名前。
それは人を特定するもの。
たとえ同じ人を呼ぶのでも、相手によって呼び方はさまざま。
たとえば、私ははるかだし、はるだし、はるーだし、はるるんだし、遠野だし……遠野さん。
普通は新密度が高い相手ほどファーストネームで呼ぶ。もちろん、名前の呼び方がその親密度の差じゃないことは当然ではある。けど、私の場合は友達や親友って呼べる間柄の九割は下の名前か、それに準じたあだ名。そりゃあ、名字で呼ぶ友達だっているからすべてとはいえないけど、今私が主張したいのはそういうことじゃない。
「……おのさーん」
名前はもちろん、新密度の差じゃない。
それはわかっている。
「遠野さーん?」
わかってるつもり。
「遠野さんってばー」
だけど、本当に親密な間柄、たとえば……恋人……付き合っている二人がお互いのことを名字で呼ぶのは稀なことだと思う。
「うぅう、遠野さんが私のことを無視します……」
もちろん、この人は実に【稀】な人ではある。
でもだからといって、ずっと【遠野さん】なままなのは少しだけおもしろくない。先輩のこと疑ってるなんてこと全然なくても、先輩はすぐに他の人にもいい顔するし、誰が相手でも名字で呼びながらフレンドリーに話をする。
「遠野さんってば〜、かまってくださいよー」
だって、なんだか他の人と【同格】みたいで、私が先輩の特別じゃないみたいで……そんなことないとわかっていても私だけが舞い上がってるみたいなっちゃうじゃない。
まぁ、たとえ名前で呼んでくれたとしたって、別に私と私の先輩の仲が進展するわけじゃないだろうけどね。
(……はぁ)
私は心の中でため息をつくと今までぼーっと見ていた先輩をしっかりと見つめた。
「あ、やっと反応してくれましたね遠野さん」
【遠野さん】
「……はぁ」
「えー……なんでため息つかれちゃうんですか?」
私はいつまで【遠野さん】なんだろう……
……私は先輩と付き合っていると思う。付き合っているはず。
私は先輩が大好きだし、先輩も私のこと好きっていうか、愛してるって言ってくれてる。だから先輩は私もの。私のものだってわかってるから、先輩のクラスの委員長さんや、保健室に尋ねてくる知らない人と話しててもそこまで気に留めたりはしない。
私は心が広いからそれくらいは認めてあげる。
ただ私が気にしてるのは、浮気とかじゃなくて……本当に私と先輩は付き合ってるの? ってこと。
だって、告白する前から何にも変わってない。
名前の呼び方も遠野さんのままだし、することだって休み時間や放課後に保健室デートするだけ。
保健室で話したりしちゃうから寄り道デートもしないし、なぜか休みに遊びにだって行ったりしない。せいぜい携帯のアドレスをようやく交換して、いつでも話せるようになったってことくらい。
それは嬉しいことなはずでも、やっぱり会えるなら直接会いたいしなにより、もっと【恋人】みたいなことしたい。
キスだって、告白の日以来ないし……そもそも手を繋いだりすらしてない。もっともそれを断ってるのは、学校で人に見られるのが恥ずかしいからって私が断っているのだけど。
そんなだから、学校以外でも会いたいのに。
せめて、名前で呼んでくれたりすれば少しは【恋人】になれるような気がするのに。
「遠野さーん」
なのに、先輩は。
当たり前のように今日も保健室でお昼を食べ終えた私に先輩は猫みたいにじゃれ付いてくる。
私の気持ちなんて相変わらずおかまいなしというか察してくれないで【いつもの】なまま、無責任に笑顔を振りまいてべたべたしてくる。
「……ふぅ」
「……だから、どうしてため息つくんですか? 悲しくなっちゃいますよ」
好きっていうのならもっと色々してきてくれていいのに。
「遠野さん」
「っわ! な、なんですか、もう」
ぼーっと考え事をしていた私の目の前に先輩の顔が現れて鼓動を高鳴らせる私。
付き合い始める前はこんな風にされたらびっくりして落ち着いていられなかったけど今なら先輩のことを観察する余裕だってある。
先輩は、困ったような、あきれたような顔で私を見つめていた。
「遠野さんって、ほんとすぐ私のこと忘れますよね」
「な、なにいってるんですか!? 私はいつだって、先輩のこと考えてま……」
す、と最後まで続ける前に今どれだけ恥ずかしいことを言おうとしていたか気づいて口を閉ざす。
考えてたのは嘘じゃなくても、そんな恥ずかしいこといくら先輩相手だからって言えるわけない。
「まぁ、遠野さんがそうなのは今に始まったことじゃないからいいですけど」
「な、なにが【そう】なんですか」
「自覚がないのが困りものですよね。ほんと」
(先輩はなに言ってるんだか)
意味不明なことを言う先輩にちょっとだけ頬を膨らませる。
自覚なしに変なことしてくるのは先輩のほうじゃないですか。なのに、自分のこと棚に上げて私のことまるで変な人みたいに言って。
「ま、とりあえずそれはいいですから。何考えてたんですか?」
「え……」
えーと、結局さっきなに考えてたんだっけ?
そうだ、先輩といまいち【恋人】なれてないなって思って。
でも、恋人ってどんなことしたらいいんだろう。
学生同士で付き合ってて、恋人としてすることなんて……キス、はしたし、またしたいってたまに思ったりもするけど、学校じゃできるわけもないし。手も繋ぎたいし、先輩のこと抱きしめてもみたいって思うけどやっぱり学校じゃしづらい。
……そう、学校が問題?
学校じゃなければ先輩だって、もっと色々してきてくれる? でもなんか先輩って人が多いところ苦手なのかあんまり普通にデートするの嫌みたいだし、あ、でもでも恋人として家に遊びにいくのなら……
「って……遠野さんってば〜」
そうだ。それならなんだか恋人に一歩近づける気がする。
あ……でも、今私の部屋ちょっと散らかってるし、先輩がすきそうなものって私の部屋には私くらいしかない。ゲームとか、漫画もあんまりないし……
そういえば。
私は無言で先輩のことをじぃっと見つめる。
「ん? なんですか?」
先輩って自分のことあんまり話してくれないから先輩のことあんまり知らない。たとえば、先輩がどんな家に住んでるのかも。
(先輩の家……お部屋)
どんなのだろう? やっぱりゲームとか漫画でいっぱい? それとも私と同じような感じ? 全然家具とかなくて閑散としてたり? 案外ぬいぐるみとかいっぱいの可愛い部屋だったり?
(いってみたい、先輩の部屋)
恋人、なんだし。
「先輩」
「あ、はいはい。なんでしょう」
「今日先輩のお部屋に行ってもいいですか?」
「……また、いきなりですねぇ」
先輩は少し疲れたように私のことを見つめてくる。
まったく先輩は私が目の前にいるっていうのにこんな顔して。今さら先輩を疑ったりはしないけど、こんな顔されたらちょっと悲しいのに。
「ダメ、ですか?」
先輩がそんな顔するから私だって不安になっちゃうじゃない。
「んー、だめってことはないんですけどね」
いいじゃないですか。好きな人が部屋に行きたいっていってるんだから。笑顔OKしてくれたって。それともなんですか? 私に見られたら何か不都合でもあるんですか?
否定も肯定もしてくれない先輩に私はやきもきする。
「んー、わかりました。ほかならぬ遠野さんの頼みですから」
「ほんとですか!?」
思わず私は嬉々とした声だした。
「もちろんですよ。遠野さんのおねだりを無視するわけにはいかないじゃないですか」
おねだりって……なんかやな言い方。それに、おねだりしたわけじゃないけど私のお願い聞いてくれないことだっていっぱいあるじゃないですか。
口答えしたいことはあったけど、それを抑えてあげる。
「あ、でも、あんまり驚かないでくださいよ?」
「? はい……」
からかうような調子でそういう先輩に私は、予想通りな部屋なのかなと思って放課後を待つことになった。
けど、予想が的中することが少ないのが先輩なのだ。