映画の内容なんてほとんど頭に入らなかった。それどころか、その後菜柚ちゃんと入った喫茶店でも何を話したかあまり覚えていない。
気づくといつも駅に降り立ち、宵闇の迫る中いつもの道を菜柚ちゃんと手を繋いで歩いていた。
「ねぇ、お姉ちゃん……今日楽しくなかった?」
「そんなことないけど、どうして?」
「お姉ちゃん、なんかあんまり笑ってなかったし、映画つまらなかったのかなって」
つまらないもなにも、私が覚えているのはあの暗がりの中菜柚ちゃんがぴったりと体を密着させてきてたことくらい。始まる前の指のことがあったせいか、無性にドキドキしてしまっていた。
それになにより、あの感覚の残滓が体に残っていてふわふわとした気分だった。
「そういうわけじゃくてね、ちょっと疲れちゃって……」
デートをしておいて疲れたっていうのもないけど、頭がうまく働いていなくてそんな言い方になってしまった。
「あ、も、もちろん楽しかったわよ」
今さら、そんな風にいっても説得力が感じられないだろうけどこういうことを言葉にしておくっていうのは大切だと思う。
「そっか。よかった、私だけが楽しいんじゃ意味ないもん。また遊びいこうね。今度はお姉ちゃんにどっか連れてってもらいたいな」
「うん、考えておくわ」
「ありがとう。あ、お姉ちゃん……」
と、この場所特有の甘えた声。
菜柚ちゃんの求めに応じるように頬に手をやると菜柚ちゃんは目をつぶる。
「ん〜……んっ、は、ん…〜〜…」
今日はデートのせいで少し気が昂ぶっていたせいか、普段別れの際にするよりも長く濃厚なキス。
「はぁ……」
くちびるが離れると二人で熱い息を漏らした。
「じゃあね、お姉ちゃん」
「バイバイ」
笑顔で去る菜柚ちゃんに私も笑顔で答えると別々の道を歩きだす。
(それにしても……)
「あれ」、なんだったのだろう……菜柚ちゃんにされてからしばらくたった上その本人とも別れたのにあの感覚の余韻がまだ指先に残っているような感じがする。
心地良かったといえばそうだけど、なんていうかうまく言葉にできない怖さ、不安みたいなものもあった。ただその怖さも、嫌悪感とは違うものだった。
嫌っていうわけじゃなかったのよね。よくわからないけど。
「美貴……」
浮ついた気分のままそのことを考えていると、背後から幽霊が言ったんじゃないかと思う程に暗く、抑揚の抑えられた声に名前を呼ばれた。
一瞬普段の声と違いすぎて、誰だかわからなかった。でも、私がその人の声を聞き違うなんてありえない。
私は、血の気がサーっと引くのを感じた。そして、怯えたように振り返る。
「結花……」
振り返った先あったのは、夕陽を背にして不気味に立ち尽くす結花の姿だった。
いつから、いたんだろうか。
私が今いる場所は菜柚ちゃんと別れたところから数分と経っていない。いや、一分経ってるかだって微妙なくらい。
もし、結花がさっきからすぐ側にいたのなら……
見られてない、よ……ね……?
予測というよりも希望に近いことを思いながら、私は結花に向かって足を踏み出す。
結花の後ろからは夕陽の赤い光が照ってきて何故か私はそれが炎のようにも感じられた。
「みき…………」
私が近づくと結花は、地の底からのうめき声のような調子で私の名前を呼ぶ。
「ねぇ、キス………してよ」
「な、なによっ!? いきなり」
「いいからっ!! ………して」
私は、結花の姿を見たときの不安がどんどん膨らんでいくのを実感していた。結花から放たれる夕陽の光が一層赤く燃え上がっていく。
「ゆ、結花……」
「して」
「あ、あの…」
「して」
私は何かを言おうとするけど、うまく言葉に出来ない上に結花は私の話にまったく取り合ってもくれない。
「結花、あの…………んむっ!?」
それでも、結花と話をしようとする口を結花のくちびるで塞がれた。
「んぐっ……む……」
一瞬で結花の舌が強引に私の中に入り込んできた。
「じゅ……くちゃ、ぢゅ……んふぅ」
そのまま、結花の思うがままに口内を侵される。そこにいつものキスのときのような優しさや、いたわりはない。
「んっ……あぅっ!!??」
私がそれに驚き体を離そうとしても、結花は服がやぶけるんじゃないかっていうくらいに力いっぱい体を引いて私を離すどころかいっそう密着させた。
「ちゅ、チュぅ、ちゅるるぅ……!!」
しばらく口腔を攻められると、今度は痛いくらいに舌を吸われる。あまりにも強く吸われて脳がそのまま吸いだされてしまうそうな気さえした。
やだ、やめて……
痛いよ、怖い。
やめて、結花……
しかし、いくらそんなことを思ってもそれを口にすることすらできない。
結花は私の中のすべてを自分色で染め上げるかのようにある箇所を舐めては吸うという行為を繰り返していく。
「はん……ん〜っ???!!」
やっ! これって……
いきなり結花は自分の唾液を私の口内に流し込んできた。
「んくっ……んっ!」
咄嗟のことで対処することも出来ず少し飲んでしまった。溢れたものは口からたれていく。
「んっ! くちゅ、んくっ……ぢゅる…………ぁ、は……」
され始めてどれくらい経っただろう。ほとんど抵抗できず、結花のなすがままだった私のくちびるがようやく解放されようとしていた。
結花のくちびるがゆっくりと、離れ……
パァン!
と、ものすごい音と共に、右頬に熱さが走った。遅れて痛みを感じる。
パン!
私は何が起きたから把握しきれてないでいると、左頬にも同じ熱さと痛みが走る。
そこでやっとビンタをされたんだって気づいた。
「ふふ、あははは、くくふふふ」
結花は、私から離れると人が変わったように笑い始めた。けど、顔はうつむけていて表情を窺い知ることはできない。
「美貴さぁ、よく私とキスなんてできるね」
そして、顔を上げると底の抜けた明るい声でそういった。
正直、私は頭が混乱してて結花が何をいってるかのか、何を言おうとしてるのかわからない。
いきなり無理やりキスをしてきたのは結花なんだから。
「さっき、あの子としてたくせにね」
「え…………」
その言葉が示す意味は一つしかない。
本当は結花を見たときから、そうなんじゃないかって思っていた。それでもそれを認めたくなくて、認めるのが怖くてなるべくその考えを遠ざけようとしていた。
けど、結花の言葉はそんな私の甘い願望を打ち砕く。
「み、みてたの………?」
言葉にすることも恐ろしいけど、言わないわけにはいかなかった。結花は私の問いに黙って頷く。
頷くことはわかっていたはずなのに、頭をおもいっきり殴られたような衝撃を感じる。
「つ、尾けてた、の……?」
「そう、だね。そういうことになるのかな」
「そ、そんな……ひど……」
「ひどい? 今そう言おうとしたの?」
「ひっ……」
結花の声は私ですら聞いたことのない調子で、私は思わず悲鳴にも似た声を出してしまった。
「私だって、こんなことしたくなかったよ? でも、学年上がってから少し付き合い悪くなったし、あの子とは妙に仲いいし、私のデートの誘いは断るし」
結花は、ぽつぽつと笑顔で話を始めた。
「この前の電話のときもなんか変で、あの子の名前出したら変な風に動揺してて、だから今日本当はずっと美貴のこと尾つけようって思った」
そう、表情だけを見ればこれは笑顔、笑顔なのに……
「でもさ、そんな風に考えちゃう自分が嫌になって、美貴の家に行く途中でやめたの。美貴の気持ちを疑うなんて絶対したくなかったから」
やだ、そんな風に言わないで。
結花を包む空気が黒く、暗く染まっていく。
「でも、美貴がほかの人に盗られちゃうなんて思ったらやっぱり怖くなって、お昼ごろ美貴の家いったの。そしたら、美貴、いなくて……美貴がどこにいったか、おばさんも知らないみたいだったし、携帯もつながらないし、駅を使うなんて保障もなかったけど、何もしないで待ってるなんて怖くて出来なかったから、自分でも馬鹿だって思ったけどずっと駅の入り口で待ってたの」
やめて、もう。お願い。
これ以上聞きたくない。
「そしたらさ、二人で仲良く駅からでてくるんだもん」
やめて!
結花の顔は笑っているのに、怒っていて、泣いていて、声はすさまじい感情で震えている。
目をつぶり、耳を塞いでしまいたかった。
これ以上結花の声を聞いていたらどうにかなってしまいそうだった。
「ゆ、ゆか、ご、ごめ、ごめんなさ……」
「でもねっ! それでもねっ! 美貴のこと信じたかった。あの子といるのも、私に嘘ついたのも、何か理由があるんだって思いたかった! 思いたかったのに……」
パァン!!
視界が一瞬あらぬ方向に飛ぶ。思いっきりビンタをされたんだとまた遅れて気づく。
「美貴があの子とキスしてるのを見たら全部ふっとんじゃった。美貴のことを疑う嫌な自分とか、今日一日馬鹿なことしてた私とか、美貴のことを信じたい気持ちとか、全部……ぜん……ぶ」
「ゆ、ゆか……」
「いくら私のキスであの子の痕跡を消そうとしても、美貴があの子とキスしてたっていうのは変わんない。美貴の気持ち、だって」
わたしの、気持…ち……
「ねぇ、美貴……教えてよ。今日あの子といたくせに、明日は明日で私と楽しくお出かけだなんて考えてたの?」
「それ、は……」
「あの子とキスしたその口で、私に同じことをするの?」
「あ……ぅ………」
私は言葉が出なかった。否定も、肯定も、弁解も、何もできなかった。
……できるわけがなかった。
パァアン!!!
四回目のビンタ。
「バカにしないでっ!! バカにしないでよっ!!!」
結花は涙でいっぱいの瞳で私をにらみながら思いっきり叫んだ。瞳から今にも溢れそうなのに、そこからは一滴すら雫がこぼれてくることはなく、淀んだ光を放つだけ。
「ゆ……か………」
私は呆然とした顔で結花を見つめるしかなかった。
「私って…………なに……?」
「ゆか、わた、わたっ、し……っ!?」
結花は私が口を開くとキッとにらむ目線がさらにきつくなる。
そして、右手を大きく振り上げた。
私は、それを見ると無意識に目を硬くつぶった。
(………………?)
しかし、いくら待っても五度目の衝撃はやってこない。
恐る恐る目を開けてみると結花は、
泣いていた。
嗚咽を漏らすことなく、体だけを震わせて、ただ涙を地面に落としコンクリートに染みを作っていく。
「……っ!!」
私の視線に気がつくと、それを隠そうと背中を向けた。
「………………………………………さよなら……………」
そして、長い沈黙の後一言だけそういって背を向けて走りだした。
さよなら、さよなら……?
またね、じゃなくて、さよなら。
「っ!! ゆかっ!」
私は、結花の名前を呼んで遠ざかる背中に手を伸ばした。
追わなきゃ。
思うのに、追いかけなきゃって思うのに、今追いかけなきゃ、永遠に結花が遠ざかってしまいそうな気さえするのに……
動いて、動いてよ……
しかし、心の動きに反して私の足は一ミリたりとも動くことはなかった。
当たり前だった。
結花を追いかける資格なんて、そんなもの私にあるわけないのだから。
私は伸ばした手を、力なくおろすとその場にへたりこんでいった。
私に出来たのは、心が深い絶望に落ちていくのを感じながら、闇へ消えていく結花を見つめること。
ただ…それだけだった。