己否定から自傷行為を働くような弱い人間だ。

 誰かに尊敬される対象でなどあるはずがない。

 洋子は学年で唯一まともに話せる相手だっただけが、そのことに対して文句を言えるような立場ではない。

(……去年のように戻るだけさ)

 そう諦観する玲菜は、帰宅路を行きながら一抹の寂しさを感じてしまう。

「…………何か、買っていくか」

 まっすぐ帰るつもりだったが、心が乾いてしまったことを自覚し通学路の途中にある本屋へと足を踏み入れた。

 玲菜は漫画はあまりよまず、小説や伝記がメインではあるが基本的には活字であれば雑食で伝記や、学術書、時には暇つぶしに啓発本なども嗜む。

 そう言った理由で本屋を歩き回っていると

「……洋子」

 正面から歩いてきた洋子を見つけふと名を呼んでしまう。

「っ……久遠寺、さん」

 洋子の方は目の前に来るまで玲菜のことを気づいていなかったらしく、玲菜を認識すると

(ん……?)

 咄嗟に手に持っていた本を背中に回した。

(……私には見られたくない、ということか)

 ここに来るまでの間に洋子に幻滅されたと思い込む玲菜は勝手にそう決めつけ

「……それではな」

 と、すれ違いながら去って行こうとした。

 が

「あ、あの!」

 その手を掴まれ

「少し、話していかない?」

 と想定外のことを言われてしまった。

 

 

 洋子に連れてこられた喫茶店でコーヒーを飲みながら玲菜は居心地の悪い時間を過ごす。

 まだ本題には入っていないが洋子がどんな話題を切り出してくるのかは考えるまでもなく、それに触れたくない玲菜は断ってもよかったのだが、

(……一度は話さないといけないだろうな)

 それは決めている。

 はっきりもう触れるなと告げなければいけない。

「……………」

 対面に座る洋子は落ち着かない様子で運ばれてきたコーヒーをなんどか口に運び視線を散らして自分の中の決意を固めようとしているのが見て取れる。

 当事者であるのは玲菜だが、それに手を差し伸べる方にも勇気が必要なのだ。

 自分が踏み込んでいいのかという迷い。触れることで相手を傷つけてしまうのではという不安。真実を知ることへの恐怖。

 足を止める理由はいくらでも出てくるのだろう。

 だが、それを上回る思いがあるのなら……

「く、久遠寺、さん」

 洋子はカップを置くと、玲菜に向かい力のこもった視線を向けた。

「……なんだ」

 玲菜は一瞬視線を合わせただけですぐに目をそらした。受け止めるのではなく、受け流すために。

「わ、私、ね、色々勉強して、みたの」

「む?」

「その……リストカットっていうか、そういうことについて。そういう体験談とか、心理学の本とかも読んだりなんかして」

「あぁ、なるほどな」

 図書館でのことや、先ほどの本屋でのことを思い出す。今思えば、だが本を隠そうとしていたし、必要以上に驚いていた気がする。

 その時には単純に気まずいのかと思ったが、調べているということを知られたくなかったということなのだろう。

「それで、何かわかったか」

 その行為が自分のためだということは認識するものの玲菜は冷めた言葉を返した。

 玲菜に限らないことだろうが、当事者はそういった枠にあてはめられることを嫌いがちだ。自分の苦しみは自分しかわからないのだから。

「ううん……」

 そんなもので自分をわかった気になられてたまるかと身構える玲菜だったが、小さく首を振った洋子に多少意外の念を覚える。

「何にもわからない。勉強不足っていうのももちろんあるんだろうけど、それ以上にこれを呼んだからって久遠寺さんのことをわかるっていうのとは違う気がしたから」

「なら、どうして私をここに誘ったんだ? 君は何がしたい?」

「……それは……」

 洋子はもしかしたら自分でも自分が何をしたいのかわかっていない。偶然玲菜と出会い、衝動的に誘ったということだけでまだ洋子にも覚悟がなかった。

 しかし、そんな準備のない状態だからこそ本音が出るのかもしれない。

 理屈や建前に支配されない言葉が。

「…………話したいって思ったから」

「何の話をだ?」

「どうして、自分のことを傷つけたりするのかって知りたいから」

「…………」

「久遠寺さんは……いつもかっこよくて、眩して、何でもできて強いって私思ってた」

「……それは、君の思い違いだったというだけだ」

「そうかもしれない。私は、私にとって都合のいい久遠寺さんを見てただけなのかもしれない」

「別にそれを否定はしないよ。人は見たいものを見たいように見るものだからな」

 玲菜はあくまでも冷静に言い放つ。すでに幾人かとこのようなやり取りをしていて、心を守ることには長けているから。

「うん。でもね、それでも私は………久遠寺さんの友だちなの」

 自信なさ気だった洋子の声に芯が通ったような強さを感じた。

「だから、理由を知りたいし、そんなことやめてほしい。力になれることだったら何でもするから、話して欲しい」

「…………言葉はありがたく受取っておこう」

 洋子の思いが並々ならぬものだというのはわかる。しかし、玲菜は相手をするつもりはない。

 洋子は勇気を出して手を差し伸べてくれたのだろう。

 だが、差し出された手を取ることにも勇気が必要だということを差し伸べる側を気づけないことも多く、玲菜にはその勇気がない。

「だが、話すつもりはないし、前にも言っただろう。このことは忘れてくれ、と」

「それは、聞いた、けど……でも」

「…………厳しいことを言わせてもらうが、何を言っても【外野】の意見なんだよ。普通に生きてきた君にはわからないだろう」

「そうかもしれない……けど」

 食い下がろうとする洋子だが、玲菜はその姿を見たくはなく

「……話はここまでだ」

 と、伝票を持って席を立ってしまう。

「あ………」

 呆然とその姿を見つめる洋子が今後、何をしてしまうのかという覚悟を見抜けずに。

 

洋子1−2

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