私は仕事に対して意義は感じている。
やりがいのあることだと思っている。
最愛の相手にすらそれがきっかけで出会うことができた。
だから基本的には前向きに仕事というものを取られているといっていい。
しかし、それだけですまないのが現実。
生きていれば嫌なことになどいくらでも起きるものなのだ。
◆
「…っち」
すっかり春の陽気になったある夜。
そろそろ春用のコートすらいらなくなるようなそんな暖かな夜に私は自分の部屋の前で舌打ちをしていた。
原因は仕事中の不愉快な出来事。
覚えておく必要もなく、頭の中にも残すこともない一過性のものでさっさと忘れるべきだとは頭ではわかっている。
だが、そのせいで残業までして深夜とは言わないが夜も深い時間での帰宅となれば穏やかでいられるはずもない。
(すみれは……さすがにまだ起きてるでしょうけど)
これはすみれには関係のないことなのだから、なるべく表には出さないようにしようと大きく息を吐いてから部屋へと入っていった。
「ただいま」
「おかえり、お疲れ様」
仕事の都合で遅くなるとは伝えていて、寝室から寝間着姿のすみれが顔を出して出迎えてくれた。
「遅くまで大変ね」
「ん、まぁ」
余計なことを伝えたくはなく短な会話をして着替えのために寝室へと二人で向かう。
「……んー」
主に精神的な疲れが来てるのか、思考が鈍く部屋着にするかそれともさっさと風呂に入ろうかと思考を停止させていると。
「なんか疲れてるみたいだしお風呂入っちゃったほうがいいんじゃない?」
そんなすみれの言葉に「そうする」と答えて、お風呂への準備を整えていった。
お風呂といえばリラックスできる場所と一般的には言われるでしょうね。
私も人並みには好きだけれど、この日はやはり違って、相も変わらず不愉快な感覚は抜けてはくれなかった。
気分の晴れないままお風呂を上がり、寝室へと戻ると。
「お帰り」
少し前にも聞いた言葉だけれど、恰好は先ほどと変わっている。
いつもの寝間着じゃなくて、胸元の大きく開いたライトブルーのナイトウェアに変わっている。
「どうしたのよ、それ」
すみれが気分によって寝間着を変えることはあれど、同じ日にまして私がお風呂にいっているわずかな間に代えるなんてこれまでになかったことだ。
「文葉、はい」
私の問いには答えずすみれはベッドに腰掛けたまま両手をこちらへと広げてまるで私を迎え入れるといったよなポーズだ。
(ま、確かに魅力的ではある)
ネグリジェやベビードールのように嗜好性の高いものではないけれど、太ももは出ているし、肩も薄い紐があるのみで胸元は谷間が見えるほどに肌が眩しい。
「はやく、来なさいよ」
「ん?」
どうやらまさに胸に飛び込んでほしいといったポーズだなと思ったのは正解だったようで、腕を軽く振り私を促してくる。
(何を企んでいるんだか)
そんなことを思いながら近づいていくと
「わっ」
射程距離に入った瞬間、腕が首に巻き付いてきてそのまま体を引かれ
「っ……」
ボスンとすみれがベッドへと倒れ、その上……性格にはすみれの胸に頭を押し付けられるように抱き込まれた。
柔らかな触感は心地いいのだが、状況は理解できない。
「ちょ、っと。なんなのよ」
「何でもないわよ。ただあんたは私に甘えてればいいのよ」
「はぁ?」
いって、さらに腕に力を込められて胸に押し付けられる。
すみれの香りと直の体温と、乳房のほどよい弾力を一層つよく感じ、それはそれでいいんだけど
(これが甘え?)
まぁ確かに創作ではそういう場面にもみえるけど、それは私からこうさせて欲しいと望んだ場合であって、今回のすみれのやり方ではそぐわない気もするけど。
「……………」
それはそれとして、悪い気分ではない。
ハグには心をいやす効果があるというし、いやそんなとってつけたような理由ではなく彼女に胸に包まれているこの状況は悪くないどころか十分に幸せと言っていい状況だ。
「………ふぅ」
自然と安堵の吐息が漏れる。
私の様子を察したのかただの気まぐれかは知らないけれど、すみれも気の利いたことをしてくれるものだと感心をしていると。
「……文葉、私は怒ってるわ」
「は?」
思わぬことに頭を上げようとしたがそれを許されず、腕だけでなく脚まで絡められた。
していることと言っていることが合わない気がするがその複雑な心境を吐露してくれた。
「何かあったのならなんで私に甘えないのよ」
「…………」
「私はあんたの恋人なのよ。何かあったら話なさいよ。頼りなさいよ。なんで私が人に教えてもらってあんたを慰めなきゃいけないのよ」
「……早瀬になんか言われた?」
「……ふん。文葉が落ち込んでるだろうから優しくしてあげろって」
「そ」
この不可解な状況も大体腑に落ちた。
早瀬が余計な気をまわしてすみれに何かを伝えたのだろう。どこまで詳細かは知らないし、余計な誇張なんかもしてそうだがとにかくすみれはそれを受けて私を元気づけようとしたのだ。
それがこんな直情的なうえ、ネタ晴らしをしてしまうところは実にすみれらしいが。
「ふふ」
でもそんならしさが笑みをくれるのだから私も単純……いえ、それだけすみれが愛しいってことね。
「……ん」
自分からすみれに体重をかけて、意識的にすみれの肢体を堪能する。
暖かくて、柔らかくていい匂いして、明け透けで実直で愛しい私の恋人。
「すみれ」
「何よ」
「愛してるわ」
「っ…」
顔は見れないけれど、初心なこいつは赤くなってんでしょうね。
それを感じ取りつつ、今はここに至る経緯となった昼間の不愉快なことも頭の中から消し去り愛しい愛しい恋人の気持ちと体を全身で感じるのだった。
閑話18/