ポタポタポタ。
命を紡ぐ赤い糸が手首から音を立てて落ちる。
「……………」
玲菜はその光景を無言で見つめていた。
左手には同じく赤く染まったナイフ。
机に座り、いつもと同じように【作業】をこなした玲菜だが、その様子はいつもとは違っていた。
普段であれば痛みと血の色に多少なりとも興奮していたが今は感情の動きが小さい。それどころか、むなしさすら感じてしまっている。
(目的、か……)
洋子にそれを指摘されて以来、リストカットに今までとは感情が混じるようになってしまった。
今までは意味を求めてなど来なかった。自傷行為は自分の劣等感を紛らわすためのものでしかなくもともと何かを得るためものではなかったから。
しかし洋子に何を意図してしているのかということを指摘されて以来、これにより何かを得ることを目的としてしまっている気がして、それが嫌だった。
やめられない理由として何も得ずにやめてしまったらただ苦しんだ結果が残るだけになってしまうという恐怖のようなものはある。
何かを得たいと思う心は自分の中にある。
だが、それと同時に何かを目的として自傷行為を働くということにも嫌悪感を持っていた。
神聖なというと語弊があるが、元々は何かを目的として始めたことではない。というよりも当初は自己嫌悪や自己否定など自分への罰のような意味も持っていた。
数年を経て自傷行為の意味は変わってきたかもしれないが、少なくても何かを得るために自傷行為をするということは違う気がする。当初の理由からあまりにも外れてしまい、それがその時苦しんでいた自分への背信のような気がしていた。
「っは!」
唐突に玲菜は自虐的な笑いをこぼす。
「………救われないな」
ぐちゃぐちゃになってしまった心を見つめ玲菜がそうこぼし
ペロ
手首の血を舐めとり
「……………苦い」
と、心情を言葉にしていた。
ポタポタポタ。
赤い雫が床へと落ちていく。
「…………」
洋子は自らの手首を傷つけたナイフと交互に傷跡を見つめながら表情をゆがませる。
「……痛い、なぁ」
傷により揺れた心がにじみ出て自然と声が漏れる。痛いのは肉体の痛みじゃなくて、心の方。
(……こんなことになるなんて思わなかった)
担任の教師はこんなケースは初めてだったらしく、面白いように慌てていた。だが、心配をしているという気持ちは伝わってきて自傷行為をしていることを申し訳なく思った。
そこでようやく普通でないということに気づいた。いや、わかっていたはずではあるが改めて思い知ったのだ。
(久遠寺さんの言う通りなのはわかる。……けれど)
担任へと伝えた人は純粋に心配をしてだったらしいし、口止めもしたとのことらしいがそれでももし噂が広まれば、奇異の目で見てくるもの、距離を取るもの、軽蔑するもの様々だろう。
それだけでもこれからに不安は抱く。しかし、何が一番つらいかと言えば
(……心配されること、かもしれないな)
玲奈はいざ知らず、洋子は心配されることを迷惑には思わないだろう。ただ、それを玲奈と同様に申し訳なくは思う。
心配をされても洋子はその気持ちに答えられないのだから。
(久遠寺さんも同じ、なのかな?)
玲奈が心配されていることを迷惑がっているのは本人の口からも聞いている。その時には理解できなかった玲奈の気持ちが少しはわかる気がした。
的外れな心配をされることの辛さ、理解してもらえないことへの落胆。
「……ぅ、……ぁ」
心がぐちゃぐちゃにかき回されて思わずうめき声が漏れる。涙が零れてしまいそうだが、その涙もどこから来ているのかわからず心がまとまらない。
(……無駄じゃなかったって思う、けれど)
この心の痛みや苦悩を知ったことは多少なりとも玲奈の気持ちをわかったかもしれない。
しかし、わかってしまったことで逆に玲奈が遠くなった気がする。
自傷行為について表面的に玲奈に近づくことはできたかもしれない。
だが、たとえ自傷行為を続けても玲奈に届かないであろうことが理解できてしまった。
「……こんなの、じゃ」
手首に残る赤黒い傷を見て洋子はそうつぶやく。
このまましていても玲奈にやめさせることも、玲奈を本当の意味で理解することも、玲奈の傷に意味を持たせることも……
(意味……)
その言葉が心に引っかかった。
……今自分がしようと思えないのは周りにばれてしまったこともある。玲奈にやめろと言われたことも原因の一つだ。
だが、それ以上にこのまましていても玲奈に届かないという気持ちを自覚したから。
無駄ではなかったと思えたから。
それと、玲奈が何を目的にしているのかという洋子の質問に答えられなかったことを思い出す。それは本当に答えがなかったからだとしたら?
そこに意味があると思ってもらえたら?
「………………」
(……的外れかもしれないけれど)
ほんの少しだけ、玲奈に考えてもらえることが出来るかもしれない。ただ、やめろというのではなくて玲奈に受け入れてもらう方法が。
それはあくまで自分にとって都合のいい考えでしかないのかもしれない。だが、玲奈に対して向き合う一つの方法を洋子は見つけるのだった。