話は数時間前にさかのぼる。
通常通り業務を行っていた私は中庭近くを通りかかって足を止めた。
大きなガラス窓からは中庭が一望でき、この季節では普通であればそんなに人も近づかないのだが。
(珍しい人がいるわね)
見知った相手を見かけて、中庭へと出ていく。
気休め程度の緑の中この時間は建物の影となっているベンチについて
「あおいちゃん」
数少ない友人に声をかけた。
「文葉さん、こんにちは」
「何やってるかと思えば、デューイに会いに来てたの?」
館内から見たときには日陰だったこともあり、黒猫の存在に気付かなかったがベンチにはあおいのほかに先客がおり、文葉のことに興味を示すこともなくあくびをしていた。
「はい。今日は仕事も休みなので。久しぶりに」
そうと短く答えてデューイの隣に座りあおいのさらに隣へと腰を下ろす。
「猫、好きね。そういえば、早瀬と知り合ったのもデューイに会いに来たからだっけ」
「そうですねー。懐かしいです」
二人のなれそめはいつだったか聞いたことがある。デューイが住み着くようになってから、地方紙に取り上げられたりもして一時的に少し話題になったことがあり、あおいちゃんもそれに惹かれてやってきた一人。
そこで早瀬の毒牙にかかった、という言い方は悪いけれど、とにかく早瀬に声をかけられて交流を持つようになったということらしい。
「それと、ちょっと文葉さんとも話したくて」
「っ、私に?」
それは予想外の理由だ。確かに友人ではあるけれど、わざわざ会いに来られる理由に心当たりはなかった。
「雪乃、さんと付き合っていたんですか」
「…………」
なるほど、と得心をした。
(ったく。早瀬が余計なことをいうから)
あまりあけすけに話すことではない過去を問われるのはあまり面白い気分ではない。
すみれには体の関係があったということを認めるだけで済ませたけど、あおいちゃん相手にはそうもいかないかもしれない。
「………あの」
お店にいるときは明るく快活な彼女だが、今は少女のような不安をにじませている。
(……そうかもしれないわね)
何せ、好きな人の話なのだから。
「付き合っていたわけじゃない。それは本当」
「でも」
当然そう続くでしょう。すみれが不満だったように、あおいちゃんにも同じ不満を抱くだけの理由がある。
「エッチする関係だったのも本当」
「……そうですか」
ここはすみれとは違う反応ね。あおいちゃんは早瀬がどんな人間かはわかっているのだから。
不特定多数女性と関係を持っているということを知っている。
本人から聞いたわけじゃないけどあおいちゃん自身もその不特定多数の一人なはずだから。
「私に聞くよりも早瀬から聞いたほうがいいんじゃない?」
それができないから私に会いに来たんでしょうけど。
「そう、なんですけど」
気まずそうに眼をそらし、隣のデューイを撫でる。その無関係の行動がこの話を続けたくも打ち切りたくもあるように見えた。
それを見て再び惑う。
すみれにはこれ以上を話さなかった。話したくないのもそうなら、すみれに対してはあくまで私の問題で、話さなければいけない理由はなかった。
しかし、あおいちゃん相手では事情が異なる。
あおいちゃんは早瀬のことを好きで、でも早瀬にとって自分が一番でないことは知っている。
というより、早瀬に「一番」はいないはず。
容易に手は出して、時には夜を過ごしてもいるでしょうけど、特定の誰かと付き合ったりはしていない。
あおいちゃんは自分が悪く言うなら都合のいい一人だとしても、物足りなさはあってもある程度は納得していただろうに。
(私相手じゃ納得できないか)
それともライバルとでも思われているのかしら?
「あおいちゃん、一つはっきり言っておくけど私は早瀬とはただの友達よ。恋愛感情はないし、もう何年もエッチもしてない。それだけは信じてくれるとありがたいわ」
「…………はい」
頷くも表情は晴れていない。
(……ったく、早瀬は)
心で再び悪態をつく。
私は嘘は何も言っていないし、これ以上は本人に聞くか自分で納得するしかない。
ここでできることはほとんどないと言っていい。
だからこれ以上はもう話すことはないと打ち切ってもいいかもしれないけど。
(…………)
頭の中に早瀬のことを思い浮かべる。それは今の姿じゃなくて、まだ五年ほど前、一緒に働き始めてからすぐの時の姿。
関係があったときの。
早瀬のことには全く責任がないわけじゃないっていうのは歯がゆいところ。
少なくても今の早瀬になる一因を作ったのは私なのは間違いないから、その早瀬の目の前の友人の心をかき乱している根本の原因の一つになっている。
「ねぇ、あおいちゃん。早瀬については、やっぱり私から言えることはほとんどない。私と関係があったのは過去のことだけど、なんでそうなったとかどうしてわかれ……今は一緒じゃないのかとかそんなことは私から無断では言えない」
「わかってる、つもりです」
ここで正しいのは私。機微にかかわることを勝手にいうような人間は信頼には値しない。あおいちゃん相手にもだし、なにより早瀬に申し訳がない。
「ただ、一つ言えるとしたら今の早瀬は特別を作らない。だから私が早瀬の一番だとかそんなことにはなりえないの」
「それって……」
困った顔になっている。こんな意味深な言い方じゃそうでしょうね。
だからこそ
「これ以上は本人に聞きなさいな」
一人で勇気が出ないのなら、その理由を作ってあげることくらいはできる。
結局、自分で動かなければ何も変えられないのだから。
「……はいっ」
そんなことはこの子もわかっているわよね。
「あの、ありがとうございました」
「ふふ、ようやく笑ってくれたわね。やっぱりあなたには笑顔のほうが似合ってるわ」
早瀬ではないけど、女の子は笑っている顔のほうがいいに決まっているのだから。
「さて、それじゃ私はそろそろ戻るわ」
「あ、私も雪乃さんに挨拶したいので」
「そう、それじゃ一緒にいく?」
ようやくいつもの調子を取り戻して私たちは二人で立ち上がり、館内へと戻ろうとした私たち。
その瞬間に
「きゃっ」
私たちにつられたのかデューイが起きてベンチから飛び降りると、あおいちゃんの足元を歩くと急なことに踏みそうになってしまい
「お、っと」
そんなあおいちゃんの腰を抱いてバランスを崩さないようにした。
柔らかな体をこちらへと引き寄せると
「ん? あおいちゃん、シャンプー変えた?」
ふと鼻腔をついた匂いが気になって
「……ん、いい匂いね」
髪へと鼻を近づけてすんすんと香り嗅いだ。
「あ、ありがとうございます。でも、よくきづきましたね」
「そういうの気づいてあげるようにし……いえ、なんでもない。たまたまよ」
早瀬の過去を想ったからか、一緒に暮らしていた時代のことを思い出して今の自分とはかけ離れたことをいうところだった。
「そう、ですか。あ、あのところで」
目の前であおいちゃんは困ったような照れたような顔を浮かべて……
(目の前で……?)
「い、いつまでこうしてるんですか」
頬を染めたあおいちゃんいつまでもあおいちゃんを抱いていることに気づいてしまうのだった。